.
.
「親ガチャ」と言う言葉がある様です。おもに若者が、自分の親を評して、そう言うのだそうです。この「ガチャ」は、スーパーの入り口でしょうか出口に、子ども相手に、100玉を入れて、ガチャガチャとノブを回すと、何が出てくるか分からない、プラスチックの入れ物に入った、人形などが出てくる、あれです。
百円の価値などない物に、出たとこ勝負、運などによって手に入れ様とする、賭け勝負の遊びの子ども版だと言えそうです。けっこう、あの機械の前にしゃがみこんで、誘惑されている子どもたちを多く見かけたものです。でも、そう言った光景を、最近はあまり見かけません。
ガチャガチャの機械は、今は廃れて、入り口にロープで閉鎖され、閑古鳥が鳴いていて、いつもの散歩コースにある大駐車場を持った、大人版のパチンコ屋と同じなのでしょうか。〈何が出るか?〉、〈どれだけ出るか?〉で誘っている点で、似ています。儲かるとか、得をすると言った、努力や研鑽や克己などとは全く違った思いを、幼い子どもたちに植え付けてしまっていたのです。
わが家は、ガチャをさせないで、けっこう厳しく、尻叩き(英語ではスパンクspank と言います)までされた子どもたちなのです。そろそろ五十代になっている今、ほんとうは、「親ガチャ」なのに、『よく育ててくれた!』と、とくに娘たちが、lip service をしてくれています。彼らには、《当たり🎯》だったのでしょうか、〈ハズレ!〉だったのでしょうか、今や親が、歳を重ね、しかも病気がちで、気の毒で励まそうとして、そう言うのでしょうか。
でも「スポ少」と言う、家に籠りがちの子どもたちに、強くなって欲しくて、スポーツをさせようとする願いからでしょうか、野球やバスケットボールやサッカーなどが盛んに行われていて、それはさせてあげたのです。今頃の季節には海水浴にだって、よく連れ出しました。あの高額な入場料のディズニー・ランドにだって何度も連れて行ったのです。
賭け事の子ども版に踊らされた子どもたちが、ちょっと大きくなって、それと同じで、親を選べない現実と、当たり外れ、外ればかりのガチャガチャに絡めて、「親ガチャ」と言うのです。外れガチャこそが、自分の両親だと思わせてしまったのは、随分と子どもたちは不幸ではないでしょうか。
父に愛されて育った私は、〈内弁慶〉だと言われました。家では威張っていて、外ではからっきし弱虫なのです。そんなで病弱な私を強くしようと、『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と、父は言ったのです。殴られても、泣いて尻尾を丸めるのではなく、殴り返す様にされて、相手が give up するまで頑張ってしまう子になってしまったのです。
もしかしたら、「子ガチャ」、「教師ガチャ」、「市長ガチャ」、、今日日、関西圏には「知事ガチャ」がいるのでしょうか、どこでも大騒ぎをしている様です。「首相ガチャ」だと騒がれて、退陣して、首長の座を下りるニュースで、日本が驚いているとかですか。
ある聖書の言葉に、私は励まされて、『生きていていいんだ!』と思わされたのです。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』
ヤコブ(後に、主なる神によってイスラエルに改名されています)の子孫が、不信の子、不従順な子、つまり「子ガチャ」なイスラエルの民を、族長たちとの契約の故に、「高価」、「尊い」と言う風に見て、遇してくださると言う箇所です。自分も、ずいぶんなガチャ人間でしたが、キリストに故に、「高価で尊い」とされ、愛を実感できたのです。ただ憐みのゆえでもあります。
(ウイキペディアによるガチャガチャです)
.