江戸時代、幕府が嫌ったものに「橋」がありました。幕府のお膝元を守るために、防衛上の理由から、河川に橋をかけることを禁じたのです。江戸市内には、日本橋とか永代橋とかありましたが、多摩川にも江戸川にも「橋」はありませんでした。それで橋を渡るには、「渡し舟」が利用されたのです。
1978年に、「矢切の渡し(作詞・石本美由起、作曲・船村徹、歌・ちあきなおみ)という歌謡曲が発表されました。
つれて逃げてよ
ついておいでよ
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも
恋に生きたい 二人です
見すてないでね
捨てはしないよ
北風が泣いて吹く 矢切の渡し
噂かなしい 柴又すてて
舟にまかせる さだめです
どこへ行くのよ
知らぬ土地だよ
揺れながら艪が咽ぶ 矢切の渡し
息を殺して 身を寄せながら
明日へ漕ぎだす 別れです
この「渡し」は、江戸川を挟んで、江戸の柴又と下総(しもうさ)の矢切との間を行き来していた「農民船」でした。この歌謡曲は、江戸を捨てて、下総に駆け落ちしていく二人を歌ったものですが、「親の心に背く恋」だから歌になるのでしょうか。
私が育った街にも、かつては「渡し船」がありました。多摩川を挟んで立川の対岸にある宿場街、「日野宿」です。「内藤新宿」から数えて五番目の宿場で、川の近くに宿場があったというのは、雨季の増水で「川止め」になると、雨が上がって、水が引くまで、川を渡れなかったからでした。その様子を描いた、山本周五郎の時代小説、「雨あがる」があり、映画化までされていますが、徳川様は、ずいぶんと厄介なことをしたものです。
この渡し場のあったあたりで、子どもの頃によく泳ぎました。すぐ上の兄が、「鰻」をとるための「仕掛け」をしていた川でしたが、一匹もとれた試しがありませんでした。勉強のためには早起きなど決してしない兄が、このためには、薄暗い中に起きだしていったのには驚かされたものです。石本美由起が、「矢切」と詠み、「・・・ 揺れながら艪が咽ぶ 日野の渡し・・・」としなかったのは、語呂が合わないからであり、多摩川には、「駆け落ち」のような色恋沙汰とは相容れない健全さがあったからでしょうか。そう言っても、この渡しのそばにあった「佐藤道場」では、若かった近藤勇とや土方歳三や井上源次郎が剣道の練習をしてしたのです。その彼らが、やがて幕府に従う「新選組」を担ったことは、日本史の一頁を記した「青春群像」ということになります。同級生に土方や井上がいましたが、遠縁の子孫だったのでしょうか。