温故知新

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 華南に住んでいた時のことです、わが家の近くを発着する公共バスの路線沿いに、旧市街の古い街並みがありました。その道路が、珍しくクネクネと曲がっている箇所があったのです。昔、アメリカの宣教団体が、中国の近代化のために、医学や工学の学校を建てた地域なのです。そこに、この団体が残した、大きな病院があり、いつも人で溢れています。

 その病院を避けるように、道路が曲がっているのです。街中は、ほとんど碁盤目のように、直角に作り直された道路ばかりですが、その辺りは、昔のままの街並みを見せてくれていました。地主がいて家屋や商店があって、出っ張ったり引っ込んでいたりしていて、そのような地域に住み続けたのでしょう、やはり古い中国風の家屋が残っていました。

 もう極わずかですが、路地の奥に、そんな家があって、用がなければ、バス停で降りて、散策してみようと思っているうちに、取り壊されて無くなってしまったのです。近代化は、過去を否定することではないのです。古いものに価値を見出そうとしないのは、残念でしかたがありませんでした。

 古い物は役立たずなのでしょうか。あの街でも日本でも、昔の街並みは残しておくべきだと思うのですが、火災や地震を想定して、防災と言う名目で取り壊されていくのは、とても悲しいものです。以前、この街の他の地域に住んでいた時には、かつての領事館や大学職員の住宅があった地域で、その建物に、今も代替わりで、人が住んでいたのです。

 その高台から下っていくと、旧市街と新興地域の間を流れている川になります。その長細い地域に、たくさんの古い住居が密集していたのです。散歩のたびに眺めていて、中国の庶民の生活ぶりが、興味深くうかがえたのです。ところが、これも、いつの間にか、取り壊されて更地になってしまいました。 あそこに住んでいたおじいちゃんやおばあちゃんたちは、どこに行ってしまったのでしょうか。懐かしい思い出を失ってしまった様で、泣く泣く移り住んで行ったのだろうと想像していました。

 他の路線のバス停の名前に、「李宅站」とか「刘宅站」があるのですが、その地域の地主とか名家だったのでしょう。名前だけ残って家は残っていないのです。きっと昔は、大きな敷地に、何十人もが住んでいた所なのでしょうが。そういった昔を知っている人もいなくなっているのでしょう。

 ヨーロッパでは、何百年も、同じ家に人が住み続けていると聞くと、文化遺産としての価値を高く評価しているのだということが分かります。貧しい時代があって、今があるのですから、残しておくべきだと、切に思うのですが。年寄りの「冷や水」でしょうか。古き良き時代を大事に保護しておきたい、「温故知新」の私です。

(街の中心に行くためのかつての橋です)

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無限、永遠、不変

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 B.B.ウオーフィールドという聖書学者が、次の様に言っています。

 『自らの中に神を求めることから始める人間は、自分と神との関係を混乱させるだけである!』

 八百万(やおよろず)の神を奉ずる日本人の神観、何でも神としてしまう国民性は、一つには特技なのかも知れません。つまりは、〈私がお世話しないと立っていけない神〉を神としているのでしょう。という考えは、自らのに神を見出そうとしている「混乱」からきているのでしょう、何もが神を宿す様に信じてしまうからです。

 「ウエストミンスター小教理問答」に、次の様にあります。

 問4 神とは、どんなかたですか。

 答  神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

 安中藩の江戸屋敷で生まれた新島襄は、漢訳聖書を読んだ時に、深い感銘を受けたそうです。江戸にも安中にも、数限りない神々が祀られ、人々が信奉している中に育ったのですが、その聖書の巻頭にあった一文を読んだ時、『神がおられるなら、これこそが神に違いない!』と強く思ったそうです。その頃のことを次の様に、新島は述懐しています。

 『・・・私はそれらを熟読した。いくらか懐疑を覚えたけれど、またいくらかは畏怖の念にうたれた。以前に勉強したオランダ語の書物を通して、創造者という言葉は知っていたが、中国語で書かれたこの短い聖書の歴史の中で、神の宇宙創造に関する単純な物語を読んだ時ほど、創造者という言葉が胸にひびいたことはなかった。私たちが生きているこの世界は、神の見えない御手によって創造されたのであって、単なる偶然の産物ではないことを私は知った。』

 彼は、その神さまをもっと知りたくなり、アメリカに密航を企てるのです。日本人初の学士は、この新島襄でした。彼は、帰国を前に、明治維新政府による使節団がアメリカを訪ねた時、新島は通訳吏として働きました。それで明治政府から帰国を咎められることなく帰国し、多くの有為な卒業生を送り出すに至る「同志社」を、京都に興します。 

 新島は、社に祀られ、目に見える神ではなく、万物を創造し、統治し、イエス・キリストの十字架を通して救いの道を示された神さまと出会い、仕え、伝えて、46歳で帰天しています。イギリスで、子どもたちが、神がどなたかを知るために編集された「小教理問答書」は、「神は霊であられる」と告白します。

 切り刻んだり、鋳たりした像を、拝み続けてきた者の子が、《霊である神》を、聖書を読んで知り、その神の高貴な人格性に圧倒され、神のみ心の中を、自分の知性、意思、感情を傾けて仕えた生涯を送ったのです。この神は、ご自分を啓示するのです。パウロにもペテロにも、そして私たちにも《語りかける神》でもあります。

 エデンの園での罪以来、人類は、そこから追放され、彷徨ってきました。神への反逆、神に摂理への反抗、自然の理への否定、善や義や聖への不善と不義や汚れ、神より悪魔、聖霊より悪霊、義より不義、善より悪、光より闇、真理より虚偽、謙遜より高慢、神の国よりこの世、成熟より怠慢の中を過ごしてきています。

 神は、人の罪の結果を看過できず、その独り子を、人の姿をとって、この世に遣わされました。信ずる者の罪の身代わりに、罪となってくださって、十字架で、義なる神の処罰を受けてくださったのです。その贖罪の業に満足された神は、私たちに罪を赦してくださったのです。

  この神さまは、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」と記しています。初めからおられ、知恵に富み、力にあふれ、聖なるお方で、義であるので義を愛され、真実で誠実で忠実なのです。そんな神さまご自身もその属性も、「無限」、「永遠」、「不変」だと続けます。

 私は、山に篭り、滝水を浴び、食を断ち、妻を遠ざけ、粗衣で身を纏って、遠出もせずに、じっと座して悟ったのではありません。神さまご自身が、突然に、私に顕われ触れてくださったのです。それが、私の「聖霊体験」でした。まさに神秘的なことで、自分が、どれほど汚れに満ちたものかが分かり、その罪を知らされ、涙を流してその罪を悔いたのです。それで赦された喜びで満たされました。人生の方向を変えられ、全く晴れやかに、新しくされたのです。

 遥か遠くにおられる様に感じていた神が、傍に、いえ内側にいる様に感じられたのです。伴に傍を歩んでくださり、教え、示し、ある時は叱り、矯正してくださっています。あれから半世紀です。創造者であり、統治者であり、救い主であり、助け主である神を知ることができたのは、幸せでした。

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命の息吹の様に

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 ビール工場と作付けを契約した農家の畑だと聞いていましたが、畑の黄色く色付いた大麦は、まるで風に揺れると《黄金の海》の様に輝いていました。秋の稲とは違って、春になって見られる光景は、実に見事で、圧倒されてしまいます。

 長く過ごした中部山岳の盆地では見ることのなかった光景なのです。東武線を浅草の方から北上してくると、利根川や渡良瀬川の近くから、その光景が見られるのですが、ここに住み始めて二年半、街中を離れると、その光景が見られるのです。まさに命の息吹の様です。

 あの景色を見ていますと、「創世記」に記される、エジプトでの七年の豊作の有様を、たくましく想像させてくれるのです。風にたなびく麦を刈り取って、やがて訪れる七年の大飢饉に備えて、前もって建てた多くの穀物蔵に、収穫された麦を貯蔵させる国家的事業を指揮したのが、ヨセフでした。その蓄えは世界を飢饉の中で救い、救い主の誕生の民族を救ったのです。

 すでに大麦は刈り取られ、畑は耕運機が掛けられて、今度は田圃に変わり、水が張られ、田植えがすんだと思ったら、苗がズンズンと伸びて、今朝散歩した田表は青々として、これもまた見事なのです。何千年となく繰り返され続いてきた生業なのです。

 一度だけ、東京の郊外の農家で、田植えの手伝いをさせていただいたことがありました。残念なことに借り入れや脱穀に手伝いはしたことがありませんが、今でもお手伝いしたいと思うのですが、農耕の機械が導入されて、人の手で植えたり刈り取ったりすることは無くなってしまった今です。

 畑や田圃の脇に立つと、命を宿して育てていく土の中から、命の息吹が感じられてなりません。人が生きていくために、食物を備えられた神の善意の息吹でもあります。ベランダの鉢の中の土にも同じ使命があるのでしょう、ミニトマトをズンズンと大きく育てていてくれます。

 エデンを追われたアダムに、神さまは、「耕すこと」を委任されました。人類は、穀物栽培法を知っていて、次の季節の収穫の備えて種を残したのです。米も小麦も、人類に歴史とともに栽培され、刈り取られ、食卓に上って、食され続けてきたわけです。母が炊き、家内が炊き、今は私が炊く様になっている米飯です。お腹いっぱい食べた頃が懐かしく思い出されます。娘が、穀物に食べる量を少なくする様に言ってきて、今や、1合(1cup)を二人で食べています。

 華南の街に、日本の納豆を売っている店があって、よくバスに乗って買いに行きました。上海で作った冷凍品ですが、黒竜江省で作った「秋田小町」と食べると、実に美味しかったのです。徳島に留学した方がいて、徳島弁訛りの日本語を話されるのですが、この方が納豆が好きで、その納豆をご馳走したことがありました。今晩も、納豆ご飯にでもしたいものです。

 こちらの畑では、大豆も栽培されています。一昨日は、枝豆を買ってきて。塩茹でをしないで、そのままゆでて食べたのですが、実に美味しかったのです。父が好きだったでしょうか。甘い物を食べない代わりに、今は、「炒り大豆」を三粒、五粒と口に運んで、香ばしい香りを舌で味わい楽しみながら、満悦のこの頃です。
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今咲く花

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 今散歩で見られる花です。凌霄花(ノウゼンカズラ)、木槿(ムクゲ)、立葵(タチアオイ)が最盛期でしょうか。梅雨空の中、その立ち姿は素敵です。箱根では、先週末、600mmもの雨量が記録されたそうです。熱海で崖崩れのニュースがありました。

 どの花も好きなのですが、中部山岳の街で初めて見て、知った、「木槿」は、花の形も色彩も派手でないのが気に入って、それに健気に暑さや雨に負けない姿が、何かがああって励ましを受けてから好きになってしまったのです。ベランダに植えるには、大きくなる花木ですから、ちょっと無理だと分かって、散歩で見つけています。

 道のべの 木槿(もくげ)は馬に くはれけり

芭蕉が、そう詠んでいます。木が3、4mにもなる高木だから、芭蕉は、それを強調しているのでしょう。栃木県南の野木町(栃木県下都賀郡)に、この句碑が残されている様です。

 ソウルには何度か出掛けて、研修会に参加したことがありましたが、大韓民国の「国花」だと言われていますが、一度も見掛けたことがありませんでした。平安期に、朝鮮半島を経由して日本にも入って来たのだそうです。今日は散歩の途中に、足を止めて見入ってしまいました。また励まされました。わが《激励花》です。

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ふるさと

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 車の運転をやめ、散歩する様になって、住む家の周辺の様子を眺めながら歩くので、建物の陰や道路の窪地、路地の奥などの咲く花を見つけて、嬉しくなるのです。江戸期から、宿場町で商都でもあったから、蔵が点在し、そこを改装して住居にして住んでいたりしています。

 一昨年の秋の洪水で、冠水し老朽化した家には、結局は住めなくなって、多くの家が取り壊されてきました。市の災害援助があるので、それが加速しているのでしょう。この一年ほど、空き地が目につく様になっています。以前、お店をしていたのが、看板で分かるのですが、肉屋、八百屋、洋品店、蕎麦屋などが閉じています。贔屓をしていたお客さんが少なくなり、お子さんたちが、家を継がないのでしょう。大きなスーパーが出店したのも、その理由でしょう。

 今住むアパートも、以前は、この敷地で小型スーパーをしていたそうで、それ以前は回漕問屋をしてたと、隣に住まれる大家さんのお姉様に聞きました。江戸や明治期には、巴波川の舟運をした当時の出納帳を、先日見せていただきました。その頃の古松はにわにうえられてあり、記念物ものの三百年松です。

 昔、都人が、偉ぶって歩いていた日光例幣使街道の一部を「ミツワ通り」と呼んでいたそうで、電車で降りた近郷の方たちが、そぞろ歩いて買い物をされたのでしょうけど、今は、その影を追う様に、ひっそりしています。そこを曲がると、きっと「銀座通り」と呼ばれたに違いない通りがあります。そこも呉服店などは頑張っておいでですが、多くの商店の戸が下ろされているのです。

 この私のブログを読んでくださった、この近くの出身の方が、遊び回られたのでしょう、昔の街の様子を教えてくださいます。元禄二年、芭蕉が、紀行の途次にわざわざ訪ね、『室の八島に詣(けい)す。』と記した「室の八島」のことを、この方が研究されておいでです。郷土愛からの街の昔を教えてくださいます。時々、神奈川県下からお便りをいただくのです。家内も、散歩で出会う老婦人たちから、色々と昔話を伺ったり、先日は玉ねぎやジャガイモや煮物をいただいて帰って来ました。

 同じアパートの住人の実家の話や、家族構成まで知っていて、情報通の昔の隣組なのでしょう。ここには、「隣組」が残っているのでしょう、回覧板の受け取り箱まである家があります。岡本一平の作詞、飯田信夫の作曲の「隣組」を思い出します。

とんとん とんからりと 隣組
格子(こうし)を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり

とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
御飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり

とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり

とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
こころは一つの 屋根の月
纏(まと)められたり 纏めたり

 今頃は、ハスの花が数千本見られる「つがの里」は花盛りだそうで、歩いて行ける距離ですが、昨日訪ねて来られた若いお母さんに、『ご一緒しましょう!』と言ってもらいました。「タンドリーチキン」を作って、持参された漬物で、お昼を一緒にしました。お嬢さんが、《創作大好き小女》で賢い一年生なのです。『百合さん、準さん!』と呼んでくれる、小朋友なのです。『ユリさん、大好き!』と言われて家内は、ご満悦です。今や《第四のふるさと》です。

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一円玉

 

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 まだ子育て中でしたが、「一円玉の旅がらす」という歌が流行ったことがありました。NHKの「みんなのうた」で、作詞が荒木とよひさ、作曲が弦哲也による歌で、1990年2月に発表されました。

一円玉の旅がらす
ひとりぼっちで どこへゆく
一円玉の旅がらす
あすは湯の町 港町
一円だって一円だって
(こい)もしたけりゃ夢もある
ああ 出世街道(しゅっせかいどう)どこへゆく

一円玉の旅がらす
好きなあの娘(こ)を ふりきって
一円玉の旅がらす
風に浮雲(うきぐも) 子守唄
一円だって一円だって
(うま)れ故郷にゃ母がいる
ああ 出世街道どこへゆく

一円だって一円だって
恋もしたけりゃ夢もある
ああ 出世街道どこへゆく

 結構楽しい歌でした。「一円」は、足りなくても、『いいですよ!』と言われることが多いのですが、切手を買ったり、税金を納める時には、無くては困るものです。消費税がつき始めてからは、よく使う様になりました。でも、ほとんどの場合、ありがたがられないアルミ貨で、机の抽出しや瓶の中に、使われないで置かれているのが現状です。

 お金にまつわる思い出があります。ある時、ネットで古本を買いました。その本が届いて、ページを繰っていましたら、「五百円札」の新札が挟まっていたのです。もう硬貨に変わって、普段はお目にかかる事のないお札なのですが、黙ってポッケに入れてしまうのが嫌で、古本屋さんにメールで、『どうしましょうか?』と聞いたら、『ええ、もうお使いになってよいのではないでしょうか!』と返事がありました。

 この「五百円札」の運命を逞しく相応してみたのです。出版されたのは昔でしたので、新書で買った頃には、結構価値があったのでしょう、ご主人が買われて、お釣りにもらったお札を、そっと本に挟んだに違いありません。「中華そば」だったら、ゆうに2杯は食べられた時代でした。『これで家内と一緒に中華そばでも食べようか!』と挟んだまま忘れてしまったのでしょうか。

 そのご主人が亡くなって、奥さんが蔵書整理をして、古本屋さんに買い取ってもらったのが、私が買い求めた一冊なのでしょう。使われなかったお札が、古書と共に旅をして、私の手元にやって来たのです。それを事務所に置いたままで、華南の地に戻ってしまいました。ところが留守中に、本は処分されてしまい、また、どこかの古書店に買い取られ、あれからまた旅が続いているかも知れません。ちょっと気掛かりの「五百円札」であります。

 最近は、クレジットカードとか、スーパーマケットの自社製のカードでの買い物がほとんで、どこの〈百均〉でも、現金でしか買えないと戸惑ってしまうのです。昨日は、一円玉がないばかりに、九倍の一円アルミ貨が釣り銭で渡され、金貨入れが増えてしまいました。そう言えば、五十銭札、一円札、五円札を使ったことがあったのを思い出します。カード社会のアメリカの1cent も同じ扱いなのでしょうか。

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栄光と喜び

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 若い頃に、いくどとなく聞かれたのは、『あなたは、何のために生きていくのか?』と言う、《人生の目的》への問い掛けでした。

 幼い日、父の机の上にあった、打電機で遊んでいて、無線技師になろうと考えていました。電波信号が、地球に裏側にいる人にでも、人の言葉を伝えるという原理が不思議でならなかったからです。その後は、ダムなどを作る土木技師になりたいと思った時期が、中学の時にありました。教師によく叱られ、注意され、立たされ、ある時は叩かれた割には、中学で三年間担任をしてくださった先生の強い影響で、その後は、「教師」になろうと思いました。

 その少年期の願いは、二度叶えられたのです。専門の教育者となる学びをしたわけではありませんでしたが、教員試験の受験資格を取れる単位を履修していたのです。ある県の高校教諭採用試験を受けましたが、受かりませんでした。それで、中学の頃から一緒に考古学で、古墳や貝塚の発掘を教えてくださり、一緒に穴掘りをした教師の紹介で、教育研究所に就職しました。3年後に、そこの所長の派遣命令を受けて、所長のお弟子さんのいた高校の教師にさせていただいたのです。

 そして、人生の後半になって、中国に留学して、華南の街に導かれ、そこで出会った大学の教師の紹介で、その省の大学の外国語学部日本語学科の外籍教師の機会を与えられたのです。若い頃の教師の経験を買われたのです。作文や日本の文化などの講座を担当し、中国の若者たちと、実に充実した10年ほどを過ごしました。

 「ウエストミンスター小教理問答」は、次のような問いによって始められています。 

 問1 人のおもな目的は、何ですか。
 答  人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 子どもの頃の願いは叶えられたのです。でも、「聖書」を読み始め、祈りをし、神礼拝を守り、基督者の信仰生活を始めたのです。「聖霊体験」をした時に、悔い改めと認罪と、言い知れない喜びや力を感じたのです。それと同時に、教会と「教会の主」であるキリストに仕える願いが、突然、与えられたのです。

 人が願っても、することはできなさそうです。牧師や宣教師になることは、ホテルの支配人や学校の教師になることに比べると、私たちの国では評価されません。ある方が私の兄弟たちに保証人を依頼してきました。この方は、下の兄を保証人にしました。下の兄はホテルマン、上の兄は牧師でした。

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 押し出されるようにして、導かれた伝道者の道を選んだ時、ある方から、『キリスト教の牧師になるって、そんなにお金になる仕事なのですか?』と聞かれました。なぜなら、好条件の仕事に、だれもが転職をするからです。収入の保証はありませんでした。将来の約束もありませんでした。私は、家内と、その5月に生まれようとしていた、家内の胎にいた長男と共に、教師を辞め、献身したのです。不安など一点もありませんでした。今も、あの時の決心は揺るぎません。

 ただ、試されたことは幾たびもありました。わが家の低収入を知った長男が、『俺、高校に行けるの?』と聞かれた時は、親として辛かったのです。それで、スーパーマーケットでアルバイトを始めました。その長男が、高校進学で、ハワイの高校に入ったのです。友人牧師が、彼を受け入れてくれ、世話をすると約束してくれたからです。なんと、あの不安な中学2年生だった長男は、働きながら学んで、アメリカの大学院まで行くことができたのです。

 国家公務員並みの待遇などなど求めませんでしたし、いつも丁度の分がありました。家内が食卓に、空の茶碗を置くと、お米や佃煮が送られてきたことも、何度かありました。食べられない日、人にお金や物をを借りたり、乞うことなく、子育てを終えて、今日を迎えています。私は心配しませんでした。なぜかと言いますと、雇用者は神だったからです。

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のを現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』

 ウエストミンスター信仰は、「神の栄光を」あらわすことと言っています。異国の地で病んで、入院し、治療のために帰国しなくてはならず、帰国して病院に行くと、余命半年の宣告を受けた家内が、私と一緒に、「科学的方法による妊娠治療」の可否の相談を、中国の若い大学教授夫妻から、つい最近受けました。「命の付与者」である神が定められた原則、聖書から、私たちは助言をしました。

 『・・・私たちがよく考えたら、赤ちゃんが自然な方法で与えられるように祈り続けていきます。また、子供を産む目的をもう一度じっくり考えます。どうもありがとうございます。』と、この方たちからの返事を受けたのです。

 聖書の基準に則して、神が願われる方法で、子が与えられるのを待とうとしたのは、これって、主に栄光が帰される意思決定なのでしょう。知的な人たちが、聖書に従って、思いを改めたのです。医師の勧めではない、神の方法に回帰したことに、神からの祝福が伴います。

 さらに、ウエストミンスター信仰は、「永遠に神を喜ぶこと」と記します。神を、『信じなさい!』、『畏怖しなさい!』、『従いなさい!』とか言わないで、『喜びなさい』と言いっています。私が出会い、仕えてきた神さまは、《喜ぶべき神》なのです。

 『神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ (詩篇684節)』

 今朝も、私の心には、幼かったわが子たちが、小躍りしていた様に表していた《喜び》があります。生かされている、永遠の命の望みに満ちる《喜び》なのです。今を喜ぶことです。明日も喜びます。何が起こっても、どの様な時でも、《主を喜ぶこと》こそ、最善で力なのですから。

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違い

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 二度読みしていたましたら、可笑しくて吹き出してしまいましたので、ここに掲出してみます。テレビがありませんので、観ることはないのですが、日本テレビの番組の「笑点」で取り上げられたものです。

 身につまされると言ったらいいのでしょうか、共感してるというのでしょうか、ここに取り上げている二つの年齢の後半になっていますので、わが身のあの日と明日、いえ今日の日の違いを、こんなふうに捉えて笑わせるのは、だれも傷つかないのでいいものです。

 新宿の伊勢丹のそばに、「末廣亭」があって、寄席囃子に誘われて何度も入ったことがありました。江戸の笑いを今日に伝え、何があっても、微笑んでか、ニヤニヤ笑ってか、生きてきた日本人の楽しみだったのでしょう。 ちっと毒があって、人を吹き出させるのでしょう。

 2000万人ほどいると言われている「糖尿病」の仲間入りをしてしまって、体重減に散歩に励み、甘いものを避けながら生活しているのですが、偏差値を気にした覚えはないのですが、血糖値が気になっているこの頃です。

 弟から、『多少は冷やした水羊羹など問題ないと思いますが!』と言ってきてくれています。《ご褒美》が好きなので、つい、体重減に成功し、主治医に『この数値で糖尿病でしょうかね!』と言われて、その気になると油断してしまいそうで、気を張っています。張り過ぎると、プツンといきそうで、それもまた〈注意注意〉のこの頃です。

 ちなみに、アラカン(嵐寛寿郎)は、77才で、脳血栓で倒れて亡くなっています。「鞍馬天狗」は当たり役でしたが、晩年にも映画出演をしていました。父の世代の映画俳優を思い出してしまいました。
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これほどの慰め

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 「聖餐」のあり方について、ルター派、メランヒトン派、カルヴァン派、ツヴィングリ派の間で、激しい神学論争がありました。それを終わらせるために、フリードリッヒ三世が、二人の人を選任し、「信仰問答書」を作らせます。

 ウルジーヌスとオレビアーヌスの二人が、共同作業で、カルヴァンやブリンガーなどの「教理問答」を参考にして、共同作業で、あくまでも「聖書」を基盤に書き上げています。そして1563年に、出版されたのが、「Heidelberger Katechismus/ハイデルベルク信仰問答」でした。

 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」

 答  わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。

 そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。』

 まず、「生きるにも死ぬにも」と問いかけています。私たちは、生きる様にと祝福されて生まれてきています。でも、生きるだけではなく、やがて必ず訪れる「死ぬとき」にも、私たちは細心の注意をする様に、ここで促しているのです。

 生きるにしろ、死ぬにしろ、私たちに必要なのは、「ただ一つの慰め」なのです。生きていくには、神が下さる「慰め」を必要としています。聖書の「慰め」は、激励や祝福や生きる力の目的や力の付与、さらに「支え」などを意味しています。第三位格の「聖霊」は、慰め主でもあります。

 私たちは、いつでも「死」と対峙しながら生きています。死の恐れを、だれもが知っていて生きているのです。台風接近の海水浴中に、引いていく波に連れて行かれそうになっった時、『死ぬ!』と思いました。ところが次の押してくる波にかつがれる様にして砂浜に上げられたことがありました。上階のガス爆発事故で、引火してもおかしくない状況で、家族全員がなんの被害も受けなかったのです。その時も死んでいてもおかしくない状況でした。死に直面し、恐れや不安に見舞われても、私たちを所有されるのは、国家でも会社でも団体でもなく、

 『わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。』

 救い主、助けぬし、慰め主が共にいてくださり、神の子である私は、この神の「所有」だということを確信するのです

 また、生きるにも死ぬにも、キリストが私たちを御自分のものとして守ってくださいます。

 『この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。』とあります。

 自分では、どうすることもできない隠れて犯した恥ずべき罪を、十字架の血で償い、誘惑者の手を縛り上げて、滅ぼせないほどに制限してくださって、生きてきました。「天路歴程」に出てくる旅の基督者を、獅子が吠えたけて飛びかかろうとしますが、獅子は鎖に繋がれて、脅すことはできても、爪や牙で触れられない様にしてありました。

 『天にいます父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちないほどにわたしを守って』くださるのです。

 これが、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めなのです。五十前後から、父なる神がお許しになられて、髪の毛が、一本一本と抜け落ちて、昔日の観なしです。頭は薄くなっても、「保護」されて今日も生かされています。

 『実に万事がわたしの益となるように働くのです。』と続きます。

 贖われ、赦され、義と聖と子とされた私に見舞う全てのこと、歓迎してもしなくても、その全てのことが、「有益」に導かれるのです。もう犯してしまった罪を、口で告白し、謝罪してあれば、記憶からも消し去ってくださるのです。顔にも体にも、古傷や皺やシミが残っていますが、灰汁で白くされる様に、十字架の血で、罪を赦してくださるのです。

 『そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。』と問1の答えを終えています。

 出国時、厦門の税関で、滞在日数を超える「不法滞在」で、取調室に呼ばれました。その公安警察の取調官の前で、『今回は見逃し次回には処分!』とある「処分書」に sign しました。中学の頃から、何度も「始末書」を書いて提出してきた私は、中国公安にも提出したのです。負うべき科料を免除され、再入国を許可されたのです。聖霊は、無罪の証書に証印を押してくださり、天国の入国管理官が入国許可をくださることでしょう。それまでの日々を、喜んで生きる様に、祝福していてくださるのです。

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夢と幻と理想

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 お気に入りの Parker に、” HOKKAIDO UNIVERSITY “ と印字されていて、卒業生でもないのに、私は着用しています。この大学の前身が、「札幌農学校」でした。広い構内に、開学当時の建物も残っていて、明治を感じさせてくれるのです。その学則は、

 "Be gentleman/紳士たれ!

 その札幌農学校の第一期生の大島正義健が、次の様な文章を残しています。

 『さて札幌農学校がいよいよ開校になって、その学則をいかに定めるかということが問題になった際、札幌学校から移って來た生徒たちが、参考のためということで札幌学校の規則書を持ち出し、第一條何々、第二條何々とその大要を英訳して、クラーク先生の前で読みあげた。聞きおわったクラーク先生は、「そのようなことで人間がつくれるものか。」と大声で怒号し、「予(よ)がこの学校に臨む規則は、Be gentleman! たゞこの一言に盡きる。」と言って、特徴のある太いまゆをぴくりと動かされた。

 学校は学ぶ所であるから、起床の鐘が鳴ったら、寝床をけって起きなければいけない。食卓へつく時にはあいずをするから、直ちに集まって來なければいかぬ。消燈時刻にはいっせいに燈火を消さなければいかぬ。ところでゼントルマンというものは、定められた規則を嚴重に守るものであるが、それは規則にしばられてやるのではなくて、自己の良心にしたがって行動するのである。故にこの学校にはむずかしい規則は不要だと、先生は述べられた。それを聞いた学校の幹事や敎授連は大いにその結果をあやぶみ、もし故意に規律を守らない者が現われたらどうなさるおつもりかと反問した。ところが先生は威儀を正し、「たゞ退学あるのみ。」と答えられた。

 さて、クラーク先生の意思を傳え聞いた生徒たちは非常に喜んだ。われわれはこれでもゼントルマンである。ゼントルマンは俯(ふ)仰天地に恥じざる行いをしなければならないと、みずから問うてみずから答え、町へ出てもみにくい行爲は決してなさず、自己の行動に非常に重きをおくようになった。もし誤って校規を犯そうものなら、進んで学監のところへ届け出で、「たゞ今かくかくのことで五分間遅刻いたしました。」と申し立てるような氣風が全校を支配し、学生一般の風紀が非常に改まった。

 クラーク先生が札幌に敎鞭をとられて最初に試みられた事項は、開校の際の演説中に片鱗(りん)が現われている制欲に関する考えを実行に移すことであった。先生は日本の学生の堕落して健康を破る者多き最大原因は飲酒と喫煙にありと断じ、学生の德育ならびに体育上きわめて重要なのは制欲の一事であると考えられた。そこで禁酒禁煙のほかに瀆(とく)神誓言を禁ずる誓約文を起草して、まずみずからこれに署名し、ほかの敎授学生をもこれに加盟せしめて、校内を淨化することに全力を盡くされた。 

 東京英語学校から轉校して來た生徒の一番年長であったのが佐藤昌(しょう)介で、当時は二十歳前後であったろう。伊藤一隆と私とがともに安政六年生まれの十七歳、そのほかの者も似たりよったりの年齢であったから、分別盛りの靑年であったように思われる第一期生も、実はわずかに少年期を過ぎたばかりの若輩ぞろいであったといってよいのである。』

 これは、「クラーク先生」と言う回顧録の一部です。ほとんど十代の後半の学生に、クラークが望んだのは、『紳士たれ!』の一言だったのです。そして多くの第1期生や後輩たちは、自分の人生を、《紳士》として生きたのです。


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 そこで学んだ人の中に、北海道大学の学長になった佐藤昌介がいました。この方は、札幌の街づくり、北海道の発展に大きく貢献した人だったのです。第二期生の内村鑑三は、多くの若者に生きる道を示し、同じく新渡戸稲造は、国際連盟の次長として、国際社会で活躍し、後年は、教育界で貢献しています。

 若い頃の新渡戸稲造は、盛岡藩藩士の子で、気性が激しく、農学校入学直後は、教授と論争になると熱くなって、殴り合いになることもあったほどだったそうです。それで、「アクチーブ(アクティブ=活動家)」いうあだ名がついていました。

 ところが上級生たちからの信仰上、心霊上の感化で、性格が一変して、学校で喧嘩が発生すると、間に入って仲裁するほどに変わってしまったのです。その時に培われた気質は生涯変わらなかったそうです。クラークの<申し子>の様に、紳士然となったのですから、切っ掛けがあると、人って変わるものなのですね。

 幕末に生まれ、新生日本の開化の中で、大自然の中で、聖書と農学を学んだ青年たちが、新しい日本の礎石になっていったのです。北大の校内を家内と一緒に散策した時、150年前の学生が、夢と幻と理想を将来につなげて生きていく備えをしたのです。家内と構内を散策したのですが、北国のポプラやニワウルシの林の中に喫茶店がありました。薫るコーヒーが苦味と相まって、そんな札幌農学校の明治の雰囲気が感じ取れたのです。

(北大構内、エルムの森喫茶店です)

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