黒羽に長逗留をして

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 「中途半端」 なことの多かったわが半世紀でした。いつかインドネシアに行こうと考えて、わざわざ四谷の上智大学の語学講座で、インドネシ語を学び始めたことがありました。遠過ぎたことや忙しくなったからは言い訳で、続きませんでした。

 先日、インドネシア人のご婦人とお会いして、そのこと思い出したのです。ブラジル人のご主人がおいでで、今月末には、赤んちゃんが誕生されると、言っておいででした。家内と話をされていて、その話に割って入って、インドネシア語の覚えていた言葉を言おうとしましたが、機会がありませんでした。

 また、日本人と同じ斑点、蒙古斑点のあるモンゴル人に関心を向け、ルーツを訪ねて、ウランバートルに行きたくて、モンゴル語も学び始めましたが、これも中途挫折でした。近くにモンゴル人がいたら良かったのには、これも言い訳でダメでした。

 ハイデルベルクやバート・ボルやバーデンといった街に旅行したくて、ドイツ語も、これはやろうと思っただけで終わりました。シュバーベン方言の人物伝を、コピーで頂きましたが、学べず仕舞いでした。

 知らない街や国にいってみたいというのは、どうも現実逃避の表れで、願望を捨てきれない夢見る少年の不確実性でした。

♫ 知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい 🎶

 遠くの街訪問願望、恋愛願望を歌った、永六輔の作詞、作曲が中村八大で、不良少年っぽい若い歌手が歌っていました。自分が17才の時でした。それに誘発されたのでしょうか。母が交通事故の怪我で長期入院生活をしていた頃の歌でした。家事を切り盛りしていた父を助けたくて、なくなく運動部を休部した年でもありました。

 やはり、中学生になったことを実感したのは、「奥の細道」を、現代語訳ではなく、江戸元禄期の言葉で記した古文から学んだことでした。小学生が詰襟に制服をしている様な感じでいましたが、特別講義での古文の学びで、いっぺんに大人になった様に感じたのです。

 「漂白への誘い」、人生が旅に例えられるからでしょうか、人は旅に誘われます。引っ越しを二十数回もしてきた私は、やはり、一所に腰を据えられずに、新しい道に進んでいきたい想いにさらされてきた様です。今でも、終の住処が定まらずにおり、困ったものだ、と家内が言います。

 あの中一での、「奥の細道」の学びが、作者の松尾芭蕉が、やはり旅の途上に死した漂泊の詩人・李白や四川の成都にも旅して、舟の中で没した杜甫の生き様に憧れ、平安期の白河の関を越えようとしながら果たさなかった能因、陸奥を旅した三十歳の西行に、後ろ髪を引かれて、深川の破れ屋から隅田川を舟で登って、千住から奥羽街道を北上して行きます。「逃げる」を「北げる」とも書き表しますから、江戸を逃げたのかも知れません。芭蕉四十六の時でした。

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 「そぞろがみ」に誘惑された様に書きますが、旅に誘う神がいると言っているのでしょうか。芭蕉は、自分の旅に出たい気持ちを生み出させたものは、李白や杜甫の生き様に感化されて、居た堪れなかったに違いありません。そんな想いを少し抽象的に表現したのでしょうか。「道祖神」は、旅の無事を司る神々のことですが、未知の地を旅する芭蕉は、各地にいるお弟子さんたちの訪問でもあったわけです。

 李白も杜甫も、知人の訪問もあったり、会いたいと願っていた人や土地の訪問もあったのでしょう。芭蕉も同じで、三千里の旅に出て、それを続け、百五十日ほどで終えたのです。この訪ねた場所で、尾花沢に次いで、二番目に長く滞在したのが、「黒羽(くろばね)」でした。現在の栃木の県北の大田原市で、那珂川の舟運の河岸のあった街で、13泊14日の滞在でした。

そこは黒羽藩のお膝元で、こんなことを書き残しています。

『黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、 那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。』

 この藩の城代家老と出会って、入魂(じっこん)の仲になって、芭蕉は、同行の曾良と共に歓待されたのです。扇を射た那須与一にも思いを馳せています。どんな街なのか、一度訪ねようと思いながらも果たせずにおります。ここで出会った若い御婦人のお母様は、この街の出で、こちらに来られると、わが家に寄ってくださったりの交わりがあります。
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 芭蕉は、訪ねた村や街の名産にも、預かってご馳走になったのでしょうか。那珂川は、梁(やな/魚などを獲るための竹作りの仕掛け)で獲った鮎の甘露煮が名物の様ですから、当地の記録によりますと、江戸時代にも、中国から伝わった梁漁法で、獲った鮎が食べられたのではないでしょうか。

 街道は、舗装されてないにしろ、もう元禄期には、整備されていましたから、旅の険しさは、そう酷くはなかったことでしょう。まだでしょうか、もうでしょうか、四十六歳ほどの年齢でしたから、芭蕉は健脚になるように、三里に灸をすえて先に進んでいったのです。この頃から、十年ほどを、旅に日を、芭蕉は費やしていったのです。

行(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお)の 目は泪

(ウイキペディアの深川、芭蕉と曾良、梁漁です)

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