きっと!

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 近くの「超市(スーパーマーケット)」での先ほどの光景。
 レジに並んでる私の前の客。三十前のご婦人。『2毛ある?』と言われて、無言で、レジの台の上にお金を投げたのです。渡すのでも置いたのでもなく、投げたのです。おかねを投げるという仕草が、中国に来て一番驚いたことでした。今は慣れましたが、「金」に「お」をつけて「お金」というように躾られてきた私は、物を乞う人の缶の中に、お金を入れるのにも、決して「投げる」ことはしません。静かに「入れる」のです。『この人、怒ってのかな?』と思うと、平然としているのです。『親や、自分の子どもにお金を渡すときも、投げるのかしら!』と、思ってしまうのですが。『感謝があったらこういった行動はしないよね!』と思うのですが、いかがでしょうか。最近では、台湾系とイギリス系とフランス系のスーパーのレジは、『歓迎!』の言葉を語りかけてくれますが。『買ってもらう!』という思い、『売っていただく!』という思いが欠如しているのでしょうか。

 文化といえば文化、伝統といえば伝統、習慣といえば習慣ですが、『これだけは改めて欲しいなあ!』としきりに思うのです。先日も、公共バスに乗っていて、80代のご老人が乗って来ました。この国では、70歳以上は市内バスの料金は無料になっているのです。それで「老人カード」を提示するわけです。ところが、この方は提示しないで乗ってきたのです。運転手、40歳ぐらいでしょうか、烈火のように怒って、『カードを見せろ!』と何度も何度もいうのです。もちろん提示をしなかったのはいけないのですが、物には言い方があります。言われたご老人は、恥をかいて、照れ笑いをしていました。ズボンのポケットの中から身分証とか一緒になって輪ゴムで一緒にしてあった中から、カードを見付け出して、提示していました。義務違反ですから、老人に落ち度があるのは事実です。この様子を見ていた私たち乗客も、ハラハラして眺め、実に不愉快でした。

 昔から、この社会は「敬老精神」に富んでいたのですが、この運転手は『無礼者!』です。最近の若い人たちの多くの方は、家内や私がバスに乗ると、スクッと立って席を譲ってくれるのです。大学生、若い勤め人、四十代の男性の方が、よく譲ってくれます。それで『謝謝!』と言って座らせてもらうのですが。私は中国が好きですし、中国人も大好きですが、人間と人間の間に、もう少し「潤滑油」が必要に感じております。買ってあげたのだから、『ありがとう!』などいう必要はない、と知人に言われますが、私たちは、つい『ありがとう!』と言ってしまいます。たまに、『謝謝!』と言っている中国人を見かけますが。そういえば、昔の日本は、同じだったのではないでしょうか。日本が、「アメリカナイズ/Amricanize(アメリカ風)」されてから、労い感謝することば使われ始めたのです。昔、公務員の態度が悪かったですよね、警察官も。ところが今では、みんな変えられてしまいました。例外は別として。3年後には、あの三十前のご婦人も、洗練された態度の女性になるのではないでしょうか。きっと!

(写真は、この秋のゴールデンウイークの時の「万里の長城」の様子です)

徳川様

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江戸時代、幕府が嫌ったものに「橋」がありました。幕府のお膝元を守るために、防衛上の理由から、河川に橋をかけることを禁じたのです。江戸市内には、日本橋とか永代橋とかありましたが、多摩川にも江戸川にも「橋」はありませんでした。それで橋を渡るには、「渡し舟」が利用されたのです。

1978年に、「矢切の渡し(作詞・石本美由起、作曲・船村徹、歌・ちあきなおみ)という歌謡曲が発表されました。

つれて逃げてよ
ついておいでよ
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも
恋に生きたい 二人です

見すてないでね
捨てはしないよ
北風が泣いて吹く 矢切の渡し
噂かなしい 柴又すてて
舟にまかせる さだめです

どこへ行くのよ
知らぬ土地だよ
揺れながら艪が咽ぶ 矢切の渡し
息を殺して 身を寄せながら
明日へ漕ぎだす 別れです

この「渡し」は、江戸川を挟んで、江戸の柴又と下総(しもうさ)の矢切との間を行き来していた「農民船」でした。この歌謡曲は、江戸を捨てて、下総に駆け落ちしていく二人を歌ったものですが、「親の心に背く恋」だから歌になるのでしょうか。

私が育った街にも、かつては「渡し船」がありました。多摩川を挟んで立川の対岸にある宿場街、「日野宿」です。「内藤新宿」から数えて五番目の宿場で、川の近くに宿場があったというのは、雨季の増水で「川止め」になると、雨が上がって、水が引くまで、川を渡れなかったからでした。その様子を描いた、山本周五郎の時代小説、「雨あがる」があり、映画化までされていますが、徳川様は、ずいぶんと厄介なことをしたものです。

この渡し場のあったあたりで、子どもの頃によく泳ぎました。すぐ上の兄が、「鰻」をとるための「仕掛け」をしていた川でしたが、一匹もとれた試しがありませんでした。勉強のためには早起きなど決してしない兄が、このためには、薄暗い中に起きだしていったのには驚かされたものです。石本美由起が、「矢切」と詠み、「・・・ 揺れながら艪が咽ぶ 日野の渡し・・・」としなかったのは、語呂が合わないからであり、多摩川には、「駆け落ち」のような色恋沙汰とは相容れない健全さがあったからでしょうか。そう言っても、この渡しのそばにあった「佐藤道場」では、若かった近藤勇とや土方歳三や井上源次郎が剣道の練習をしてしたのです。その彼らが、やがて幕府に従う「新選組」を担ったことは、日本史の一頁を記した「青春群像」ということになります。同級生に土方や井上がいましたが、遠縁の子孫だったのでしょうか。