朝な夕な山々を眺めながら

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 晴れた日に、四階の家の東側の窓から、筑波山が、くっきりと遠望できます。男体山と女体山の二つの峰があって、ここからの方角が、最も綺麗な山容を見られるのだと、近所に住む友人が言っておられました。日の出の方角で、山陰から登ってくるように見える時季もあるのです。

 茨城県の名山で、広大な関東平野の北に位置していて、よく目立ちます。望遠レンズの付いたカメラで撮ったら、よい写真が撮れそうです。南に富士、西に大平、北に下野男体の山が眺められる、山好きの方からは羨やまがられそうです。

 この筑波山で、歴史的な出来事が起こったことがあったのです。倒幕の発端の一つとなった、尊皇攘夷を掲げる「水戸天狗党」が、1864年に、この山で、挙兵したのです。「天狗」とは、鼻を高くして威張った風に見えたからの命名だったようです。その首謀者は、若干22歳の水戸藩士・藤田藤吾の子であった、藤田小四郎で、同じく水戸藩士の年配者の武田耕雲斎を首領に担ぎ出して、総勢62人によってでした。

 小四郎は、子どもの頃から肝が据わっていて、父・藤吾の尊皇攘夷思想に従って、二十歳そこそこで、長州藩士の桂小五郎や久坂玄端たちと交流していたのです。あの渋沢栄一は、「非凡の天才」と言って、高い評価を下しています。転戦して行きますが、北陸の敦賀で捕られ、耕雲斎とともに処刑されてしまいます。

 この天狗党は、同志を得ようとしますが、思ったようには集めることができず、水戸から宇都宮、日光、そこから例幣使街道を通って、ここ栃木にも来ています。栃木の宿場に火を放って、237軒もの家が消失した、大火事が起きたのだそうです。軍資金を得るために商家を襲ったりしますが、うまくいかなかったのです。大平山に登って、40日ほど過ごしていたようです。資金と仲間をなかなか得られなかったのです。

 家の近くのうずま公園の中ほどに、「供養塔」があります。

[西山謙之助について]

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 『瀬戸の原と云われたうずま公園内栃木駐車場の中に幸来橋木戸にて戦死した、岐阜の侍医のこ23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。瀬戸の原は明治になり下都賀郡役所が建ち、昭和35年に郡役所職員が浄財を募り、西山謙之助供養塔が建てられた。平成27年の11月に地元の有志により供養塔に祠が設けられている。(「銀次のブログ」の記事です)

 幕末の動乱の中で、藤田小四郎や西山謙之助らのように、前途有為の青年が失われたのは、残念なことでした。この街から出征し、外地で戦死されたり、戦後の引き揚げで、命を落とした方々も多くおいでです。だから、私たちは、過去に学んで、平和を何よりも希求していく必要があります。天狗にはならず、謙遜であるのがよさそうです。

(ベランダから望む筑波山です)

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