天津のアパートから、自転車に乗って、人工池の端にあった、「周恩来記念館」に家内と行ったことがありました。どうして周元総理(江蘇省淮安出身)の記念館が、天津に建てられたかといいますと、この方は「南開中学校」の卒業生だったからなのです。清朝に代わって中華民国が健国された翌年の1913年に入学し、1917年に卒業していますから、4年間学んだことになります。中国の大学の中でも名門の一つと高い評価を得ている「南開大学」の前身なのです。卒業後日本に留学をし、法政大学と明治大学の前身の学校で学んでいます。東京にいた間、浅草や上野や日比谷公園などに、しばしば出掛けては、日本をつぶさに見聞したので、周恩来氏は知日派であったのです。1919年に帰国して、開学された南開大学の文学部に入学しています。
神戸から船に乗って、中国に帰国する前に、京都の嵐山を訪ね、一遍の詩、「雨中嵐山」を残しています。1920年には、パリに留学もしているのです。1920年に、鄧穎超(江西省南寧の出身)と結婚し、「おしどり夫婦」と人が羨むような結婚生活を生涯共にしています。このお二人が出会ったのが天津で、そこに記念館が建てられており、この記念館には、「鄧穎超記念館」とも掲げられてありました。このお二人は、何人もの孤児を育て上げており、その中には、後に首相となる「李鵬」がいます。
中日国交正常化の共同声明ため、1972年9月、北京を訪れた田中角栄元総理と、周恩来氏とが一緒に撮った写真が残っています。実に温厚な周総理に比べ、土建屋の親方のようなぞんざいで脂ぎった顔をした田中総理とは対照的であったのを覚えています。この周総理を、『・・・周恩来氏は文人の家柄の養母に育てられ、幼い頃から穏やかな愛情に包まれて育ち、江浙文化の薫陶を受け、人となりや処世は温良で慎ましい儒家的色彩を帯びていた。』と言っていますから、忍耐強く長い間、中国の政治を任されてきたわけです。
前にもブログに書きましたが、この記念館を訪ねました時に、何組ものカップルがいたのです。結婚を誓い合った男女は、周、鄧夫妻の「おしどりぶり」にあやかろうとして、この記念館を訪ねてくるのだと言っていました。膀胱ガンを患っていた周総理は、1978年1月8日に亡くなられます。80年の生涯でした。亡くなった時に、預金は殆ど無く、持ち物もほんの僅かだったと言われています。実に清廉潔癖な人であったかがわかるのです。この中国にななくてはならなかった人材であったのです。
終戦の4日前、1945年8月11日に、ソ連軍が「不可侵条約」を破って、旧満州に進駐しました。そこには、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきていいました。その時、数千人もの人がソ連軍によって虐殺されたのです。当時、総理だった周恩来氏の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し、「方正県日本人公墓」を作らせています。そして、ある時、この「日本人公墓」が破壊されそうになったのですが、周恩来氏は、『彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはいけない!』との指示したのです。地元住民の努力もあって、そのまま残されていると言われています。
我が国では、衆議院選挙が間近に迫り、また新しい総理大臣が選び出されるのですが、この周恩来氏のような政治指導者が立つことを切に願うのです。『嘘はいけない!』と周りの人に言い、それを自ら実践してきた周氏、「不倒翁」とも呼ばれたこの方のような指導者が出てこないと、若い人たちの心に、夢や幻や理想を与えることができないのではないかと思うからであります。
(写真上は、日本留学時の周恩来〈後列右端)、中は、周夫妻、下は、京都・嵐山にある「雨中嵐山」の碑です)