コスモスと吾亦紅が

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 ラジオ体操仲間で、近所の方が、庭に咲いていたコスモスと吾亦紅(われもこう)を摘んで、持ってきてくださり、テーブルの上に置いてあります。この時期の花です。何年も前に、信州の街道沿いにコスモス畑があって、花見の後、テントでお昼が出る、と言うので、ちょうど子どもたちが来ていて、一緒に出かけたのです。

 街道沿いの畑二枚くらいに植えられていましたが、人々を呼び集めるほどではなかったのです。ちょっとがっかりでしたのですが、お昼を用意してくださっていたので、それを美味しくいただいたのです。ガッカリが帳消しになって、満腹で、そこを後にしました。

 そんなことを、テーブルの上のコスモスと吾亦紅を眺めながら思い出してしまいました。

(家内が撮った写真です)

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栗ご飯のにおいがしてきて

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 平安の歌人、西行が、こんな和歌を詠んで残しています。

やまかぜに みねのささぐり はらはらと にわにおちしく おおはらのさと

 『一度は!』と思っていた、関西空港に着く便で、帰国した折に、京の北、大原の里に、二年続けて寄ったたことがありました。その夕食に、民宿自家製の味噌鍋が出て、感激したのです。ご承知の様に、中華料理は、油で炒めた料理が多く、秋刀魚を市場で買っては、電気コンロにフライパンで焼いて、おろし大根を添え、アサリの味噌汁で食べたりしていましたが、民宿仕込みの味噌を使った鍋は、もうまるっきりの日本料理でした。

 日本のよさを舌と胃袋で感じた、なんとも感謝な時でした。その時は、大原は、シーズンオフで、旅行者はまばらでした。村中にあった、感じのよい喫茶店に入りましたら、マスターがご婦人で、すっかり三人の話が打ち解けてしまいました。『次に来られたら、家の玄関の方の呼び鈴を押してください!』とのことでした。地元の野菜や蜂蜜やお菓子などの店を訪ねたりの一泊追加で、2泊3日の味噌日の連続でした。

 もう栗の季節は過ぎて、雪が舞う十二月でした。大原女(おはらめ)が歩いて京の都に行き帰りの山道を、路線バスで行き来したのです。京の奥座敷と言っていいのでしょうか、元の西安の都に真似た都なのに、それ以上に、都らしい風情の古都を眺めながらの訪問でした。

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 この下野日光にも、栗の木があって、西行が聞いた篠栗(ささぐり)が地に落ちる音を、私も聞きたかったのですが、毱(いば)に入ったままの栗が散らばっていて、子どものように嬉々として栗拾いをしたのです。持ち帰って、茹でて美味しかったので、大粒を選んでお隣さんにお分けしたのは、二年前の九月ででした。

 栗拾いも、小動物と競争で拾わないと、みんな彼らの胃袋に持って行かれてしまいます。

 果物の豊富な秋、もう柿が店頭に並んでいますし、りんごも無花果も、出回っていますが、値段が、嘘のように高いのには目が飛び出そうです。あの芭蕉も、きっと栗に目がなかったのでしょうか、よく、栗を俳句の中に歌っているようです。木から落ちた栗を見て、こんな句を詠んでいます。

世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 福島の須賀川で、谷内弥三郎(俳号は可伸)の生き方に共感したのか、栗の木に咲く花は、衆目を集めるほどの花ではないようですが、世人の評価など求めない、可伸の凡凡たる生きる姿が、芭蕉は気に入ったのでしょうか。

行く秋や 手を広げたる 栗の毬(まり)

 誰にも故郷があるように、芭蕉は、自分が生まれ育った伊賀の地に立ち帰っています。死期を間近にしていた時に、こう詠んだのです。故郷の栗の木に、イガを開いたままに残るイガグリを眺めて、まるで手のひらを開いているようにしている様子が印象的だったのでしょう。イガは、栗の実を包んで、時期が来ると弾けるのです。栗の木の一年一年の終わりを見せていたのと、自分の死が間近なのを知って、共感感していたのかも知れません。

 栗の実を 食べさせたいと 孫思い

 秋の味覚の松茸はともかく遠慮して、母が炊いてくれた「栗ごはん」が食べてみたいな、と思う朝です。生の栗の皮を剥き、渋沢を取るには大変そうですね。面倒を厭わずに炊いてくれた日を思い出す、もう秋なのですね。

(ウイキペディアによる大原女、栗です)

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