.
若い頃に、いくどとなく聞かれたのは、『あなたは、何のために生きていくのか?』と言う、《人生の目的》への問い掛けでした。
幼い日、父の机の上にあった、打電機で遊んでいて、無線技師になろうと考えていました。電波信号が、地球に裏側にいる人にでも、人の言葉を伝えるという原理が不思議でならなかったからです。その後は、ダムなどを作る土木技師になりたいと思った時期が、中学の時にありました。教師によく叱られ、注意され、立たされ、ある時は叩かれた割には、中学で三年間担任をしてくださった先生の強い影響で、その後は、「教師」になろうと思いました。
その少年期の願いは、二度叶えられたのです。専門の教育者となる学びをしたわけではありませんでしたが、教員試験の受験資格を取れる単位を履修していたのです。ある県の高校教諭採用試験を受けましたが、受かりませんでした。それで、中学の頃から一緒に考古学で、古墳や貝塚の発掘を教えてくださり、一緒に穴掘りをした教師の紹介で、教育研究所に就職しました。3年後に、そこの所長の派遣命令を受けて、所長のお弟子さんのいた高校の教師にさせていただいたのです。
そして、人生の後半になって、中国に留学して、華南の街に導かれ、そこで出会った大学の教師の紹介で、その省の大学の外国語学部日本語学科の外籍教師の機会を与えられたのです。若い頃の教師の経験を買われたのです。作文や日本の文化などの講座を担当し、中国の若者たちと、実に充実した10年ほどを過ごしました。
「ウエストミンスター小教理問答」は、次のような問いによって始められています。
問1 人のおもな目的は、何ですか。
答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
子どもの頃の願いは叶えられたのです。でも、「聖書」を読み始め、祈りをし、神礼拝を守り、基督者の信仰生活を始めたのです。「聖霊体験」をした時に、悔い改めと認罪と、言い知れない喜びや力を感じたのです。それと同時に、教会と「教会の主」であるキリストに仕える願いが、突然、与えられたのです。
人が願っても、することはできなさそうです。牧師や宣教師になることは、ホテルの支配人や学校の教師になることに比べると、私たちの国では評価されません。ある方が私の兄弟たちに保証人を依頼してきました。この方は、下の兄を保証人にしました。下の兄はホテルマン、上の兄は牧師でした。
押し出されるようにして、導かれた伝道者の道を選んだ時、ある方から、『キリスト教の牧師になるって、そんなにお金になる仕事なのですか?』と聞かれました。なぜなら、好条件の仕事に、だれもが転職をするからです。収入の保証はありませんでした。将来の約束もありませんでした。私は、家内と、その5月に生まれようとしていた、家内の胎にいた長男と共に、教師を辞め、献身したのです。不安など一点もありませんでした。今も、あの時の決心は揺るぎません。
ただ、試されたことは幾たびもありました。わが家の低収入を知った長男が、『俺、高校に行けるの?』と聞かれた時は、親として辛かったのです。それで、スーパーマーケットでアルバイトを始めました。その長男が、高校進学で、ハワイの高校に入ったのです。友人牧師が、彼を受け入れてくれ、世話をすると約束してくれたからです。なんと、あの不安な中学2年生だった長男は、働きながら学んで、アメリカの大学院まで行くことができたのです。
国家公務員並みの待遇などなど求めませんでしたし、いつも丁度の分がありました。家内が食卓に、空の茶碗を置くと、お米や佃煮が送られてきたことも、何度かありました。食べられない日、人にお金や物をを借りたり、乞うことなく、子育てを終えて、今日を迎えています。私は心配しませんでした。なぜかと言いますと、雇用者は神だったからです。
『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光のを現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』
ウエストミンスター信仰は、「神の栄光を」あらわすことと言っています。異国の地で病んで、入院し、治療のために帰国しなくてはならず、帰国して病院に行くと、余命半年の宣告を受けた家内が、私と一緒に、「科学的方法による妊娠治療」の可否の相談を、中国の若い大学教授夫妻から、つい最近受けました。「命の付与者」である神が定められた原則、聖書から、私たちは助言をしました。
『・・・私たちがよく考えたら、赤ちゃんが自然な方法で与えられるように祈り続けていきます。また、子供を産む目的をもう一度じっくり考えます。どうもありがとうございます。』と、この方たちからの返事を受けたのです。
聖書の基準に則して、神が願われる方法で、子が与えられるのを待とうとしたのは、これって、主に栄光が帰される意思決定なのでしょう。知的な人たちが、聖書に従って、思いを改めたのです。医師の勧めではない、神の方法に回帰したことに、神からの祝福が伴います。
さらに、ウエストミンスター信仰は、「永遠に神を喜ぶこと」と記します。神を、『信じなさい!』、『畏怖しなさい!』、『従いなさい!』とか言わないで、『喜びなさい』と言いっています。私が出会い、仕えてきた神さまは、《喜ぶべき神》なのです。
『神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。 (詩篇68篇4節)』
今朝も、私の心には、幼かったわが子たちが、小躍りしていた様に表していた《喜び》があります。生かされている、永遠の命の望みに満ちる《喜び》なのです。今を喜ぶことです。明日も喜びます。何が起こっても、どの様な時でも、《主を喜ぶこと》こそ、最善で力なのですから。
.