『さようなら!』

.

 時代劇映画で、鞍馬天狗だったでしょうか、人前から離れ去って行く時に、『さらば!』と言っていました。こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、『see you again!』と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

 こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになりました。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

 このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

 アメリカ人の恩師と一緒に歩いていて、近くの学校の知り合いではない中学生たちが、行き合うときに、『こんにちは!』と言ってきたり、ある中学生は、『さようなら!』と挨拶をしていました。恩師は、『この「さようなら」はおかしいよ!』と言ったのです。中学生たちは、アメリカ人だし、珍しいので、声を掛けたかった。それで言葉を見つけてみても、どう言ったらいいのか迷ってしまう。だけど、日本語には、『お早うございます!』、『こんにちは!』、『こんばんは!』があるし、『さようなら!』もある。それで、それらの用語を、意味なく使って、表敬の挨拶をしているわけです。すれ違って、離れていくのだから、一番ふさわしいのは、『さようなら!』になるわけです。それは、私はおかしいとは思わなかったのですが、英語圏の文化で生きてきた人にしてみると、『さようなら!』は、やはりおかしいのだということが分かったのです。

 太宰治が、「さよならを言うまえに」という随筆や「グッド・バイ」を書いています。この太宰を慕い、彼の墓前で自死した田中英光も、「さようならの美しさ(昭和17年)」を書いています。この田中英光は、遺書の中で、子どもたちに向かって、『さようなら!』と言って死んで行きました。この遺書を読んだ時に、この『さようなら!』があまりにも悲しいので、背筋が寒くなったことがありました。流行歌にも、この『さようなら!』という言葉を歌ったものが多くありますが、やはり、けじめを大事にする日本人は、この言葉が好きに違いありません。

 私は、一つの決心をしているのです。死ぬときは、『またね!』と言おうと思うのです。言えるかどうかは分かりませんが。きっと、死でけじめを付けられない自分だと思うので、訣別や惜別よりも、《再会》の願いを込め、後日譚(ごじつたん)を語りたいので、『またね!』と言いたいのです。《さようならの死》は、『仕方がない!』とか〈諦め〉に通じるようですから、《またねの死》にしたい!

(口絵は、田中英光が著した「オリンポスの果実」の表紙です)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください