こんなラジオ番組がありました

.
.

 「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」、作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子で、NHKのラジオドラマの主題歌でした。最近、素敵な歌番組で、FORESTA と言うグループが、さまざまな分野の歌を、美しいHarmony で聞かせてくれています。その中に、この主題歌がありました。

1 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
風がそよそよ丘の上
黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
元気でいろよという声よ
口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたはもっとしあわせに
みんな仲よくおやすみなさい

  昭和20年8月15日に、長い戦争が終わりました。父は、軍需工場で働いていましたが、軍が解体して失職したのです。四人の男の子を育てるために、山奥から引いていた索道(さくどう、小型のトラックの荷台のような鉄製の入れ物を吊るしたケーブルカーで石英を運んでいました)を、利用して、県有林の木材の払い下げを受けて、それを切って運び出し、京浜地帯に運んで売る、木材業をしていました。

 戦地に行った父の弟、私たちの叔父は、赤紙召集で、兵隊となって南方に行き、そのまま戦死しています。農村から働き手の男性が戦地に送られて、戦死したり、復員が遅かったりで、田畑の耕し手がいませんでした。そんな理由もあって、何もかも失った日本は食糧難でした。山奥から東京に、私の家族は越して、住み始めましたが、新宿や上野などには、戦争孤児が多くいたのです。

 当時、浮浪児とも呼ばれていた子どもたちは、全国に数万員もいたと言われ、実際の統計には上らない子も多かったはずです。中野に寄った新宿駅近の地下通路にたむろしていた戦争孤児を、多く見かけたのです。

.
.

 そう言った戦争が産み落とした孤児たちのある子たちは、生きていくために、盗みを働いたりしていたのです。ある子どもたちは、駅の出口付近で、靴磨きをしていて、これも新宿で見かけました。私たちよりも少し上の世代、兄たちと同世代の子どもたちが、それでも、そんな逆境に負けないで、懸命に生きていたのです。

 そんな彼らを、教会やお寺や篤志家のみなさんが、見るに見かねて、引き取って、衣食住を提供し、教育を受けさせていたのです。そう言った戦争孤児を引き取った施設を舞台にした歌が、この歌でした。ラジオで放送されたのを、よく聞いたので、今でも歌えます。

 昭和22年(1947)7月に、そのラジオ番組になって放送が始まりました。4年近く放送され、790回にわたって続いたのです。日本中が聞いた番組でした。このお話は、戦地から帰ってきた一人の青年が主人公でした。孤児になった少年少女の戦後を、どうにかして助けたいと思ったのです。それで自分の故郷の長野県の山あいに「少年の家」を立てて、一緒に共同生活を始めます。その少年たちと村の人々との物語でした。安曇野(あずみの)の穂高の村が、舞台だったのです。

 『♫ 父さん母さん いないけど 丘のあの窓 おいらの家よ ♬』と歌詞にあるように、身寄りのない子たち、とくにお父さんのいない子どもたちが、同級生の中に何人もいました。「戦争の落とし子」と言ったりしていましたが、けっこう逞しく生き抜いていくのです。私だって、孤児になる可能性もあったのですが、親のいた私とは、違った戦後を、この子どもたちは生きたわけです。そのような少年たちを助けた方々がいたことも忘れてはなりません。

 また、旧満州には、さまざまな理由で、残留した孤児のみなさんもいたのです。その孤児が、中国で結婚し、生まれた子どもが、私の住んでいた街の大学に留学してきていました。その学生が、私のしていた事業を、いつも助けてくれたのです。わが家を訪ねて来た時に、満州餃子を、何時間もかけて作ってくれました。実に美味しかったのです。

 あの味は、この人の祖父や祖母の味だったのでしょうか。残留孤児を引き取って育てた親がいて、その孫が、平和な時代になって生まれたことになります。その事実を見落としてはなりません。

『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(新改訳聖書 ヤコブ1章27節)』

(ウイキペディアによる映画化されたポスター、安曇野の一風景です)

.