『日本人とは?』

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 明治になって、『いったい日本人って何だろうか?』という思いで、〈日本人のアイデンティティー〉を探ろうとした人たちが、何人かいました。政治の側面では、〈欧化〉の動きがはなはだ強くて、遅れをとっていた日本が、その挽回に躍起になって、国際社会に踊り出ようとしていました。その頃の動きを、三島由紀夫が書きました、「鹿鳴館」という戯曲で、井上馨という明治政府の要人を主人公に描き、映画化もされてきています。躊躇狼狽している明治人の姿が見えてきます。人種的にいえば、縄文人の中に、大陸からの渡来人の血が混じって(ある方はイルクーツク周辺のルーツを求めている説もありますが)、形作られているのですが、精神的に、日本人とは一体何なのか、これが求められていた時代だったわけです。

 上州・高崎藩士の子であった内村鑑三は、「代表的日本人」を書き上げました。1894年のことでした。同じ年に、岡崎藩士の子で地理学者であった志賀重昂は、「日本風景論」を書き、大ベストセラーになります。その五年後の1899年に、盛岡藩士の子で、後の国際連盟の事務次長を務める新渡戸稲造は、「武士道」を書き、福井藩の下級武士の子で、明治の日本を代表する画家の岡倉天心は「茶の本」を1906年に書き上げています。鎖国の閉鎖社会、諸外国と交渉しない時代には、『俺って誰だ?』、『お前は誰だ?』と問われる必要も答える必要はなかったのです。ところが、欧米の列強諸国の間に出て行って、接触していくためには、どうしても、この「日本人論」が必要であったのです。それで書かれ、自分で自分を認知し、諸外国に知らしめる必要があったのです。日本と日本人が、劣等意識にさいなまれ、不安なただ中で、こういったものが書き著されたわけです。内村、新渡戸、志賀の三人は、札幌の農学校に学んだという共通項を持っているのも不思議です。

 これらの著作が刊行される伏線に、外国人が書いた「日本人論」、「日本論」があって、十二分の理解があって書かれていない間違いや偏見があり、それに承服できなかったからでした。『俺たちの手で!』と言った意気込みと、焦りがあっての執筆だったことになります。内村も新渡戸も岡村も、英文で執筆しているのです。やがて英文の著作が、日本語に翻訳されて刊行されるのです。そして、これらの本を読んだ日本人が、ここで初めて、『日本人とは、こういった者であるのだ!』と認めるにいたったわけです。私はこれらを読んで、改めて日本人とは何か、どうあるべきかを教えられたのです。

 私の恩師が、「『甘え』の構造(1971年刊行)」という、医者で大学教授の土居健郎の著した本を読んで、日本人を理解しようとしていたことがありました。日本人の持つ「甘え」が強調されすぎているのは、日本人の全体像を捉えるには足りないと思います。また、ベネディクトは「恥の文化」を掲げ、日本人の「恥」を強調しているのは、一面だと思われます。この「不思議な日本人」について、多くの人たちが書を表していますが、数学者などの科学者が書いているのも興味深いと思います。

 外国生活を始めて七年、日本人の理解に苦しむ人たちの間で過ごし、距離をおいて日本を見つめてきました。いくつもの「日本人論」に目を通しますと、自分なりの「日本人観」が出来上がってきているのが分かります。しかし私の願いは、「日本人であること」に、拘りすぎて、中国や朝鮮半島の人々との間で、齟齬(そご)をきたしている現状を鑑みて、「アジア人」、「地球人」、いえ「人」であることに、関心を向けたいのであります。もちろん、日本人であることは自明の事実ですから、感謝の思いはあふれています。でも感謝や誇りが行き過ぎるなら引き、同じか弱い「人」の立場で、互いを理解し合ったほうがよいと思うのです。

(挿入画上は、「代表的日本人」岩波文庫版の表紙、下は、「『甘え』の構造」文堂版・表紙です)