今住むアパートの向かい側に、大きな駐車場があります。以前、ここに市役所や消防署があったのだそうです。赤や白の車体で、サイレンを鳴らして、道路を疾走して火事場に向かう、「消防自動車」や「救急車」は、市民には頼もしかったことでしょう。
小学校の親友の自慢のお父さんが、消防士をしていました。遠くから越境通学で通っていて、中学校は、別々の学校に進学したままで、それ以来会うことは無くなったのですが、彼も、お父さんと同じように消防士になったのでしょうか。
江戸時代の江戸では、纏(まとい)を持った若者たちが先頭を走り、鳶口(とびぐち)や「大のこ」と言った消火用の道具を手にする一団が、火事場に急行する光景が見られたことでしょうか。江戸の町には、いろは四十七組に、一組を加えた「四十八組」の火消しがあったそうです。め組とかい組があって、歌に歌われ、歌舞伎にも登場したようです。この地にも、同じような消防組織があったようです。
まさに男の世界であり、映画俳優たちのように憧がられたりしたのでしょう。「いなせ(鯔背)」な男集団で、威勢がよく、さっぱりしていて粋(いき)な気風や、勇み肌の人たちだったそうです。江戸の日本橋に魚河岸があって、そこで働いていた若者たちが「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼ばれる髷(まげ/髪型)を結んでいたのだそうです。その魚河岸にいるような、粋で腕っぷしが強く威勢のいい若者たちが、江戸火消しで、大変に人気があったようです。
次男が、『消防自動車になりたい!』と言ったほどに、憧れていましたが、火消し、消防士にはなりませんでした。”fire ” という題のアメリカ映画が、昔ありましたが、火の中で消火活動する勇敢な姿を、息を呑むようにして観たことがありました
落語にも、この消防士の登場する名作があるのです。噺家によって、アレンジされていて、名席や名人と呼ばれたみなさんの出し物だったようです。昔は、「火消し」と呼ばれ、半纏に褌で、江戸の街中に起こった火事場に走ったのです。
「火事息子」という演題で、人情物の落語があります。江戸には、いくつかの火消しの組織があって、「臥煙(がえん/江戸版の消防士)」と呼ばれた一団がありました。江戸城の周囲に、「見付」があって、その警護に当たった奴(やっこ)を、そう呼んだそうです。満身彫り物の男たちで、いつ半鐘(はんしょう)が鳴って火事が起こっても、即座に、火事場に急行できるように、「火消屋敷(十人屋敷)」に寝起きして待機していたのです。
その一人が、有力な神田の質屋、伊勢屋の跡取りでしたが、素行が悪く、江戸の華、火事が好きで「臥煙」になってしまったのです。その名を徳三郎と言います。ある日、火事が起きて、延焼しそうになった時の噺で、次のようです。
『火事だというのに大切な蔵に目塗めぬりがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。
その時、屋根から屋根を、まるで猿ましらのようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。
身体中見事な刺青(いれずみ)で、ざんばら髪で後ろ鉢巻(はちまき)に法被(はっぴ)という粋いきないで立ち。
ぽんと庇(ひさし)の間に飛び下りると、
「おい、番頭」
声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。
男は火事好きが嵩じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当(かんどう)になったまま行方知れずだったこの家の一人息子、徳三郎。
慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。
「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあ、おめえの忠義になるめえ」
おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。
見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。
「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。
しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。
顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。
「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。
勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。
わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」
そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。
甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。
「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。
母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。
「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。
「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」
意味を察して、母親は大張り切り。
「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」
しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言い出すから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」』
(「落語のあらすじ辞典Web千字寄席」より引用)
結婚して五十余年、一度だけ火事に遭ったことがあります。アパートの二階に住んでいた時、上階の家がガス爆発して、黙々と黒煙をあげて火事になりました。消化器を持って上がったのですが、新建材に煙で家の中に入ることがでず、ご婦人と飼い犬が焼死してしまったのです。消防自動車と消防団が、放水して鎮火したのですが、階下のわが家は水浸しでした。教会の建物が近かったので、家族を避難させましたが、家財はほとんどが水浸しになってしまったのです。
その時は、次男が、家内のお腹にいて、翌月には出産予定でしたが、爆発の瞬間を覚えていなく、子ども三人も無事でした。ベランダの小鳥が焼死し、ベランダの窓ガラスが全壊し、警察と消防の検証で、『爆発の連鎖がなかったのが不思議です!』と言っていました。新聞社の取材を受けたりでしたが、自分だけが、頭部にガラスに破片を受け、整形外科で治療を受けただけでした。母教会がとても助けてくれたのが嬉しかったのです。
その火事には、臥煙の徳三郎は来ていませんでしたが、火を通りながら守られた経験は、感謝でいっぱいでした。
(ウイキペディアによる江戸の大火図、消火用桶です)
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