野の花の如く

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 作詞が杉山政美、作曲が小林亜星の「野に咲く花のように」という歌があります。

野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人を爽やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
トンネルぬければ 夏の海
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

野に咲く花のように 雨にうたれて
野に咲く花のように 人を和やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には つらい人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

 野に咲く花に、「アツモリソウ」と言う名の花があります。蘭の一種で、平敦盛が背負っていた「母衣(ほろ 武士が矢を防ぐために背中に負っていた袋のことだそうです)」に、花形が似ているので、そう名付けられています。乱獲で、今や絶滅危惧種(特定国内希少動植物種)になっているようです。

 「平家物語」に、悲しくも、戦場で死んでいった、敦盛が、一の谷の戦場で、熊谷直実と一騎打ちをする様子が記されています。逃げようとする敦盛を、敵に背を向けることを、直実が諌めると、敦盛は直実の前に戻り、馬上から引き摺り落とすのです。よく見ると、自分の子と同じ年恰好の若武者でした。

 当時は、戦場で、対決する時に、双方が名乗りあったようです。直実は、『武蔵国熊谷(くまがや)の住人・・・」と名乗り、若武者に名乗れと言うと、『名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らふずるぞ(私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう)』と答えたそうです。

 首を取るのを躊躇していると、敦盛は、首を差し出すのです。戦場の武士の慣いで、敦盛は、苦渋のうちに、首を取るのです。その故事にちなんで、名付けられています。自分の息子ほどの年嵩の敦盛を打ったことで、後に、直実は出家して、仏門に入るのです。

 平和の時代を生きて来た自分が、父の話によると、武士集団の源氏の流れの源頼朝に仕えた、鎌倉武士の一人の子孫なのだったそうです。直実の祖は、もともと敦盛と同じ平氏の一族でしたが、頼朝が征夷大将軍についた頃には、その従臣になっていたのだようです。

 同族も、天下を取る運命を担って、さまざまな経緯や力関係で、敵味方に分かれてしまう時代だったのでしょうか。戦場を駆け巡り、群雄割拠する時代に生まれないでよかったなと、つくづく思うのです。

 この出来事をもとに、「幸若舞 敦盛」という舞が、武士の間で舞われるようになり、戦国の雄・織田信長が好んだのです。自ら舞う時があったようです。明智光秀に夜襲された時に、これを舞っていたとか聞いたことがあります。

 信長が残した辞世の言は、『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如く なり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきか。』でした。まさに信長は、五十に届かずに死んでいきます。当時の平均余命ほどだったのでしょうか。

 敦盛草は、何か憂いを含んでいるように感じられますが、寒冷地を好む花で、3cmほどの花をつけます。見たことも、手のしたこともありませんが、「特定国内希少野生動植物種に指定されている花です。北海道の礼文島にも、「レブンアツモリソウ」が咲くそうです。

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『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(新改訳聖書 マタイ6章30節)』

 学校の恩師に、『野の花の如く咲きなむ!』と書いて、卒業祝いに、色紙をいただきました。『名なんかなくていい、偉くならなくていい、ただ蒔かれた所で、しっかりと咲いて、万物の創造者を褒め称えて生きよ!』と、二十二の私は言われたようでした。

 果たして、恩師が願ったように生きられたかを、もう一度顧みながら、自分の越し方を検証したいと思っています。それと共に、どう生きたかを、私の贖い主に、そして、人にも申し上げるようにと思わされております。

(ウイキペディアによるアツモリソウ、礼文敦盛草です)

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