台風の動きの中で

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 10号台風は、熱帯低気圧に変わるそうですが、遠い北関東でも、断続的な雨降りで、巴波河の水位も高いままですが、決壊は無さそうです。

 大騒がせの台風ですが、列島全体には。被害も多くありそうです。そんな朝、桔梗も朝顔も、元気に咲いています。家の中では、最後に三輪を、胡蝶蘭が咲かせています。5年ものの今季の最後のステージです♪

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台風襲来

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颱風の 空飛ぶ花や 百日紅

 水原秋桜子の句です。散歩道に多く咲いているのが、百日紅(さるすべり)です。強い赤色の花を見せてくれますが、この台風20号の雨と風とで、飛んで、散ってしまったことでしょうか。

 国際気象海洋株式会社によりますと、

8月30日 2時現在
山鹿市付近
北緯
33.1゜東経130.8゜ 北東 ゆっくり
中心気圧 992 hPa
最大風速 25 m/s
最大瞬間風速 35 m/s
強風半径(15m/s以上) 390 km

と伝えています。どうも9月に入るまで続きそうです。速度が、自転車ほどだそうで、遅いことで、雨量が増しているのでしょうか。あんなに暑い日の連続で、海水や地表の水分が水蒸気として上昇する量も、桁外れに多いのでしょう。上空で冷やされて、雨雲になって飛んできて、降ってくるのです。

 秋の到来を望む思いが、日増しに強くなっています。また雨足が強くなって来ています。隣家のお勝手に灯が灯っています。ご心配で眠れないのでしょうか。かく言う自分も、同じですから。みなさんのご無事を祈るばかりです。

(ウイキペディアによる人工衛星画像の画像、海洋気象株式会社の今朝2時の台風予報図台風です)

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火事息子

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今住むアパートの向かい側に、大きな駐車場があります。以前、ここに市役所や消防署があったのだそうです。赤や白の車体で、サイレンを鳴らして、道路を疾走して火事場に向かう、「消防自動車」や「救急車」は、市民には頼もしかったことでしょう。

小学校の親友の自慢のお父さんが、消防士をしていました。遠くから越境通学で通っていて、中学校は、別々の学校に進学したままで、それ以来会うことは無くなったのですが、彼も、お父さんと同じように消防士になったのでしょうか。

江戸時代の江戸では、纏(まとい)を持った若者たちが先頭を走り、鳶口(とびぐち)や「大のこ」と言った消火用の道具を手にする一団が、火事場に急行する光景が見られたことでしょうか。江戸の町には、いろは四十七組に、一組を加えた「四十八組」の火消しがあったそうです。め組とかい組があって、歌に歌われ、歌舞伎にも登場したようです。この地にも、同じような消防組織があったようです。

まさに男の世界であり、映画俳優たちのように憧がられたりしたのでしょう。「いなせ(鯔背)」な男集団で、威勢がよく、さっぱりしていて粋(いき)な気風や、勇み肌の人たちだったそうです。江戸の日本橋に魚河岸があって、そこで働いていた若者たちが「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼ばれる髷(まげ/髪型)を結んでいたのだそうです。その魚河岸にいるような、粋で腕っぷしが強く威勢のいい若者たちが、江戸火消しで、大変に人気があったようです。

次男が、『消防自動車になりたい!』と言ったほどに、憧れていましたが、火消し、消防士にはなりませんでした。”fire ” という題のアメリカ映画が、昔ありましたが、火の中で消火活動する勇敢な姿を、息を呑むようにして観たことがありました

落語にも、この消防士の登場する名作があるのです。噺家によって、アレンジされていて、名席や名人と呼ばれたみなさんの出し物だったようです。昔は、「火消し」と呼ばれ、半纏に褌で、江戸の街中に起こった火事場に走ったのです。

「火事息子」という演題で、人情物の落語があります。江戸には、いくつかの火消しの組織があって、「臥煙(がえん/江戸版の消防士)」と呼ばれた一団がありました。江戸城の周囲に、「見付」があって、その警護に当たった奴(やっこ)を、そう呼んだそうです。満身彫り物の男たちで、いつ半鐘(はんしょう)が鳴って火事が起こっても、即座に、火事場に急行できるように、「火消屋敷(十人屋敷)」に寝起きして待機していたのです。

その一人が、有力な神田の質屋、伊勢屋の跡取りでしたが、素行が悪く、江戸の華、火事が好きで「臥煙」になってしまったのです。その名を徳三郎と言います。ある日、火事が起きて、延焼しそうになった時の噺で、次のようです。

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『火事だというのに大切な蔵に目塗めぬりがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。
その時、屋根から屋根を、まるで猿ましらのようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。
身体中見事な刺青(いれずみ)で、ざんばら髪で後ろ鉢巻(はちまき)に法被(はっぴ)という粋いきないで立ち。
ぽんと庇(ひさし)の間に飛び下りると、
「おい、番頭」
声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。
男は火事好きが嵩じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当(かんどう)になったまま行方知れずだったこの家の一人息子、徳三郎。
慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。
「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあ、おめえの忠義になるめえ」
おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。
見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。
「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。
しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。
顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。
「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。
勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。
わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」
そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。
甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。
「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。
母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。
「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。
「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」
意味を察して、母親は大張り切り。
「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」
しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言い出すから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」』
(「落語のあらすじ辞典Web千字寄席」より引用)

結婚して五十余年、一度だけ火事に遭ったことがあります。アパートの二階に住んでいた時、上階の家がガス爆発して、黙々と黒煙をあげて火事になりました。消化器を持って上がったのですが、新建材に煙で家の中に入ることがでず、ご婦人と飼い犬が焼死してしまったのです。消防自動車と消防団が、放水して鎮火したのですが、階下のわが家は水浸しでした。教会の建物が近かったので、家族を避難させましたが、家財はほとんどが水浸しになってしまったのです。

その時は、次男が、家内のお腹にいて、翌月には出産予定でしたが、爆発の瞬間を覚えていなく、子ども三人も無事でした。ベランダの小鳥が焼死し、ベランダの窓ガラスが全壊し、警察と消防の検証で、『爆発の連鎖がなかったのが不思議です!』と言っていました。新聞社の取材を受けたりでしたが、自分だけが、頭部にガラスに破片を受け、整形外科で治療を受けただけでした。母教会がとても助けてくれたのが嬉しかったのです。

その火事には、臥煙の徳三郎は来ていませんでしたが、火を通りながら守られた経験は、感謝でいっぱいでした。

(ウイキペディアによる江戸の大火図、消火用桶です)
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朝明けの東の空が

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 それでも秋を感じられるようになってきました。早朝の東の空を眺めたら、ホッとできたからです。奄美諸島に台風10号が接近していても、こちらは嵐の前の静けさを感じています。お江戸に向かう東武電車の車輪の音も聞こえます。

 昨日のファミリーチャットで、長男が、やっと米を買えて、3週間ぶりに、ご飯を炊いたと言ってきました。この日曜日に、家族で来てくれて、一緒に礼拝を守ったのに、お騒がせの余波が押し寄せていたのを知りませんでした。「主の山に備えあり。」、好い一日を願っております。
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「とどのつまり」の今なのでしょうか

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『5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 (新改訳聖書 ヤコブ3章5-9節)』

 「舌禍(ぜっか)」、「不適切発言」、「暴言」、「失言」と言う言葉があります。『あんなこと言わなければよかった!』と思うことが、自分はしばしばでした。上の娘に、『お父さん、あんなこと言ったら、◯◯さんが傷ついてしまうよ!』と言われたことがありました。一回や二回のことではなく、私の舌はじっとしていない悪の世界でした。

 言葉で失敗する人は、けっこう多くいるようで、どうも自分ばかりではななさそうで、安心しているのではありませんが、お仲間の多さに、同病相憐れむで、とくに有名人のそれは、気の毒に感じたり、影響力の多さに驚かされてしまいます。彼らは、マスコミを味方につけた時はいいのですが、敵にまわしてしまう「骨」なことが多そうです。

 私の父は、明治男だったからでしょうか、食卓に魚が並ぶと、美味しそうに食べておりました。鯛なんかは、食べ終わると、どんぶりに食べ終わった骨や頭を入れて、お湯を注ぎ、醤油をそれに差して、薬味で実に美味しそうに飲んでいました。家内に聞きますと、家内の家でも、同じだったそうで、昔の人は、そんな食生活をしていたのでしょう。

 海洋国家に生まれたのですから、季節に応じて、旬の魚が食卓にのりました。秋刀魚が出回ると、近所中が、七輪の火の上に網を置いて、それを焼くので、どの家からも煙が上って、モウモウと煙だらけになっていた光景をよく覚えています。庶民の魚、大衆魚は安くて、美味しかった時代の話です。

 秋刀魚とは違って、高級魚に、「鰤(ぶり)」という魚があります。醤油に、生姜や味醂で漬け込んだ切り身を、同じ様に、母が焼いていました。父の家は、男5人と母の6人家族で、魚を焼くのも、魚焼き機などない時代でしたから、夕餉の仕度は大変だったようです。

 この鰤は、成長時期、漁獲時期に応じて、名前が変わる魚なのです。稚魚から鰤になるまで、関東では、はまち・めじ・ぶり、また関西では、15センチぐらいまでをつばす、40センチぐらいまでがはまち、60センチぐらいまでをめじろ、それ以上が「ぶり」と呼ばれているそうです。
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 自分の骨格や身体を、魚を食べて形作ってきた日本人の繊細さには驚かされるのですが、先ごろ、話題になっていた「トド」も、二種類あります。

 魚の方は、成長に応じて、呼び名が変わる魚なのです。それで、「トドのつまり」という言い回しがあります。『とどのつまり、日本政府の今回の計画は失敗に終わってしまった!』と言う様に使われる言葉です。言い換えると、『結局のところ・・・』、『最終的に』という意味での言い回しなのです。

 魚の「ボラ」は、ハク(約3センチ)→ オボコ(5~10センチ)→ イナ(約20センチ)→ ボラ(30~40センチ)→ トド(50センチ以上)と、呼び名が変わるのです。「百々」と呼ばれる時期には、それ以上に大きくなることがないために、『結局のところ」、この名前に行き着くそうです。

 ただし、この「トド」は、海に棲息する哺乳類の「トド(セイウチの呼び名)」とは違います。人の身体が、とくに独身の女性の体型を、そんな言い方を、同性でも、冗談でも、笑いを取るのでも、言ってはいけない言葉です。言葉は、とてもtouchy(影響が微妙)で、不注意発言だと人や組織を傷つけてしまうので、注意しないといけない言い回しなのです。

 この「不義の世界」の「舌」で、多く失敗してきた私は、よく「軽口(かるくち)」をたたいてしまったようです。要注意、自戒の今ですが、「とどのつまり」、もう遅きに失した感がありますが、それでもと思っております。骨な人生だったのです。

※ 魚の呼び名は、地方地方によって独特に違っているようです。

(ウイキペディアによるボラ、トドです)
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偏見をなくした夏

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 「民藝」と呼ばれる演芸集団があります。日本を代表する伝統的な歌舞伎とは違って、『多くの人々の生きてゆく歓びと励ましになるような』演劇芸術を目指して、戦後間もない1950年に、滝沢修、宇野重吉などによって旗上げされています。

 舞台といえば、子どもの頃に、村芝居、小屋掛けの巡回一座が、私の育った街にも、時々やって来ました。脂粉や灯りのカンテラを燃やすカーバイトの独特な匂いがたちこめる、田舎芝居の一座の演劇を、夢中になって観た記憶があります。あの時代の匂いも、同時に思い出されるのです。

 父に連れ出されて、竣工間近かの新宿歌舞伎町のコマ劇場に行ったことがあったのですが、何を見たのかは思い出せません。でもあの神社の境内の小屋でのチャンバラ劇は、鮮明に思い出されるのです。あの歌舞伎町界隈で、なにか美味しい物をご馳走してくれたのだけは思い出せますが、のど元す過ぎればで、これも何を食べたかの記憶なしです。

 二人の兄は、誘われても付いて行かず、弟は幼かったのか、私がついて行ったのだと思います。でも父は、一人一人秘密に連れ出すので、兄たちも弟も、そんな機会があったのだろうと思います。父を独占できても、言いふらしたりしなかったので、各自に父との間に秘密があったかも知れません。

 さて、父・滝沢修を、ご子息の壮一氏が書かれて、「滝沢修と激動昭和」という題の著書を出版されていて、このたび、それを読了しました。その人間性に触れて、驚いたのです。

 きっと父の影響もあってでしょうか、この滝沢修の始めたような演劇活動の多くが、社会主義者集団だと思って、自分は毛嫌いしていたのです。何せ、{🎶貴様と俺とは同期の桜・・・♫]と、黄色い嘴で歌う、特攻隊や予科練に憧れた、時代遅れの軍国少年だったからです。

 と言うよりは、スターリンのソ連の粛清や弾圧や拷問を聞かされて知っていた私は、そう言った動きを嫌っていたのです。父は、ジャズや演劇界の役者たちは、一度やったらやめられない「ヒロポン」を打っては活動するのだと聞いたのです。それで警戒の目で偏見していたわけです。

 ところが、この滝沢修は、『生涯借家住まいをした人でした!』とのご子息の本を読んで、家も車も別荘も持たない自分が共感して、興味をもったわけです。

 この滝沢修と同世代人の父は、軍人の家庭で育っていましたが、軍国主義者ではなく、当時の一般的な人だったのでしょう。軍需工場の仕事にも従事していた父は、反共の立場の人だったのでしょう。四人の自分の子を、この世の悪から守ろうとしたのでしょうか、そんな男として生きていく注意事項をよく聞かされていたのです。

 また、ジャズや演劇の世界に生きる人間は、ヒロポン中毒者が多くいることを聞かされました。一度親しんだらやめられない中毒患者となって廃人になってしまうと、父は言ったのです。もちろん芸能界の人たちがみんな、そうだと言うわけではありません。一つの世界の問題を指摘してくれた訳です。

 社会主義者が社会を改善しようとする反面、自分たちは階級闘争や競争相手の粛清に明け暮れているような、ソ連の実情を知らされたのです。仲間を信頼できなくて社会がよくなっていくはずはないのです。

 共産圏諸国の生活の悲惨さ、労働意欲の無さ、物資の欠乏、理想と現実の違いなど、多くの矛盾があって、そういった社会に生きている人たちの息苦しさを知ったのです。そんな社会が続くためには、監視して自由を奪い、独裁的支配しかないのでしょう。映画館で観たニュースに映る民衆の目が、不安と恐れで溢れているのが分かっていました。
  
 しかし、社会を混乱に陥らせるような考えなどは滝沢修にはなく、役者魂に徹した、善良な役者馬鹿だったのでしょう。

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 滝沢修は、妻の文子をガンで亡くしています。彼を支えた妻があっての名優だったことは、文子の最後の言葉によって分かります。亡くなった後に。妻のハンドバッグにメモが残されてあったそうです。

『万一私が手術で死んだなら・・・私は最も幸福な妻であり、母であったと、心から思っていることを信じてください。結婚以来の生活を振り返ってみて、私には感謝のみ残ります。しあわせな生涯を私に送らせてくださって、ほんとうにありがとう、心からお礼を申します。
 家族のみんなのしあわせを心から祈りますのあんまり悲しまないでください。』

 41歳で文子が亡くなった時、長男・壮一が13才、長女・直子が10才、次女・雅子が6才で残されています。修は、大阪公演に出演で留守でした。豪邸に住むことだってできた、映画や演劇やテレビに引っ張りだこの俳優でしたが、慎ましく質素に生きた人だったようです。

 私は、演劇人や歌手などの人たちは、家庭を顧みず、奔放に生きている人の集団だと思っていましたが、自己を律し、人気取りのためにではなく、こよなく演じることを楽しんで、しかも命懸けで俳優として生き抜いた滝沢修への敬意を覚えたのです。演劇人への偏見がなくなってしまいました。

 軍国主義も社会主義も、国家建設には理想的な考えではなくて問題だらけのようです。共産主義者と疑われ特高警察に拘束されても、どんな境遇を生きても、滝沢修は屈することなく、一人の舞台俳優として、愛する妻と子たちがいて、素敵な生を生き抜いたのです。ご子息の父への熱い思いにも触れた、そんな今年の夏でもあったのです。

(ウイキペディアによる滝沢修、劇団民藝本部です)

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秋よ来いの心境です

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 咲いても、一輪車か二輪だった朝顔が、少し気温が低めになってきたからでしょうか、十輪以上も開くようになりました。

 8月7日が立秋でしたから、それから2週かも経って、八月下旬、甲子園の高校野球も、明日は決勝を迎えます。石橋高校、大社高校の活躍を、「バーチャル高校野球」のサイトで観戦し、甲子園に行って観たいと思ったほどの今夏でした。
 
 天気の長期予報は、
十月頃まで、この暑さは残ると言っていましたが、もうおごっそさんで、十分です。まだ赤とんぼの舞う姿を見かけませんが。満を持している感じがして、『秋よ来い🍂』の心境です♪

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やっと、でしょうか

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 さしもの猛暑も、昨夜は涼しくなって来たようです。虫の音が聞こえ、秋を告げ🍂、やっと一息つけそうです。

 iPad が、雷様(雷様)の大暴れで、落雷や停電の影響でしょうか、Wi-Fi をcatch できなくなってしまいました。昨日は、息子が診断してくれ、iPhone で操作を指示してくれましたが、要を得ず、週末に駆け付けてくれるようです。

 今日は、最高気温予報は32℃で、午後は雨のようです☂️。降り方が半端ではありません。文句なし、生きていますのでご安心ください。

(5点セットのベランダと室内の花々です)

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男のけじめ

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 父が、『急に老けてしまった!』のを感じた時がありました。父が34歳の時に、三男として生まれた自分でしたが、この自慢の父親は、男五尺強、十六貫で、dandy だったのです。

 背丈はありませんでしたが、明治男の標準で、恰幅は良かったのではないでしょうか。東京圏の出身で、都会的な sense を持ち合わせていたのです。身の回りには、日本橋の三越で、誂(あつら)えた背広、Yシャツ、黒川靴、ネクタイ姿で、お洒落に颯爽と電車通勤をしていました。

 また持ち物は少なかったのですが、それを大事にする人でした。子ども心に驚いたのは、Yシャツの襟や袖口が擦れてくると、裏返しに出して使い続けていました。しかもクリーニングに出したYシャツに、母にピカピカに磨かせた靴を履いていたのです。

 病んで伏せている父を見たことがありませんでした。熱があると、熱いお風呂に入って、鉢巻をして、『ウーン!』と唸りながら寝ると、翌朝は定刻に起きて、朝餉を終えると、着替えて通勤してしまうのです。医者とは縁のない様に見えたのです。

 ところが、通勤の小田急電車が急ブレーキをした時に、くも膜下出血を起こしたのです。丈夫だったと自負していたので、自分では軽いと思っていたのでしょう。しばらく放っておいたのですが、けっきょく地元の市立病院に入院してしまったのです。

 その頃は、すぐ上の兄のジャンバーを羽織り、運動靴を履いて、退職後の第二の職場に通勤ていたのです。自分の会社をいくつか持っていたのに、それを畳んだか、人に譲ったのか、洒落(しゃれ)男が変わっていく様子に、驚いたのです。もう構わなくなってしまっていました。六十前でしたが、父の変化に驚いていたら、退院する朝に、脳溢血を起こして、そのまま亡くなってしまったのです。それは衝撃的でした。

 父が六十一で召されて、父よりも二十近く長生きをしている今の自分を、ちょっと距離を置いて眺めてみると、ずいぶん構わなくなってきたのに気づくのです。着なければならない時のための背広もYシャツもネクタイも残してありますが、着る機会がありません。

 この人生の cycle の変化を、しっかりと受け止めなくてはいけないのかも知れません。『もういいよ!』と言わないための努力が必要になってきている様です。ちょっと出かける時も、『好きな娘(こ)に会ってしまう時のために!』と、気配りを怠らなかった頃の思いを忘れずに、世間に対しても、みすぼらしくない様にする努力が必要なのです。

 「笑」が何十個もプリントされた物、賛美チームの物、シンガポールの名所をプリントした物、もう何年も何年も着古して、Tシャツは色褪せ、生地が薄くなり、襟元が破れてきています。そんな着古した物を着ている自分も、もう十分に、草臥(くたび)れてきているのです。

 ところが、ユダ族のカレブは、モーセに次ぐ指導者とされたヨシュアに、次の様に言っています。

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア記 14章10~11節)』

 彼は、八十五歳になる自分が、四十歳の時と同じ様に『今も壮健です。』と、カレブは言ました。自分の氏族の受けるべき相続分を、そう言って願い出たのです。人は外観だけでなく、やはり内面なのでしょう。ボロをまとえども、心は輝かせているべきです。
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 信長は、「人間(じんかん)五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と、「敦盛 幸若舞(こうわかまい)」を舞ったのですが、私は、26の時に、人生に永遠の希望を持たせていただいて、半世紀強を生きてきました。恥多いこれまでですが、悔いなし、罪を赦され、死を恐れずに、明日への望みを得て、今を生きられて溢れる感謝でおります。

(ウイキペディアによる父の生まれた街の市章、織田信長像です)

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当たりなのか外れなのか

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 「親ガチャ」と言う言葉がある様です。おもに若者が、自分の親を評して、そう言うのだそうです。この「ガチャ」は、スーパーの入り口でしょうか出口に、子ども相手に、100玉を入れて、ガチャガチャとノブを回すと、何が出てくるか分からない、プラスチックの入れ物に入った、人形などが出てくる、あれです。

 百円の価値などない物に、出たとこ勝負、運などによって手に入れ様とする、賭け勝負の遊びの子ども版だと言えそうです。けっこう、あの機械の前にしゃがみこんで、誘惑されている子どもたちを多く見かけたものです。でも、そう言った光景を、最近はあまり見かけません。

 ガチャガチャの機械は、今は廃れて、入り口にロープで閉鎖され、閑古鳥が鳴いていて、いつもの散歩コースにある大駐車場を持った、大人版のパチンコ屋と同じなのでしょうか。〈何が出るか?〉、〈どれだけ出るか?〉で誘っている点で、似ています。儲かるとか、得をすると言った、努力や研鑽や克己などとは全く違った思いを、幼い子どもたちに植え付けてしまっていたのです。

 わが家は、ガチャをさせないで、けっこう厳しく、尻叩き(英語ではスパンクspank と言います)までされた子どもたちなのです。そろそろ五十代になっている今、ほんとうは、「親ガチャ」なのに、『よく育ててくれた!』と、とくに娘たちが、lip service をしてくれています。彼らには、《当たり🎯》だったのでしょうか、〈ハズレ!〉だったのでしょうか、今や親が、歳を重ね、しかも病気がちで、気の毒で励まそうとして、そう言うのでしょうか。

 でも「スポ少」と言う、家に籠りがちの子どもたちに、強くなって欲しくて、スポーツをさせようとする願いからでしょうか、野球やバスケットボールやサッカーなどが盛んに行われていて、それはさせてあげたのです。今頃の季節には海水浴にだって、よく連れ出しました。あの高額な入場料のディズニー・ランドにだって何度も連れて行ったのです。

 賭け事の子ども版に踊らされた子どもたちが、ちょっと大きくなって、それと同じで、親を選べない現実と、当たり外れ、外ればかりのガチャガチャに絡めて、「親ガチャ」と言うのです。外れガチャこそが、自分の両親だと思わせてしまったのは、随分と子どもたちは不幸ではないでしょうか。

 父に愛されて育った私は、〈内弁慶〉だと言われました。家では威張っていて、外ではからっきし弱虫なのです。そんなで病弱な私を強くしようと、『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と、父は言ったのです。殴られても、泣いて尻尾を丸めるのではなく、殴り返す様にされて、相手が give up するまで頑張ってしまう子になってしまったのです。

 もしかしたら、「子ガチャ」、「教師ガチャ」、「市長ガチャ」、、今日日、関西圏には「知事ガチャ」がいるのでしょうか、どこでも大騒ぎをしている様です。「首相ガチャ」だと騒がれて、退陣して、首長の座を下りるニュースで、日本が驚いているとかですか。

 ある聖書の言葉に、私は励まされて、『生きていていいんだ!』と思わされたのです。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

 ヤコブ(後に、主なる神によってイスラエルに改名されています)の子孫が、不信の子、不従順な子、つまり「子ガチャ」なイスラエルの民を、族長たちとの契約の故に、「高価」、「尊い」と言う風に見て、遇してくださると言う箇所です。自分も、ずいぶんなガチャ人間でしたが、キリストに故に、「高価で尊い」とされ、愛を実感できたのです。ただ憐みのゆえでもあります。
 
(ウイキペディアによるガチャガチャです)
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