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「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書 ミカ6章8節)」
憲法の改正を求める声が、有識者の中にある反面、この平和憲法を守り続けようとする声も強くあります。憲法論議は、戦争放棄だけの問題だけではなさそうです。憲法を、どう国民生活に当てはめていくかも大きな課題でもあり、大きな課題をもたらした時期がありました。
私たちの国の福祉行政や社会福祉そのものの遅れが叫ばれていた頃に、私は、学生でした。当時、生活保護を受けるために、実に厳しい査定が行われていたのです。極力、公費の負担を減らすために、支給条件が厳しく、その受給の必要のある人を制限づけていたからです。国の財源も、まだ少なかったからでしょうか。
昭和25年に、「生活保護法」が制定されました。それは戦後の新憲法で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(第3章25条1項)」の条文から、国民に生活を保護し、幸せを享受するために制定されたのです。
結核にかかって、岡山の療養所に入所していた朝日茂氏は、その生活保護を申請し、毎月、生活扶助と医療扶助として600円を支給されていたのです。その金額で、生活をし、治療をしていくことは、その頃の物価水準からしても、とうてい生活をしていくことができなかったわけです。
1957年に、所轄の福山市の福祉事務所に、給付金の増額を願い出ます。そうしますと、福祉事務所は、お兄さんに、毎月900円の援助をしてもらう様に、通告しました。そんな経緯で、国に対して、扶助の増額の訴訟を起こさざるを得ませんでした。
あの頃、福祉事務所は、そういう対応したのです。親兄弟、親族の助けを求めました。もっと酷い場合は、それは笑うに笑えないのですが、受給者が、岸田さんなら、同姓の岸田さんに、生活の助けを求めるようなやりかたが、行政の指導だったそうです。そんな前近代的な扶助の時代だったのです。
それを「朝日訴訟」と言って、大きな話題となったわけです。戦争が終わって、『この国に生まれ生活する私たちが、健康に、文化的に生きていくために、国が責任をとる!』と謳った「平和憲法」はあっても、実際の国民生活には、まだまだ不十分だったのです。
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生活権を主張して、保護費の増額が、裁判所に持ち込まれた頃、今、即位されて天皇となられた徳仁さまのご両親が結婚をされた後、このお二人に、子どもが生まれ様としていた頃でした。福祉や社会事業に関わる方々が、心密かに願っていたことがあったのです。その「密かさ」の中に、切なる願いが込められていたわけです。
それは不敬になることで、戦前では、決して許されないことだったのですし、平和憲法のもと、自由な雰囲気が立ち込める時代の只中でも、公にできないものでした。それだけ財源が乏しく必死な時代だったのかも知れません。でも、国庫にも、各行政府には余剰金は隠されていたのです。
それは、『もし生まれくる皇嗣(こうし)が、障害を負って誕生されるなら、日本の福祉は、大きく変わっていくかも知れない!』と言う切なる願いでした。決して人の不幸を願うのではなかったのです。もちろん心身に不自由をもって生まれることが、即不幸というのではありませんが。『生活苦の朝日さんが、最低限度の生活が保障され、ある余裕をもって、病と戦いながら、幸せであって欲しい!』と願ったからでした。
昭和35年2月23日に、男子が誕生され、徳仁と命名されました。五体健康で誕生されたのです。優しく、思いやりがあり、好感度抜群な徳仁さまでいらっしゃって、素晴らしい人格をお持ちです。皇后雅子さまやご息女の愛子さんに対する、やさしく思いやりのまなざしや行動は、実に素敵で、みなさんから愛され、尊敬を受けておられます。
それだけ、当事者のみなさんは、必死だったということでしょうか。経済大国になって、世界でも有数の豊かな国となった今、戦後間もなく厳しい生活下に置かれたことが、嘘でもあるかの様に、社会弱者への労りが、今生まれようとしています。『生きることとは何か?』を、人と国家に問いかけた裁判でした。
平和を掲げ、幸福を掲げた新憲法の誕生には、多くのクリスチャンが関わっていたのです。聖書の精神が、反映されて、憲法が誕生しているのです。わずかな数のクリスチャンたちが、この社会、この国の良心の礎となっているのは、感謝すべきことかも知れません。預言者ミカが記した神のことば、「公義を行う」ことこそ、国家、国政にあたる人たち、官吏に認められるべきことに違いありません。
(Christian clip artsによるイラストです)
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