剣を取る者はみな剣で滅びます

 

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『すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。  そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(新改訳聖書マタイ26章51-52節)』

 「壬生義士伝」という小説があります。浅田次郎の作で、幕末に登場した新撰組(壬生狼〈みぶろ〉と呼ばれていました)を取り上げた作品でした。この幕末に、不穏な動きの見られる京都の守護のために、募集された浪士集団で、会津藩の庇護のもとにあり、局長が近藤勇、副局長が土方歳三で、討幕の勤王の志士との間で、争いが絶えませんでした。

 この土方歳三を、本や映画で知って、小学校の時に、土方(ひじかた)という苗字の同級生がいたのを思い出したのです。きっと彼は、親戚関係だったと思われます。農民でしたが、仕事は自家の秘伝の石田散薬を売り歩きながら、その合間に剣道の道場で、ヤットウ(剣道)を稽古をしていたのです。

 直参旗本に取り立てるという触れ込みを聞いて、脱藩浪士や農民たちが、応募して、京の都の警護に当たった、浪士たちの集団だったのです。彼らは、京の郊外の壬生にあったお寺を、屯所にしていました。芝居や映画に取り上げられて有名になったので、私も知るところとなったのです。浅田次郎の小説で、主人公が、吉村貫一郎、盛岡南部藩からの脱藩の浪士なのです。映画化され、日本アカデミー賞 最優秀作品賞、最優秀主演男優賞などに輝きました。

 吉村は、下級武士ながら、文武両道に秀でていて、藩校(藩黌が正式な漢字表記)の教師をし、剣道は、千葉周作道場の北辰一刀流の免許皆伝で、藩の子弟に文武両道を教えていたのです。次世代の教育や指導の任にあたっていた様子が、映画に描かれています。しかし、生活は、至極貧しく、しかも子沢山でした。食べるのが精一杯でしたが、夫婦も親子の関係もよく、貧しさを跳ね返しながら生きていました。

 でも自分の境遇、家族の様子に耐えかねて、脱藩をしてしまいます。幼な馴染で、同じ長屋で生活してきた親友であったのは、藩の重役の婚外子でした。その家の跡取りが亡くなって、急遽、本家に呼ばれて、家督を継いでいく大野次郎右衛門なのです。そのかつての親友に、旅手形を出してもらい、とうとう脱藩してしまいます。貫一郎が向かったのは、尊王攘夷との戦いを京都で繰り広げる、幕府側で、京都の治安を守る新撰組に入隊します。

 剣に優れていて、新撰組一、二の剣術の使い手として、師範に抜擢されます。守銭奴の様に、隊から報酬を求めて生き、その報酬金を、京の南部藩邸に出入りする、南部の御用商人の店の使いに託して、留守家族にお金を届けるのです。貫一郎と息子の間の書状のやり取りも描かれ、家族思いの姿が演じられるているのです。

 新撰組の宴会の席で、この小説のもう一の主人公で、これも剣の達人で、明治維新後まで生き残り、東京の治安に当たる警察官となる、斎藤一が隣に座します。この斎藤の独白で、この小説も映画も始まり、終わっているのです。この二人のやり取りで、隣席の貫一郎が、故郷の南部自慢を、家族自慢を交えて語る場面が、実に面白く演じられているのです。

 そんな田舎者を嫌い、斎藤は切ってしまおうと、屯所への帰り道の付き合いに、酔った風に見せて誘い出します。二人とも剣の強者で、互角に渡り合います。藩支給の褒賞金を貪る吉村雨嫌い続けますが、鳥羽・伏見の戦いの折に、官軍との戦いに、新撰組は敗走するのです。

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 握り飯を手にした吉村が、仲間に配るのですが、最後の一つを斎藤に差し出しと、彼は貪り喰うのです。食べ終わって、ふと、『お前の分は?』と言われた吉村は、竹の皮の包みに残った一粒の米を、苦笑いをしながら口にして、十分な顔をします。そして、武士の義のために官軍に切り込んでいく姿を見て、それほどに仲間を大事にした吉村、武士(もののふ)に徹して生きてきた男に、やっと、真性の武士として認めるのです。吉村は、南部藩の京の屋敷に、深手を負いながら転がり込みます。大野は、吉村に切腹を命じ、それに従って腹を切って果てるのです。

 時は、すでに薩長軍の勝ち戦で、新撰組は落ち延びていき、近藤勇は、下総流山で討ち死にし、土方歳三は、函館の五稜郭で果てます。その最後の戦いに、貫一郎の子の嘉一郎が幕府軍の兵として、南部から加わり、その地で討死するのです。蛙の子は蛙、武士の子は武士で、子も父の志を継いで、父親の様に生きて果てるのです。

 大野の子は、千秋で、明治維新後は、医師となり、東京で開業するのです。千秋の妻は、貫一郎としずの子のみちで、翌朝、満州に行こうとするところに、風邪をひいた孫を抱えた斎藤一が受診を願ってやって来るのです。診察してもらってる間に、一様の写真が、転がり出ます。壬生屯所で記念撮影をした、あの吉村貫一郎の新撰組の羽織を着た写真だったのです。

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 まるで小説の様な終わり方でした。新撰組も、吉村貫一郎も実在しました。とくに吉村は、新撰組に入隊した折の名で、実際は、嘉村権太郎と言ったそうです。あくまでも、この「壬生義士伝」の筋書きは実話に沿った創作で、読者や映画鑑賞者を想定しての創作です。小説家は、幕末や明治を、そんな風に描くのですから、実に感心してしまいます。

 「武士(もののふ)の道」とは、実に厄介なものだったのでしょうね。聖書は、『剣を取る者は、剣で滅びる。』と言うのです。私の父は、鎌倉武士の末裔だと言っていました。先の大戦では、三十代でしたが、戦場には立ちませんでした。しかし、爆撃機や戦闘機、終戦間近の神風特攻機の機体の一部の製造に関わった責を負っていました。

 それでも、父の最初の子、私の上の兄が牧師になっていて、『俺の腰から出た子が聖職者になるとは!』と母に、感慨深く語ったそうです。その子の勧めに応答して、父の最後の時期に、創造主の前で悔い改めて、イエスさまをキリストと信じる信仰を告白したのです。人には赦されなくとも、万物の創造主に赦されたと、私は、父の救いを、今も信じています。 

(ウイキペディアによる町を行く武士たち 〈『四時交加』より〉、戊辰戦争の図絵、函館五稜郭です)

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