ブルーマウンテン ~その2~

.
 

 恩師が、好んで飲んでいて、時々、豆をグラインダーで挽いては、『雅仁、いっしょに飲もう!』といって誘ってくれたのが、彼のこだわりの「ブルーマウンテン・コーヒー」でした。この恩師は、澄んだ青い目をパチパチさせ、幸せな表情をしながら、実に美味しそうに飲むのです。その飲み方も、上品でした。『こんなふうにしてコーヒーを愛おしんで飲むのだから、美味しいに違いない!』と思わされたものでした。学校に行っていたときは、新宿や渋谷や目黒などの駅の周辺にあった、「ルノアール」というフランス語の名前のチェーン店があって、みんなで、取り留めもない話をしたり、ノート写しなどをして過ごしました。もちろん安いコーヒーをすすりながら、何時間も過ごしたのです。好きではなかったのですが、まあ付き合いで飲むコーヒーでした。

 働き始め、世帯を持って、この恩師に同行して、彼の事業のお手伝いを始めてから、恩師が、美味しく飲むのに影響されて、私もコーヒーを、習慣的に飲み始めたのです。珈琲の味よりも、そういったゆとりの時が、何とも言えなく贅沢で、貴く感じられたからだと思うのです。そうこうするうちに。虜になってしまいました。この夏、日本に帰りました時に、『そろそろいいか!』と言うことで、母の故郷のコーヒー屋さんに、この「コーヒー豆」を注文したのです。ブレンド・コーヒーと比べたら、けっこう高いのですが、清水(きよみず)の舞台から飛び降りたつもりで、「ブルーマウンテン(500gを4袋、2つは息子たちに上げました)」を、ついに買い求めたのです。そして、大阪国際港から乗った船に乗せて、海路を運んできたのです。こちらの外資系のスーパーマーケットにも、コーヒー豆が売られていますが、この種の豆はないのです。私は、コーヒーの香りや味を見分けるほどの愛飲家ではなかったのですが、今は少し鼻が効くようになってきているかも知れません。

 この2週間ほど前から、恩師が使っていたような手動ではないのですが、「電動ミル」と呼ばれる道具で、豆を挽いて飲み始めています。前に買ったり、頂いた豆が底をついたこともあって、いよいよ念願の「ブルーマウンテン」を飲み始めているのです。豆を引くと、とても良いかおりがしてきて、恩師が挽いてくれた日のにおいがしてきて、懐かしくなってしまいました。家内が嗅いで、『好いにおい!』といい、『少し頂戴!』と言うので、一緒に飲みます。ドリップで入れて飲むのですが、とても美味しいのです。このコーヒーを飲むことを、〈楽しむ〉という余裕の行為が、やはり何とも言えないのです。

 恩師が、東京の病院で召されて、もう十年になります。いろいろなことを教えてもらい、彼の書いた数冊の本も、こちらに持ってきて、書庫に入れて、時々紐解くのですが。彼との八年の月日が、ほんとうに懐かしく思い出されてまいります。彼の友人たちが、ちょくちょくやって来ては、一緒に食事をし、コーヒーを飲み、散歩をし、話し合い、彼らからも教えられました。あのような日々が、自分を作り上げてくれたのだと思い返して、感謝でいっぱいにされています。ジョージアの田舎の出身でしたが、西海岸は時々訪ねたのですが、東南部の彼の育った街は一度も訪ねたことはありませんでした。

 先ほども、飲んだところです。もちろん、彼の飲んでいたものよりは、格が落ちると思いますが、同じ嗜好を受け継ぐということを考えますと、やはり、私は彼の「弟子」であることのなるわけです。時々思うのですが、日本人では考えられないような、思考法を彼から学んだようです。彼は、妻の愛し方も教えてくれたのですから。その出会いに、心から感謝している、秋風が、少々冷たく感じる夕べであります。

(写真は、コヒー豆を挽く「コーヒーミル」です)

仕草

. 

 「たけなわ」を、コトバンク辞書でみますと、『[名・形動]行事・季節などが最盛んになった時。盛が極まって、それ以後は衰えに向かう時。また、そのようなさま。真っ盛り。真っ最中。「主演は今が―だ」「春―な(の)や山野に遊ぶ」「齢(よわい)―」 』とあり、漢字で書きますと、「酣」です。こんなに華南の秋が、季節感を満たして感じられるはのは、在華七回目の秋を迎えて、初めてのことです。いつもですと、夏がずっと続き、あれよあれよという間に秋が束の間に過ぎて、『もう冬?』といった感じだったのですが。抜ける様な秋の空は、こちらにやってくるまで住んだ日本の中部山岳地方の街から見上げた秋空に遜色ないのです。

 この季節は、時間ができると、山あいの温泉にでかけていくのが、唯一の楽しみでした。渓谷に入っていくと、ほとんどの所に、「日帰り入浴施設」があり、600円か800円を払うと、一日過ごすことができるのです。一昨晩、奥様が帰国中の知人を食事に招き、3時間ほど交わりをいたしました。四十代半ば、長男と同世代の男性ですが、ちょっと古式なおじさんといったらいいでしょうか、彼もまた、中国生活で足りないものの一つに、「風呂」をあげていました。肩まで湯につかって、足を伸ばせる浴槽での入浴のことです。湯につかりながら、浴槽の縁に手をかけて、「八木節」か「木曽節」を唸ったら、もう、そこは錯覚の日本になっているのです。幸い我が家には、木造りの風呂桶がありますので、『お安くしておきます!』と誘ってみました。

 我が家の娘たちも古式の子どもで、オヤジ趣味の「温泉」が好きだったようです。まあ総じて日本人は、風呂好きの国民で、さっぱりとしたい気分の強い人種なのかも知れません。一体、日本人は、いつ頃から風呂に使ってきているのでしょうか。ウイキペディアによりますと、『・・・日本人が風呂好きとなった原因として、冬は防寒の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土や、温泉が多いことが挙げられる[要出典]。また神道や仏教の影響を受け、入浴によって垢を落とすことは、心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。 』とありますが、一般的に入浴が行われうようになったのは、江戸時代になってからのようです。1591年に、江戸で銭湯が初めて開業されているそうです。

 最近、ヤマザキ・マリと言われる漫画家の作、「テルマエ・ロマエ 」が人気を集めて、映画化までされているそうです。古代ローマにも入浴習慣があったことから、日本の現代の「銭湯」をおりまぜながらの作品で、奇想天外なマンガだそうです。今では、どこの家にも風呂場があって、便利になりましたが、私たちの子どもの頃には、「◯◯湯」という看板が出ていて、高い煙突の「銭湯」が、どこにもあったのです。父の家には内風呂もあったのですが、母からお金をもらって握っては、町の銭湯に跳んでいって入りました。まあ遊び場のようにしていていたのです。おじさんたちに叱られながら、ふざけて時間を過ごしていたものです。

 聞くところによりますと、昔、街場では、この銭湯の湯船に入る時、『冷え物でございます!』と言って、湯船に入る挨拶をしたそうです。湯加減をぬるくしてしまう失礼を詫びるのが、挨拶ことばだったのです。日本人って、そこまで気を使って共同生活をしていたのかと思って、今さらながら感心してしまいます。そういった人たちの子孫であるが故に、独特な日本人が出来上がっていて、「礼儀正しい日本人」の国際評価を受けているわけです。しかし、こういった会話が、日本の社会から、すこしずつ消えているのではないでしょうか。

 『おい、チンチンとケツ洗ってへえれよ!』と、おじさんに銭湯で言われて、慌てて洗って入ったものです。こういった「下湯」の習慣・作法もなくなって、そのまま湯船に入る若者が多いと、温泉に行くと感じます。どれだけ綺麗になるのかは分かりませんが、その仕草が、人を安心させるのでしょう。やはり日本は、独特な国であると、今さらながらに感心させられております。