日本留学

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 天津のアパートから、自転車に乗って、人工池の端にあった、「周恩来記念館」に家内と行ったことがありました。どうして周元総理(江蘇省淮安出身)の記念館が、天津に建てられたかといいますと、この方は「南開中学校」の卒業生だったからなのです。清朝に代わって中華民国が健国された翌年の1913年に入学し、1917年に卒業していますから、4年間学んだことになります。中国の大学の中でも名門の一つと高い評価を得ている「南開大学」の前身なのです。卒業後日本に留学をし、法政大学と明治大学の前身の学校で学んでいます。東京にいた間、浅草や上野や日比谷公園などに、しばしば出掛けては、日本をつぶさに見聞したので、周恩来氏は知日派であったのです。1919年に帰国して、開学された南開大学の文学部に入学しています。 

 神戸から船に乗って、中国に帰国する前に、京都の嵐山を訪ね、一遍の詩、「雨中嵐山」を残しています。1920年には、パリに留学もしているのです。1920年に、鄧穎超(江西省南寧の出身)と結婚し、「おしどり夫婦」と人が羨むような結婚生活を生涯共にしています。このお二人が出会ったのが天津で、そこに記念館が建てられており、この記念館には、「鄧穎超記念館」とも掲げられてありました。このお二人は、何人もの孤児を育て上げており、その中には、後に首相となる「李鵬」がいます。

 中日国交正常化の共同声明ため、1972年9月、北京を訪れた田中角栄元総理と、周恩来氏とが一緒に撮った写真が残っています。実に温厚な周総理に比べ、土建屋の親方のようなぞんざいで脂ぎった顔をした田中総理とは対照的であったのを覚えています。この周総理を、『・・・周恩来氏は文人の家柄の養母に育てられ、幼い頃から穏やかな愛情に包まれて育ち、江浙文化の薫陶を受け、人となりや処世は温良で慎ましい儒家的色彩を帯びていた。』と言っていますから、忍耐強く長い間、中国の政治を任されてきたわけです。

 前にもブログに書きましたが、この記念館を訪ねました時に、何組ものカップルがいたのです。結婚を誓い合った男女は、周、鄧夫妻の「おしどりぶり」にあやかろうとして、この記念館を訪ねてくるのだと言っていました。膀胱ガンを患っていた周総理は、1978年1月8日に亡くなられます。80年の生涯でした。亡くなった時に、預金は殆ど無く、持ち物もほんの僅かだったと言われています。実に清廉潔癖な人であったかがわかるのです。この中国にななくてはならなかった人材であったのです。

 終戦の4日前、1945年8月11日に、ソ連軍が「不可侵条約」を破って、旧満州に進駐しました。そこには、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきていいました。その時、数千人もの人がソ連軍によって虐殺されたのです。当時、総理だった周恩来氏の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し、「方正県日本人公墓」を作らせています。そして、ある時、この「日本人公墓」が破壊されそうになったのですが、周恩来氏は、『彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはいけない!』との指示したのです。地元住民の努力もあって、そのまま残されていると言われています。

 我が国では、衆議院選挙が間近に迫り、また新しい総理大臣が選び出されるのですが、この周恩来氏のような政治指導者が立つことを切に願うのです。『嘘はいけない!』と周りの人に言い、それを自ら実践してきた周氏、「不倒翁」とも呼ばれたこの方のような指導者が出てこないと、若い人たちの心に、夢や幻や理想を与えることができないのではないかと思うからであります。

(写真上は、日本留学時の周恩来〈後列右端)、中は、周夫妻、下は、京都・嵐山にある「雨中嵐山」の碑です)

食欲

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  初めてコカ・コーラを飲んだのは、弟の同級生のお父さんが、アメリカ軍基地に勤めていて、そこで飲まれている瓶入りのコーラを、弟がもらって帰ってきたのを、回し飲みした時でした。その頃、カゼをひいて病院に行きますと、「水薬」が処方されていて、スプーンにとっては、よく飲まされたのですが、その味に、『似てる!』というのが第一印象でした。だから、『うまい!』とは思えず、『アメリカ人は、こんなまずいものを飲んでるのか!』と思ったことでした。でも高校生になった頃には、甘いし、スカッとする炭酸飲料なので、よく買っては飲ようになっていました。今は、出されたら少し飲みますが、ほとんど飲むことはありません。

 父の家の食卓に、よく母が作って並べてくれるようになったものに、「ハンバーグ」がありました。もう60年近く前のことです。駅の近くの肉屋で、牛肉の赤身を挽いてもらって「挽肉」にし、それに、玉葱と人参をみじん切りにして、パン粉と卵とを加えて小判状の形に整えて、フライパンで焼いて、ソースやケチャップをかけ、サラダを添えてくれました。『こんなうまいものをアメリカ人は食べてるのか!』と、しきりに思って、半分アメリカ人になったような気分がしていました。ところが、これは、ドイツのハンブルグの食べ物で、アメリカのものではなかったのを後ほどになって知ったのですが、『ハンブルグ人になったようだ!』と言うべきでした。

 東京では『マック!』、関西圏では『マクドウ!』と呼ばれる、マクドナルドのハンバーグを最初に食べたのが何時だったか覚えていませんが、母以上の味ではなかったのは確かでした。最近、私たちのアパートの向こう側のモールの中で、「カールズJr」というハンバーグショップが営業しています。ごくたまに行って食べますが、マックの比ではなく実に美味しく、それこそアメリカンテイストなのです。私のアメリカ人の恩師が〈マックフアン〉でしたが、生きていて、私を訪ねてきたら、そこにお連れするか、自分でハンバーグを作ってご馳走するのですが、4日ほど前のサンクスギビングデーには、78歳になっていたのです。もう召されて十年になったのですから、時間のたつ速さに驚かされます。

 この恩師は、日本にいた時に、アメリカ的生活をすることなく、日本人のような食生活をしていました。このサンクスギビングデーの食べ物、「ターキー(七面鳥の肉)」を食べる習慣がなかったのです。ある時、彼らの友人が、これをお土産に持って来て、おすそ分けしてもらったことがありました。初めて食べた私は、『こんなうまいものをアメリカ人は食べているのだ!』と、実に羨ましく思ったことでした。アメリカのバガーショップとかサンドウイッチショップに行きますと、必ずといって「ターキー」のものがあるのです。これが実に美味しくて、これを食べるだけでもいいから、アメリカ旅行をしてみたいと思うくらいです。

 やはり食べ物の話がしたくなるのは、「食欲の秋」だからでしょうか。先日、山の中に行った時に、道端で売っていたサツマイモを3種類買って来ました。空気がきれいな山の上で栽培されたものですから、とても美味しいのです。このサツマイモといえば、子どもたちが幼稚園に通っていた時に、みんなで苗を植えて、秋になって収穫するという実習があって、手伝わされたことがありました。「芋づる式」ということばがありますが、芋同士がつるにつながっていて、ゾロゾロと土に中から出てきて、子どもたちは大喜びでした。ホクホクした、蒸かしたサツマイモは実に美味しいものです。

 それでは、これから残してあるサツマイモを蒸すことにしましょう。今朝は今秋、一番寒い朝でしたから、ホクホクしたサツマイモの食べごろになってきています。健康であることを感謝しつつ、「秋の味覚」の一つを〈十時のおやつ〉といたしましょうか。

(写真は、収穫されたサツマイモ(薩摩芋、甘藷)、その下は、薩摩芋の伝播の流れです)

山行きのドライブ

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 中部地方の山岳の一つに「八ヶ岳」があります。富士山と対峙した山々で、JR中央本線や中央高速道路を、甲府からしばらく走りますと、前方から右手に、眼に飛び込んでくる、実に美しい連峰です。2899メートルの赤岳が最高峰で、冠雪を頂い晩秋から冬の光景は、実に見事です。この赤岳は、深田久弥が選んだ「日本百名山」の一つに数えられています。

 この八ヶ岳の山梨県側に、小淵沢と長野県の小諸を結ぶ、「小海線(JR)」という山岳電車があります。この線には、JRの最高駅と言われる「野辺山駅」があります。この一帯は、戦後開拓された農村地帯で、今は、高原野菜と呼ばれるレタスやキャベツなどが栽培されていて、アメリカの農村地帯を彷彿とさせるほどの規模を誇っています。東京大学の天文研究所でしょうか、天体望遠鏡を持った施設も近くにあって、星が降るように見えて、煩わしいこの世のことごとを、一時忘れさせてくれます。

 この八ヶ岳の麓に、牧場や宿泊施設や研修センターなどを持った、「清泉寮」があります。アメリカ人で、立教大学の教授をしていた、ポール・ラッシュが指導して、1938年に、「KEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)」の事業のの一環として 建てられた研修施設でした。戦後、満州などから帰国した人たちに、「農村モデルセンター」として、農業指導にあたったのです。当時、日本中から農業を志す青年たちがやってきて、「牧畜」や「高原野菜の栽培」などを学び、その教えを持って全国に散って行き、牧場経営や農業経営をしていったと言われています。

 私は、ここから眺める山が好きで、幾度となく訪ねては、この寮の名物である、「ソフトクリーム」をなめながら、妻や子や友人たちと語らいながら眺めたものでした。この地域は風光明媚ということで、京浜地帯の学校や会社、更には市や街の宿泊施設が建てられ、また「ペンション」も建てられています。行くたびに、増えていくペンションには、驚かされてしまいました。ですから、夏や春や秋の行楽シーズンの「清里駅」は、さながら原宿のような光景を見せていた時期がしばらくありました。最近では、観光ブームが去ってしまったのでしょうか、人影が少なくなってしまって、もとの静けさが戻ってきているようです。

 昨日、家内と訪ねて来た娘と私は、友人に車で連れていって頂き、山に行って来ました。日本なら、さながら「平家の落ち武者部落」とでも言えそうな、山奥の農村が、「避暑地」として開発されていました。まだまだ「清里」のような賑わいからは程遠いですし、電車の路線もありませんが、これから十年もたてば、「中国版・清里」が出来上がるのではないかと思わされました。部落の真ん中に、樹齢1300年ほどの「杉」が記念樹として保護されていていました。谷底を見下ろすあたりの景観に、娘は感動させられていて、鳥のさえずりが聞こえ、マイナスイオンに触れ、「森林浴」は、シンガポールでは味あえない機会だったようです。

 私が以前、読んだことのある本の著者が、このあたりで「研修会」をしていたという古びた建物も見学することができました。日本から持参した数少ない本の中に、この方の本もあるほどです。それに少々驚かされてしまいました。こんな深山に、車も何もない時代に、人々が登ってきて学んでいたのだと言われて、その学びの余韻が残っているような錯覚も感じてしまうほどでした。もし車を持っていたら、時間の許す限り、思い煩いを麓において、それから登ってきて、『ボーッと放心したり、友人や家族のことを思ったりしたいものだ!』と思ってしまいました。向こうの山に向かって、『ヤッホウー!』と叫んでみましたが、山が高すぎて、〈こだま〉が返ってきませんでした。残念!

(写真は、JR小海線と八ヶ岳です)

ドライブ

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 シンガポールで働いている長女が、一週間の休暇をとって、この日曜日に、私たちを訪ねてくれました。天津にいた時に一度、訪ねてくれ、以前住んでいた家に一度、そして今住んでいます家には、昨年の秋についで、二度目の訪問になります。今、弁当を家内と一緒に作ってくれています。私たちの若い友人が、大学の授業を終えて、昼前に尋ねてくると、昨晩約束してくれ、今日は、近くの「避暑地」にドライブに誘ってくれたので、その昼食の準備をしているのです。あいにく天気が曇りで、ちょっと肌寒い感じがしていますが、車を持たない私たちが、公共バスではなく、自家用車で郊外に出かけられるのは、実に感謝なことです。

 日本では、ずっと車のある生活をしていましたから、バスと徒歩、時にはタクシーのこちらの生活には慣れたとはいえ、『車があったら・・・!』と思う時が、たまあります。久しぶりに尋ねてくれた娘を、飛行場に出迎えたり、近くの観光スポットに連れて行くといった便利さがないのが、ちょっと残念なのであります。成田に着いた娘たちを、何度、車で出迎えに行き、また、成田まで乗せて見送ったことでしょうか。十数年以前のあの頃が、実に懐かしく思い出されてきます。下の娘を送った時に、渋滞にひっかかって、飛行機の出発時間に間に合わないので、近くの駅までターンしたことなどもありました。

 家族の訪問というのは、なんとも嬉しいことなんです。先日、日本に出張した折に買ってきた物をシンガポールの持ち帰って、その持ち物を、自分の持ち物以上にパックして持ってきてくれました。大好物のトマト、佃煮、漬物、家内の肌着、私の冬用のタイツ、その他に、なんと和牛のステーキの肉、サーモンなどもはいっていました。「食べ物」、しかも「日本の味」を楽しませようとしている娘心なのです。子育て中、私たちが演じた役割が、今では逆転してしまっているのには苦笑いで、頬張っては満足しているところです。嬉しいものです。

 アメリカで、子どもたちが学んでいた頃に、生活費や学費でイッパイいっぱいで、小包に好物を詰めて送ることを、ほとんどしなかったのを思い出して、こんなに嬉しく感じるのを実感して、『むりしてでも差し入れしてあげればよかったなあ!』と悔やんだりしています。時間がすぎていくはやさに唖然としているこの頃ですが、タイムスリップできるなら、もう一度父親をやり直せるのなら、食べ物を削ってでも、子どもたちを喜ばせたいと思っております。

 そろそろ迎えに来てくださる時間です。カメラを持って、お弁当を持って、ちょっと厚着をして出かけることにします。そんな晩秋の週日の昼時であります。

(写真は、季節外れですが、アカシヤの花です)

話芸の巧みさ

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 新宿の伊勢丹のそばに、「末広亭」という寄席があります。何度か、このブログでも取り上げたことがあったかと思いますが。背伸びして、早くおとなになりたかった私は、兄のすることを真似たり、兄の服を来たり、様々に兄の〈追っ掛け〉をしていた時期がありました。それは、どうも〈弟の習性〉のようで、「真似乞食」をする年齢があるのだそうです。そんな真似の一つが、よせばいいのに「寄席通い」でした。学校の帰りに、時間とお金のあるときに、暖簾をくぐって、落語を聞きに入ったことがありました。あの時、何を話していたのかは、ほとんど記憶にないのですが、日本の話術の巧みさには、興味が尽きなかったのは感心したものでした。

 落語を日本文化の一翼に押し上げるほどに貢献した噺家に、三遊亭圓朝(1839年~1900年)という方がいました。江戸末期に、江戸の湯島切通町で生まれ、5歳で高座に上がったそうで、江戸、明治の落語界で活躍されています。江戸落語を集大成したことから、〈落語界の中興の祖〉とまで言われています。こういうのを、『たかが落語。されど落語!』といえるのでしょうか。

 話の「うまさ」では、この人の右に出る者はいなかったそうで、明治の文豪、夏目漱石が、このかたの落語が好きで、ちょくちょく寄席通いをして、聞いたのだそうです。漱石の作品の中のくだけた会話文は、圓朝の寄席噺から受けたものだと言われるほどです。近代日本語を形作った夏目漱石に、多大な影響力を与えているのですから、圓朝は高く評価させるべき人ではないでしょうか。

 「青空文庫」というサイトがありまして、どなたもアクセスできるのですが、文字で書かれた噺が、幾つも掲載されています。私は、時々読んでみますが、落語というのは、文字ではなく、音声で聞かなければ、伝わってこないのではないかと結論しております。ですから、テレビやCDやDVDではなく、寄席で聞くなら、落語の良さがわかるのではないでしょうか。

 昭和の噺家で、名人と言われ、自分でも聞いたことのある師匠は、三遊亭円生、古今亭志ん生、柳家小さん、三遊亭金馬あたりではないでしょうか。この志ん生の長男で、先年、惜しまれて亡くなった古今亭志ん朝の兄である、金原亭馬生という噺家がいましたが、落語のうまさでは、ピカ一なのではないかと思います。それぞれ贔屓(ひいき)があると思いますが、お父さんの志ん生も、弟の志ん朝も、とびきりの噺家でしたが、私は、金原亭馬生が好きでした。そう、過去の人になってしまいました。私も話す仕事をしていましたので、そういったことで「落語」には強い関心があったのです。

 中国にも、掛け合い漫才のような芸人がおれるようで、テレビ等で聞くことができます。ところが、日本のような、一人で、三味線のお囃子で登場し、扇子と手拭いだけを小道具に、座布団の上に座って話芸をし、悲しみ思い悩んでいる人を、笑いに誘うプロの芸というのは、驚くほどの話術だと思います。腹を抱えて笑ったのは、三遊亭金馬の落語でした。ラジオで聞いた中学生の私が、笑い転げ、思い出しては吹き出すほどだったのです。

(写真は、CDのスチールの「金原亭馬生」です)

『あっ、いけねー!!』

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 この街に来たての時に、小さなくだもの屋さんで「柿」を買いました。赤くて美味しそうだったからです。家に帰って、皮を向いて頬張りましたら、『渋うううう!』と声を上げてしまったのです。それ以来、『中国の柿は、ドロドロと柔らかいか、渋いのだ!』と結論してしまいました。それ以来、秋になるたびに店頭に並べられてある、秋の最高の味覚で、『柿が赤くなると、医者が青くなる!』という好物を避けてきたのです。

 ところが、だったのです。今日の日曜日の朝、いつも降りる一つ手前のバス停で、家内と一緒にバスから降り、家内が友人宛に書いた手紙をポストに投函しました。この路線で、行く先に唯一あるポストだからでした。一停留所歩いた時に、いつも通らない奥の道を歩いたのです。そこは両側にたくさんの店があって、人だかりがイッパイの脇道でした。雑貨道具、寝具、精肉、野菜などなど、数多くの物が売られていました。そこに数軒のくだもの屋もありました。秋たけなわですから、何種類もの柑橘類の黄色が目立つ店頭に、「柿」も数種類並んでいました。家内に、『帰りもこの道を通って、この柿を買おうか!』と言って通り過ぎました。

 用がすんで、行き先の家から、大通りに出ましたら、なんと交通規制がしかれていて、「POLICE(警察)」と印字されたテープが、延々と上下6車線の道路の両脇に張られていて、沿線は人と車の動きが封じられて、人であふれていました。その人をかき分けて、脇道に入り、朝のくだもの屋で、お目当ての柿を買いました。7つほどで、13元でした。ちょっと高めでしたが、何年ぶりかに買い求めた「柿」を引っさげて、家の近くの「麺類店」で、この土地の名物の麺を食べました。独特の味付けで、私の好物なのです。最近、家内を誘ってよく食べています。以前は3元だったのですが、今では7元になっていますが、諸物価高のこの頃であります。お腹がくちくなって、家にたどり着き、早速、件(くだん)の「柿」を洗って、皮を向いて、おそるおそる口に含みましたら、なななんと、甘いではありませんか。あの御所柿や大きな富有柿にも匹敵するような「甘さ」だったのです!

 『うわー、もっと早く出会いたかった!』との思いが、一番に湧き上がって参りました。あの何年か前の決断は、先入観だったわけです。こんな「うまい柿」が中国にあったのです。それを知らなかったばかりに、何か損をしてきたように感じてしまいました。くだもの屋の板番(Laoban、店主の意味です)に、『甜吗(Tianma、甘いですか?)』と聞いたら、『甜!』と応えてくれたのですが、其の応答に疑いが半分でした。ところが、食べてみて、その言葉は本当だったのです。

 無くなっていたものが、何年もたってから返ってきたような感じがしております。私の好きな果物は「柿」なのです。それで、『私の好きな外国の果物は「ドリアン」、私の好きな日本の果物は「柿」・・・』に訂正したいと思います。でも、自分の好きな「ドリアン」も「柿」も、ここ中国で食べているのですから、どういった表現にしたらいいのでしょうか。「柿」といえば、あの石田三成に倣(なら)って、決して「柿」を食べない弟の顔が浮かんで参りました。あっ、いけねー、弟の誕生日が、11月14日だったのを忘れていました。この十日頃に、『誕生祝いのメールを出さなくては!』と思っていたのですが、忘れてしまいました。早速、四日遅れの誕生祝いをすることにしましょう!

(イラストは、「素材屋花子〈http://sozai.rash.jp/p/000052.html〉」の作品です)

「望郷」

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 中高6年間、通学した中央線の国分寺駅の北口に、「名画座」がありました。今でもあるのでしょうか。銀座や新宿や渋谷などにあった「封切館」は、新作の映画が上映されていたのですが、都下の通勤通学駅にあった「名画座」は、何年も何年も前に上映されたアメリカやフランスの映画を再上映していたのです。二本立ての映画が週替わりで上映されて、入場料は幾らだったのでしょうか、親にもらった小遣いを工面しては、たびたび観に行きました。制服を着ていて、どこの学校の学生かわかるのに、学校に通報されるようなことがなかったのです。食い入るように、映画の世界に浸り込んでいた時代だったのです。

 1950年後半~60年前半の頃、日本は、まだまだ欧米諸国の生活水準には至らなかった時期でしたから、スクリーンに映る、アメリカやフランスの物量の豊かさや、華麗な生活に圧倒されてしまいました。それはそれは羨ましい気持ちで、眺めてはため息をついていたのだと思います。乗り古した車が、うず高く積まれている場面に度肝を抜かれ、『日本はまだまだアメリカには及ばなんだな!』と思うことしきりでした。

 そんな多くの映画の中で、「望郷(Pépé le Moko)」という フランス映画 が、名画座でかけられていて、観ました。名優ジャン・ギャバンの演じる、「ペペル・モコ」が主人公で、北アフリカのアルジェリアのアルジェが舞台でした。ペペル・モコは、パリ警察の追求を逃れて、このアルジェに逃げ込んだ犯罪者だったのです。彼の恋物語や、パリへの望郷の思いが、この作品の物語の中心だったでしょうか。「カスパ」という街の一画は、犯罪者のたまり場所でしたが(現在では、世界遺産に指定されているそうです)、活気に満ちていたのが思い出されます。真っ青な空の高い北アフリカ、その海も紺青色にかがやき、波頭が白い、そんな異国情緒があふれていた映画でした。「FIN」という、終わりの字幕が出る直前に、ペペル・モコが、『キャビー!』と呼ぶ声が、実に印象的でした。

 今度帰国しましたら、国分寺で下車して、昔、学校を早退して、ちょっぴり後ろめたい思いで歩いた道をたどって、名画座に行ってみようかな、と思っております。斜陽で、多くの映画館が閉館を余儀なくきれていますから、もう無いかも知れませんね。我が青春の一ページを、めくり返したい気持がしてきているのは、晩秋のたたずまいのせいかも知れません。犯罪はともかく、恋に命がけに生きるペペル・モコの生き方の真似など出来ませんでしたが、あの眩しく輝く北アフリカの光景も、妙に瞼に焼き付いているのは、どうすることもできません。

(写真は、アルジェリアの首都アルジェの「カスパ」と呼ばれる街の路地裏の今の様子、下は、「カスパ」の遠望です)

『日本人とは?』

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 明治になって、『いったい日本人って何だろうか?』という思いで、〈日本人のアイデンティティー〉を探ろうとした人たちが、何人かいました。政治の側面では、〈欧化〉の動きがはなはだ強くて、遅れをとっていた日本が、その挽回に躍起になって、国際社会に踊り出ようとしていました。その頃の動きを、三島由紀夫が書きました、「鹿鳴館」という戯曲で、井上馨という明治政府の要人を主人公に描き、映画化もされてきています。躊躇狼狽している明治人の姿が見えてきます。人種的にいえば、縄文人の中に、大陸からの渡来人の血が混じって(ある方はイルクーツク周辺のルーツを求めている説もありますが)、形作られているのですが、精神的に、日本人とは一体何なのか、これが求められていた時代だったわけです。

 上州・高崎藩士の子であった内村鑑三は、「代表的日本人」を書き上げました。1894年のことでした。同じ年に、岡崎藩士の子で地理学者であった志賀重昂は、「日本風景論」を書き、大ベストセラーになります。その五年後の1899年に、盛岡藩士の子で、後の国際連盟の事務次長を務める新渡戸稲造は、「武士道」を書き、福井藩の下級武士の子で、明治の日本を代表する画家の岡倉天心は「茶の本」を1906年に書き上げています。鎖国の閉鎖社会、諸外国と交渉しない時代には、『俺って誰だ?』、『お前は誰だ?』と問われる必要も答える必要はなかったのです。ところが、欧米の列強諸国の間に出て行って、接触していくためには、どうしても、この「日本人論」が必要であったのです。それで書かれ、自分で自分を認知し、諸外国に知らしめる必要があったのです。日本と日本人が、劣等意識にさいなまれ、不安なただ中で、こういったものが書き著されたわけです。内村、新渡戸、志賀の三人は、札幌の農学校に学んだという共通項を持っているのも不思議です。

 これらの著作が刊行される伏線に、外国人が書いた「日本人論」、「日本論」があって、十二分の理解があって書かれていない間違いや偏見があり、それに承服できなかったからでした。『俺たちの手で!』と言った意気込みと、焦りがあっての執筆だったことになります。内村も新渡戸も岡村も、英文で執筆しているのです。やがて英文の著作が、日本語に翻訳されて刊行されるのです。そして、これらの本を読んだ日本人が、ここで初めて、『日本人とは、こういった者であるのだ!』と認めるにいたったわけです。私はこれらを読んで、改めて日本人とは何か、どうあるべきかを教えられたのです。

 私の恩師が、「『甘え』の構造(1971年刊行)」という、医者で大学教授の土居健郎の著した本を読んで、日本人を理解しようとしていたことがありました。日本人の持つ「甘え」が強調されすぎているのは、日本人の全体像を捉えるには足りないと思います。また、ベネディクトは「恥の文化」を掲げ、日本人の「恥」を強調しているのは、一面だと思われます。この「不思議な日本人」について、多くの人たちが書を表していますが、数学者などの科学者が書いているのも興味深いと思います。

 外国生活を始めて七年、日本人の理解に苦しむ人たちの間で過ごし、距離をおいて日本を見つめてきました。いくつもの「日本人論」に目を通しますと、自分なりの「日本人観」が出来上がってきているのが分かります。しかし私の願いは、「日本人であること」に、拘りすぎて、中国や朝鮮半島の人々との間で、齟齬(そご)をきたしている現状を鑑みて、「アジア人」、「地球人」、いえ「人」であることに、関心を向けたいのであります。もちろん、日本人であることは自明の事実ですから、感謝の思いはあふれています。でも感謝や誇りが行き過ぎるなら引き、同じか弱い「人」の立場で、互いを理解し合ったほうがよいと思うのです。

(挿入画上は、「代表的日本人」岩波文庫版の表紙、下は、「『甘え』の構造」文堂版・表紙です)

大雄飛

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 アメリカに住んでいる私の友人に便りを出す時には、

     Mr.James Dean
     123.Hawaii main st. Honolulu、Hawaii、
     USA  12345678

という風に、封筒に宛先と住所と名前を書きます。ところが、中国も韓国も同じなのですが、日本の友人に宛てて書くときには、

     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
           山田太郎 様

と記します。国際郵便の表記というのは、アメリカに出すようにして書かなければならない決まりがあるようですが、私たちの国内郵便は、大きな世界から、だんだんに小さい行政単位に降りてくるように、〈ズームイン〉して書きます。ところが、アメリカなどは、家の区画の番号から、通り、市、州、国と言った風に、小さな世界から大きな世界に向かって、広がっていくように、〈ズームアウト〉に記すわけです。どちらがいいのか、郵便配達をする人に聞いてみるとはっきりしますが、彼らは、『日本式のほうがいい!』というのに決まっています。このほうが、人を探し出しやすいからです。

 名前の書き順でも、違いがみられます。「山田太郎」、私たちは「姓」そして「名」の順、すなわち「苗字(家名)」を先に書いて、名前を後にします。ところがアメリカなどでは、「James Dean」、個人の名前を先にし、姓を後にするのです。私は、ひねくれていますので、Masahito、hirota と書く時があります。「名刺」にも、このような傾向がみられます。日本の会社に務める山田太郎の名刺は、

     アジア商事株式会社
     第一営業部アジア課東アジア係
    係長  山田  太郎
     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
     電話 0312ー3456ー7890

と記されています。ところが、アメリカ人の方の名刺ですと、

      James Dean
     Chairman&CEO
    AMERICAN FIRST COMPANY
   123、Hawaii main st. Honolulu、Hawaii
    Phone 12345678901

という風に印刷されてあります。やはり、東洋的な考え方と、西洋的な考え方には、根本的な違いがあるようですね。石川啄木の有名な短歌に、「東海の 小島のいその 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」がありますが、〈東海➽小島➽磯➽白砂➽我〉に、詠まれているのにも、〈ズームイン〉していく、日本人的な表現法になっているのに納得させられます。
 
 何だか、われわれアジア人は、大きな世界から、狭い世界に向かって萎縮していくように感じられてしまい、大海原や大地に向かって、雄飛しにくさがあるように感じてならないのです。明の時代、四川省の出で、「鄭和(1371年 – 1434年))」という人がいました。『コロンブスよりも前に、アメリカ大陸を発見しているのではないか!』と言われるほどの大航海をした冒険家でした。アラビヤやアフリカなどとの交易で、男のロマンを生きた人だったようです。〈外に出たがらない症候群〉の現代の若者たちに、『こういった気概を持って、大雄飛をしてもらいたい!』、そう思う11月中旬の晩秋の宵であります。

(写真は、鄭和の乗った船(復元)です) 

『さようなら!』

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 時代劇映画で、鞍馬天狗だったでしょうか、人前から離れ去って行く時に、『さらば!』と言っていました。こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、『see you again!』と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

 こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになりました。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

 このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

 アメリカ人の恩師と一緒に歩いていて、近くの学校の知り合いではない中学生たちが、行き合うときに、『こんにちは!』と言ってきたり、ある中学生は、『さようなら!』と挨拶をしていました。恩師は、『この「さようなら」はおかしいよ!』と言ったのです。中学生たちは、アメリカ人だし、珍しいので、声を掛けたかった。それで言葉を見つけてみても、どう言ったらいいのか迷ってしまう。だけど、日本語には、『お早うございます!』、『こんにちは!』、『こんばんは!』があるし、『さようなら!』もある。それで、それらの用語を、意味なく使って、表敬の挨拶をしているわけです。すれ違って、離れていくのだから、一番ふさわしいのは、『さようなら!』になるわけです。それは、私はおかしいとは思わなかったのですが、英語圏の文化で生きてきた人にしてみると、『さようなら!』は、やはりおかしいのだということが分かったのです。

 太宰治が、「さよならを言うまえに」という随筆や「グッド・バイ」を書いています。この太宰を慕い、彼の墓前で自死した田中英光も、「さようならの美しさ(昭和17年)」を書いています。この田中英光は、遺書の中で、子どもたちに向かって、『さようなら!』と言って死んで行きました。この遺書を読んだ時に、この『さようなら!』があまりにも悲しいので、背筋が寒くなったことがありました。流行歌にも、この『さようなら!』という言葉を歌ったものが多くありますが、やはり、けじめを大事にする日本人は、この言葉が好きに違いありません。

 私は、一つの決心をしているのです。死ぬときは、『またね!』と言おうと思うのです。言えるかどうかは分かりませんが。きっと、死でけじめを付けられない自分だと思うので、訣別や惜別よりも、《再会》の願いを込め、後日譚(ごじつたん)を語りたいので、『またね!』と言いたいのです。《さようならの死》は、『仕方がない!』とか〈諦め〉に通じるようですから、《またねの死》にしたい!

(口絵は、田中英光が著した「オリンポスの果実」の表紙です)