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ネットのニュースで、[韓国の生活水準が日本を抜く?]という主題が目に飛び込んできました。私には愛国心がないのでしょうか。隣の国・大韓民国が、日本の技術水準に追いつき、追い越していき、国をあげての企業努力の結果、豊かになるのであれば、それを喜ぶべきだと思うのです。隣国のことなど、どうでも好いのでしょうか。私は、そうではないと思うので、彼らの繁栄を喜びたいのです。
この朝鮮半島は、長い日本支配から脱した直後に、東西に分割されてしまいます。その分裂が「朝鮮戦争(1950年から約3年間)」を勃発させるのです。この韓民族を南北に分けた戦争の悲惨さは、戦争特需の景気で、戦後の荒廃から抜け出せた私たち日本は、全く知らなかったのですし、それほどの関心も示さなかったのです。私の知人のアメリカ人の息子さんが、結婚した相手が韓国系アメリカ人の女性でした。この女性の話を聞いたことがありますが、筆舌に尽くしがたい経験をされていたのです。戦火が広がり、両親と死に別れ、孤児となった彼女は、戦場を逃げまわり、猫のような大きさになった鼠に、幼い仲間が襲われて絶命していくさまを何度も目撃するのです。命からがら逃げ果(おう)せて、アメリカの慈善団体に収容されます。その働きの中で、アメリカ人夫妻の養子になるのです。戦争のないアメリカで成長した彼女が、素晴らしい男性と出会って、結婚に導かれたわけです。
彼女は、自分の半生を隠すことができたのですが、戦争、民族を分断する戦争が、どんなに悲惨なものであるかを訴えたかったのでしょうか。また、養子として育ててくれた養父母への感謝な思いからでしょうか、ご自分の凄絶な過去を語ったのです。実にスリリングな物語で、息を呑むようにして聞いたのを覚えています。戦争が停戦になり(現在も停戦中なのですが)、北からの脅威の中で、日本の繁栄を見聞きして、『追いつこう!』と必死に励んできたのです。日本の製品を購入し、それを解体して、真似て、さらにはより好いものを作る努力をしてきたのです。日本も、かつてそうしてきたわけです。
1974年に、初めてソウルを訪問しました。大通りから少し路地に入ると、貧しい生活の様子が伺えました。日本には比べられない情況でした。夜は薄暗くて、街灯もほとんどありませんし、しかも戦時下の灯火管制、外出禁止令などが出されていた時期でした。バスに乗ったら、私が訪ねようとしていた会社の若い社員が、英語で話しかけてきました。その出会いに感動したのか、『ぼくにバス代を払わせてください!』と言って、払ってくれたのです。『対日感情がよくないので、気をつけなさい!』と言われての訪問でしたが、出会う人たちは誰も、とても親しく接して下さったのです。
『日本に学べ!』と、懸命に励んだ結果、ついには、日本に追いついたのです。しかも昨今は、海外市場では、韓国製品のほうがメインになってきているので、追い越されようとしているのではないでしょうか。彼らは、国際競争に勝つほどの、優秀な製品を輸出しているからです。かつて日本製品が世界を席巻したように、今や、韓国や中国の電気製品が、主流になってきているのです。パナソニックもソニーもシャープも、力を弱めてきています。これは、順番なのかも知れませんね。
逆境を跳ね返してきた韓民族の地力が、そうさせたのでしょう。こういった彼らの今を眺めながら、私はあの戦火を逃げまわった女性の話を、いつも想い出すのです。もう20年以上前になるでしょうか、一人の韓国人の社長と食事をしたことがあります。彼は、『いつか平壌に、自分の会社を立てる夢があり、それが胸の中から燃え出ようとしてるのを止められないほどです!』と熱く語っていました。彼は北朝鮮の出身だったのですから、親族の多くが、まだ北朝鮮で生活していたわけです。その夢を叶えられずに、先年、彼が亡くなったと聞きました。同じよううな夢を見ている人が多くおいででしょう。『きっと、その夢が叶えられる日が来る!』、それが韓民族の切なる願いなのではないでしょうか。
竹島をめぐる領土問題がありますが、敵愾心を燃やしながら争うことよりも、互いの立場を理解し合いながら、隣国を祝福し合おうではありませんか。現・李大統領は、大阪で生まれ育った過去をお持ちなのです。それ程に、この両国も「一衣帯水」の間柄なのですから。私は日本を愛しますが、その愛国心が、隣国への敵対心を助長してしまうことを嫌うのです。だって、韓民族の血を、多くの日本人が受け継いでいますし、多くの在日の友人たちが、私にはいるのです。
(写真上は、現在の近代的なソウル、下は、朝鮮戦争の時のソウルの被災者の様子です)