孤舟を漕ぐ

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 私が働いた二番目の職場は、大正デモクラーシーの中で、女子教育に一石を投じた学校が母胎になっていました。「経済」は男子だけのものではなく、女子も経済感覚を身につけ、社会の中で経済活躍する必要があるという趣旨で、専門学校として始められたそうです。戦後、新制の短大と女子中高校として再出発しています。

 私が勤めていた頃には、短大の他に、幼児教育、初等教育、中高教育を、一つの流れの中でしていました。最初の職場に、週二日ほどの勤務で来られていた研究員がいました。その方は、以前、その高校の教師でしたが、その短大の教務部長になっておられていたのです。中高部の教員に欠員があると言うので、私が紹介を受け招聘されたのです。

 働き始めた時、創設者の孫にあたる方が、学長、校長をされていましたが、ご病気で、主事一名、副主事二名の体制で職員構成ができていました。その学校の実力者は、男子教員のほとんどを家に集めてしまうほどの女性の副主事でした。何やらおかしな[空気」が漂っていました。一度、この副主事の家に、いつの間にか、新任の私は連れて行かれたことがありました。そこでの話題は、主事や体制批判でした。

 そう言った、[群れること]のが大嫌いな私は、二度と訪ねることはありませんでした。その様な集まりからでしょうか、「職員組合」を作ることになったのです。待遇改善、つまり給料を上げるための圧力団体の発足でした。40人ほどの教員と講師がいたでしょうか、この私にも、この組合に入る様にとの誘いがありました。私は、そう言った種類の圧力を加える団体には加わりたくなかったのです。そうした個を認めない[空気]に逆らったのは、私一人でした。

 『授業が終わったら会議があります!』という中、3人の主事と平教員の私の四人で、職員室に残り、残務を行なって、時間が来たので、『お先に失礼します!』と帰宅してしまいました。同調しない独りの立場で、私は平気でした。自分は、この学校に、生徒を教えるために招聘され、課せられた授業に集中したかったので、学校経営者への圧力を加えたくなかったのです。

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実は、私の給料は、早稲田や津田塾を出た、同年齢で、学卒で就職した觜、五人の教師たちよりも、高い額を支給されていたのです。それが、東京都からの補助金の金額表が、職員室の掲示板に掲出されて、それを見た早稲田組から文句が出たのです。私立学校ですから、給料は経験を加味されたり、経営者側の考えで決まって当然なのですが、高い給料の私に彼らはねじ込んできたのです。

 『そんなことで争いたくありませんので、私の給料の基本額を、彼らと同じにしてください!』と、法人の事務長に言って落着しました。その時の津田塾出の女教師が、後に校長になっていました。あんな狭い世界にも、女副主事組に加わる様に、[同じ空気]を吸う仲間への誘いといった[同調圧力]が掛かっていたのです。

 私は、数年後には、その短大に移って、そこの教師になるレールに乗らせていただいたのです。その学校にお誘いくださった教務部長の恩師が、ある大学の名誉教授でした。この方は、その教授の一番弟子でしたから、そんな縁故で、その大学でも講師として働く将来が、私にもあったのです。

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 それも自分で獲得した機会ではありませんでしたから、別に惜しいとは思いませんでした。母がお世話になっていた教会の宣教師が、新しい地に開拓伝導をするに当たって、私を助手に招いてくれたのを機に、そこを退職しました。

 日本という「空気」を読んで、するりと生きていけばよかったかも知れませんが、生き方を変えてしまったのです。そのまま、流行らないキリスト教伝道者の道に分け入り、人生の一番良い時期を生きて参りました。日本人で生きるよりも、その枠を出た世界で生きる道を辿ってきて、自分の信念を揺るがさずに来れたのは、「孤立(独り)」でもへっちゃらで生きれた母の感化であり、五十年私を理解してくれた家内がいたからでしょうか。

 こんなことを書いていたら、巴波の流れに、白鷺がたった一匹で、水面を眺めて餌を探しています。群れを離れても、彼(彼女)は、『独りでいられるんだ!』と言っている様です。空気の読めない白鷺の様で、自分が重なります。今も、[重い空気]が日本社会を覆っているようです。

 人は、[群れ]たい、いえ[群れ」ないと、日本人は生きていけないのかも知れません。群れを離れることの怖さを知って、[日本人]の枠を出ない様に、人の目を気にしながら、この狭い、そう言ってもけっこう知らない土地が多くありますが、そこで生きてきたわけです。それが日本という社会なのでしょう。その枠に収まりたくない私は、それでも寂しくも孤立も感じませんでした。孤舟を漕ぐ様な年月でしたが、気心の知れた友がいて、愛する家族がいて、何よりも《神ありき》で、とても満足な年月だったと、越し方を思い返しています。

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空梅雨に思う

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こちらは「空(から)梅雨」でしょうか、あのジメジメした気分がしないのも、何か足りなさを感じがしてしまう様です。毎年、梅雨の時期を過ごしてきたので、それを感じないのは違和感を覚えるのかも知れません。大正期に流行った、作詞が野口雨情、作曲が中山晋平の「雨降りお月さん」の歌を思い出します。

雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ) さしてゆく
(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく

いそがにゃお馬よ 夜が明けよう
手綱(たづな)の下から チョイと見たりゃ
お袖(そで)でお顔を かくしてる
お袖はぬれても 乾(ほ)しゃかわく
雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お馬にゆられて ぬれてゆく


 お嫁に行かせる両親も、見送る祖父母も、そして本人も、迎える婿殿も家族も、雨の降らないことを願ったのでしょう。でも雨が降るのだとするなら、それは梅雨時のお嫁入りだったのでしょうか。

 山里の田舎に住んでいたことがありましたが、そこで嫁入り風景を見た経験はありません。婚礼の前の日に、田起こしに使った馬を、綺麗に水で洗って、鈴や赤白の紐で飾って、嫁入りの晴れやかな舞台に役立つ農耕馬も、晴れの舞台を迎えて気取りがちだったのでしょう。

 そうやって健全な家庭が、この国の中に作られてきたのは、素晴らしいことです。その家庭で子どもが誕生し、育ちます。外で活動し始めた子どもたちの無事を願い、祈る親がいて、様々に傷ついても、帰って来られる家庭があると言うのは、子どもたちにとっては救いだったのです。そこで傷が癒やされ、生きる力を得て、また出ていくことができたからです。

 《帰って行ける家庭があること》、どんなに駄目でも、どんなに酷いことをしても、『親だけは、俺(アタイ)を家で待ち受けてくれている!』、たとえ何年も音信が不通であっても、そういった空間、場所、避難所があるなら、人は必ず回復することができます。

 あの弟息子が、誇りを打ち砕かれ、恥な人生の土壇場で、『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。(ルカ1520節)』と、決断するのです。「父」を思い出し、父のもとに帰ろうと決断したわけです。恥を引っ提げて、あの懐かしい家を目指すのです。

 『ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカの福音書1520節)』、人生には逆転劇があり、それを生み出すのが、条件付きでない《父性愛》なのです。不肖の息子を、《可哀想に思う思い》、《走り寄って近づく行動》、《抱きかけて迎え入れる受容》、《愛の証明の口付け》を、この父親はするのです。

 『子どもはカスがいい!』と、〈カス〉のままの子を受けとめ、育て、愛したお母さんも思い出します。「鎹(かすがい)」にはならなくとも、カスをカスとして受けとめたお母さんの度量の大きさです。そうされたカスが、社会の中で確りと生きているのです。

 嫁に行き、夫の子を産んだ母親が、自分の子が、こんなカスになるとは思っても見なかった現実の中で、子育てを諦めない《したたかさ(漢字では「強か」と書いて、そう読ませています)》が、人を作り上げるのでしょう。自分の母親を思い出し、四人の子を育てた家内を思うにつけ、執念深さや強情さがあったのを思い当たります。神が母親に与えた特質を、そういう言葉で言うのかも知れません。

 そんな母親を支持している父親がいて、自分も生きてきたのを、この空梅雨の今、思い出しています。それでも、今日は午後には雨だと予報が伝えているのです。

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オットッと

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International Peace Day illustration in paper cut style for culture unity around the world. Dove bird cutout with diverse people crowd. EPS10 vector.

 

 『道路の端を歩くとドブに落ちるから、注意!』と言った矢先から、私の娘は、『オットッと!』と言いながら、ドブにハマりました。そう言った父親の私も、教師やおじさんやおばさん、そして父や母に、〈注意勧告〉されながら、聞かなくて失敗の連続の子供時代でした。

 今、『危ない!」と警告している方がおいでです。日本の社会は、〈曖昧社会〉ですから、『ノー!』も『イエス!』にも偏らないで、マアマアのどっちつかずでやってきた社会です。あの対米英戦争だって、『負けるから!』と、軍事を知り尽くした専門家が警告していたのに、ズルズルと始めてしまって、負けたのです。

 やらない方が良い理由が分かっていても、政治的な理由、経済的な理由、国威の発揚、いえメンツ、連戦連勝で勝ってきた過去の光栄ある実績によった経験が忘れられないで、時が移って変化している状況に、冷静な科学的な状況判断をしなかった結果、『今度も大丈夫!』、『だろう!』で始めて、数え上げられないほどの犠牲を与え、自らも、それを被ったのです。

 戦争でお父さんを奪われた級友たちの憂いに満ちた目、父のいる私への羨望の眼差しは忘れられません。「粛軍演説(1936年5月7日年)」や「反軍演説(1940年2月2日)」を、国会でした斉藤睦男の警告を聞かなかった結果です。

 また、矢内原忠雄は、「非戦論」の立場を、終始守り通していました。その姿勢を、南原繁は、次の様に書き残しています。

 『暗黒時代の中で、たとい現実に戦争を阻止する力を発揮しえなかったにせよ、敢然(かんぜん)と侵略戦争の推進に正面から反対した良心的な日本人が、少数ながら存在した事実のみがかろうじて一すじの救いの光として、私たちの心をなぐさめてくれるのである。 ・・・ 矢内原忠雄氏の個人雑誌は、そうした数少ない貴重な良心的活動の中でも、もっとも卓越した一つである。戦争勢力の暴虐(ぼうぎゃく)に対し憤(いきどお)りの念をいだきながら何一つ抵抗らしい抵抗もできず、空しく祖国の破滅(はめつ)を傍観(ぼうかん)するの他なかった私は、自己の無力を顧みて悔恨(ざんき)の念にさいなまれると同時に、このような勇気にみちた抵抗を最後まで継続した人物の存在を知ったときには、驚きと畏敬と、そして日本人の良心のつなぎとめられた事実に対するよろこびの念のわきあがるのを禁ずることができなかった。(南原繁編「矢内原忠雄-信仰・学問・生涯」263-4)」

 良心を売ってしまわないで、冷や飯を食っても、節を曲げない日本人がいたことは、救いでした。斉藤睦男は議員を除名され、矢内原忠雄は教壇を追われてしまいました。ハッキリものを言う人は、圧力が掛かって、職や責任ある地位を追われるのです。

 もう誰も、『ノー!』と言えない、〈イエスマン〉たちが過ちを犯してしまうのです。今回の新型コロナ騒動も、同じ筋書きで終わるのでしょう。悔やんでも〈後の祭り〉です。新型コロナで失うものは大きいのですが、今の損得ではなく、将来の益のために、賢い良心的な決断をしていただきたいものです。

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夕陽

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 夕陽のホノルル、飛んで行きたい気分です。潮風が気持ちよさそうで、その風に当たったら、いっぺんに気分が晴れそうです。今、みなさんが閉塞感を感じておいでです。散歩して、「路傍の花」や、庭先に咲く花を眺めると、一生懸命生きているのを知って励まされます。

 ここ栃木市は、「路傍の石」で有名な山本有三の生まれた街なのです。目抜き通りで呉服商を営む家に、生まれ育ちますが、子どもの頃から文才があって、たくさんの書を著しています。その生家でしょうか、「ふるさと記念館」になって、コロナ禍でも観光客が訪れて賑やかです。有三は、栃木市の名士です。

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 本を読んだり、散歩をしたり、買い物に出かけたり、行動範囲は狭いのですが、閉塞感に押しつぶされることはありません。でも、この騒動が終束したら、飛行機ではなく、大海原を行くハワイ航路の船に乗って、ホノルルの夕陽を眺められたら、爽快になるでしょうか。夕日は明日につながるので好きです。

 晴れた夕方、大平山に沈んでいく夕陽も、とても綺麗です。朝な夕な、四階からの眺めに心満ち足りております。もう果物屋の店頭には、スモモや西瓜が出回っているのですね.

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ナウマンゾウの里で

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この写真は、大正時代の栃木市の目抜き通りを写したものです。市の北部に、寺尾という地域があり、そこにある鍋山に「石灰」が採掘されていたそうです。それを両毛線の栃木駅に運ぶために「鍋山人車鉄道」が敷かれていました。

 この軌道が、この写真の右に見えます。大正時代に撮影されたものです。人も乗ったそうで、人力だったのですが、後に蒸気機関車が使われています。去年でしたか、星野遺跡に行くために、市の「ふれあいバス寺尾線」に乗って出掛けた地でした。

 並行して道路があるので、ちょっと何だろうと考えていたことがありましたが、軌道があったことを知って納得したのです。この鍋山ですが、石灰の採掘会社があって、驚くべき物が発掘されたそうです。それを伝える記事があります。

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 『平成1年,栃木県栃木市鍋山町の吉澤石灰工業株式会社大叶鉱山三峰地区の裂罅 堆積物中より、「ゾウ化石」が採集された.ほとんどの骨は方解石の結晶に包まれていた.プレパレー ションの結果,10点ほどの部分骨を得た.多くの骨は不完全で部位の同定に止まる.臼歯のエナ メル環にはナウマンゾウのHolotypeのような明瞭な菱形歯突起(loxodontplica)はない.  共産した小型哺乳類はAnourosorex属やShikamainosorex属など絶滅種を含み,絶滅率は50% 越えない.最小個体の数は2頭である.既知の標本の中では最も小さい雌と判定した.

 そこでもナウマンゾウの骨や歯の化石が見つかったのです。長野の野尻湖、北海道の幕別、山梨市の相川などで発見されていますが、ここ栃木県にも住んでいたのを知って、旧石器の時代が身近に感じられています。小動物ならともかく、大きなナウマンゾウも、猟で捕らえて、食料とした様です。

 男体山や筑波山や富士山が見られて、人もナウマンゾウもいて、この自然の中で、さまざまな営みを繰り返して今があるのですね。人は、木の実などの採取生活だけではなく、麦や米などの穀類や芋などを栽培し、貯蔵し、計画的に生きてきたのではないでしょうか。

 『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(創世記323節)』と、エデンの園を追われたアダムは、土を耕して、食物を得る様になっていたと記されてあるからです。人は、耕す様にされているのでしょう。

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 今、アパートのベランダで、家内が種を蒔いたミニトマト、茗荷、紫蘇が育っています。ナスもインゲンも育てたいのだそうですが、場所が手狭で、どうも無理です。こうなると、家庭菜園があったらいいなと思うのです。裏庭に畑のある家に越して、土を耕す人になってみたい願いが、フツフツと湧き上がってきます。

 子育て中に住んでいた街で、ナスやもろこしや落花生やスイカまで育てたことがありました。宣教師が植えたジャガイモを、留守中に、子どもたちと収穫して、けっきょく、ほとんどをわが家で食べてしまったこともありました。芋掘りって楽しいのです。もう一度、畑のやれる家に引っ越しできるでしょうか。ナウマンゾウの狩はできなくても、野菜栽培は、見様見真似でできそうです。

(軌道の古写真、ナウマンゾウと歯、ミニトマトです)

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華やかさの陰で

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 この写真は、次男が撮影した、オリンピック東京大会の主会場です。近代建築の工法を投入した、隈研吾の設計による競技場です。

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 これは、古代オリンピックが行われた、オリンポスの丘の聖域を復元した図です。ギリシャの国内から集められた競技者たちが、競技した地です。

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Vue du stade panathénaïque d’Athènes pendant les Jeux Olympiques de 1896, en Grèce. (Photo by API/Gamma-Rapho via Getty Images

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 この写真は、近代オリンピックの第一回大会が行われたアテネの競技場です。こんなに素朴な競技場だったのです。思い出すのは、クーベルタンが語った言葉です。教会の礼拝の中で、『このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することであろう。』という説教が、牧師によって語られました。

それを聞いていた、当時のIOC会長のクーベルタンが、『勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。』と語ったそうです。スポーツはもとより、どのようなことも、「努力すること」に意味があり、奨励されるべきことなのです。

思い出すのは、アメリカ映画「炎のランナー ” Chariots of Fire ” 」で取り上げられた、一人のランナー、エリック・リデルのことです。1924年のオリンピックのパリ大会で、400mを世界記録で優勝し、輝かしい勝利を得た後、宣教師として中国に赴きます。戦時下、日本軍に捕らえられて獄中で病死しています。

彼と同じ収容所にいた、宣教師の子がいました。この人の両親は、雲南省で福音宣教と医療活動をしていました。日本軍に捕えられた時、リデルと出会ったのです。戦後、青森県下で伝道した、OMF(国際福音宣教会)の宣教師、スティーブ・メティカフ師が、その人でした。中国で残虐を繰り返す日本兵をも、「敵を愛しなさい(マタイ5章44節)」と、収容所内で持たれた聖書研究会で語るリデルのことばに従ったのです。

『「きっと自分にはやるべき仕事が残っているんだ。神様、もし僕が生きて収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます。」という祈りであった。その祈りの通りに、25歳になったスティーブンは宣教師として日本にやって来た。』と、〈弘前福音キリスト教会通信〉で、彼の決心が語られています。

華やかなオリンピックの陰でなされた、驚くべき働きがあります。そんな目立たない働きを通して、この日本列島の中には数えきれないキリスト教会が建て上げられてきているのです。

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いろいろと言う

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 小生意気な中学生だった私は、教師に叱られた時、『いろいろと言うんじゃねえ!』と、それでも遠慮がちに、小声で言ったことがありました。それを聞き逃さなかった体育教師は、真っ赤になって怒ったのです。殴られると思ったら、『準、出て来い!』と言って、バスケットで〈タイマン/一対一の喧嘩〉をしようと言うことになったのです。

 授業を中断した体育館で、しばらくやったでしょうか。三十代のおじさんと、十四才の少年との対決でした。パスをする相手がいないので、壁にボールをぶつけて、ボールを持ち直して、けっきょく小僧の私に軍配が上がったのです。いろいろと自分が、たてついて言ってしまった結果でした。

 その先生は潔く敗北を認め、それ以上は、何も言わずに授業を再開したのです。この教師は、神奈川県の県庁職員になって辞めていかれました。この教師と同じ街から通っていた同級生が、自分の街の駅頭で会った時、私とのタイマンのことが話題になったそうで、『「準はどうしてる?」と懐かしく聞いてたぞ!』と言っていました。

 で、今になっても、私は、〈いろいろと言う癖〉、〈つべこべ言う癖〉がなくならないのです。中坊ではない、ある政治家が、不始末を犯した若い政治家のことを、新聞記者に聞かれて、『根掘り葉掘り聞くんじゃあない!』と、言ったとか言わないとかで、舞台裏でもめvているそうです。いろいろ言われないから堕落した政治家が、落選し、政治生命を終わらせた件数は、けっこう多いのです。こう言った人は、三階に上がらずに、一階に降りていただくのがいいのです。

 そんな私は、闇雲にではなく、「義」の立場で言うのです。正しく判断して言うようにしてるわけです。ラジオのニュースを聞いていて、いろいろと言う私に、家内は呆れています。まあ一つのゲームのようなものです。考えてみますと、〈いろいろ言われた私〉は、そのお陰で、ダメな男にならずに、可も不可もない人になれたんだと思うのです。

 コロナ騒動の中で、〈いろいろ言っていた人〉がいました。感染症と戦って来た専門家の現況を危惧する弁でした。ところが政治の指導者は、なかなかこの方に聞かなかったではありませんか。専門家の指摘したこと、こうべきと忠告したことに耳を塞いだ結果が、今の状況です。いまだに、いろいろと専門的な忠告をなさっています。それを黙らせようとしているのに驚かされます。

 そんなで、教えていただいた、いろいろ言ってくださった教師たちに、間違いはありませんでした。言ってくださったことに、深く感謝しているのです。踏み外した私に、忍耐し、見守ってくださった結果です。生意気盛りには、それが必要ですが、七十を超えたような人には、言っても難しいかも知れませんね。でも、私は、まだまだ、《いろいろと言ってくれる人》を歓迎しています。

 

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ekklēsia

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 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 (エレミヤ2911節)」

 『〈今〉、〈金〉、〈自分〉のことしか考えない時代になってしまった!』と、購読のブログにありました。長い展望に立って、将来を見据えて、「今」を考えないといけないのにです。近視眼的な、物質的な、利己的な考え方や生き方に、この時代が傾斜してきているからですの戒めです。

 若い頃に教えられたのは、『お金を稼ぎなさい。そして貯えなさい。それを神の栄光のために、それを必要とする時、場所、方法で用いなさい!』でした。「あらゆる悪の根(テモテ6:10)」だと言われるお金が、義や善や愛のために使われると、驚くべき結果を生み出します。

 私たちが会堂建設をした時、お金が与えられるのに応じて、資材を買っては、建設を続けていく、これを繰り返しました。14ヶ月の間に、当時1200万円ほどの建設資金が与えられ、竣工し、献堂されました。その資金に、宣教師の知人の寡婦の方は、大工さんが腰に吊るす釘袋を縫って売って得たお金を、忠実にアメリカから送金してくれた方がいました。大金ではありませんでしたが、重い意味のある会堂献金でした。
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Crowd of people composing a world map.
Created with adobe illustrator.

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 「今」の生活に使うお金の中から、献げる決心をして取り分けての送金でした。聖書に出てくる「2レプタをささげた婦人(マルコ12:42)」を思い起こさせてくれた出来事でした。そう言った献金が、多くの教会の歴史の中で、世界宣教に用いられてきています。

 「自分」のことではなく、異国の街に建ち上がる教会堂で、自分を救い、希望と将来を与えてくれた神さまが、異国の人々によって、自分と同じように、ほめたたえられ、栄光を受けることを、この方が願ったからです。世界中にある教会は、そう言った方法で会堂が与えられているのです。

 自分の仕事を休んで、時間と労力を献げて、飛行機に乗って来て、材木を切り、削り、釘を打ち込んでくれた “ American  carpenter “ 夫妻もいました。何の報酬も求めず、自分の仕事を終えて、黙って帰国されました。YMCAで英語を教えながら、惜しまず教会建設の奉仕に励まれたアメリカ人のご家族、仕事を辞めて、14ヶ月の間、建築の指揮に当たられた夫妻がいて、そこでお嬢さんも与えられた一級建築士もいました。

 一人一人の心の中に、教会に主が与えてくださった「希望」がありました。教会堂建設中は、一人一人が取り扱われ、吟味され、人間的にも、信仰者としても、成長した時でした。もう一つあったのは、まだ経験していない「将来」でした。今も、その「将来」の中にあって、明日も「将来」の中にあります。子や孫が、信仰的な祝福を継承してくれたら、それは素晴らしいことであります。

 「教会」は、建物を立てた人々や、建て上がった会堂に神礼拝にのために集い、助け合い励まし合い、隣人愛に生き、福音の宣教の業に携わる “ ekklēsia “ 人々の群れのことを言います。

 

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ピカピカ

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 『戦場で味方の陣をこっそり抜け出して、敵陣に一番乗りで攻め入って立てた武功。転じて、人を出し抜いて立てた手柄や利益のこと。』を、「抜け駆けの功名」と言うと、[故事ことわざ辞典]にあります。

 すばしこくて、ずるい人の生き方を、そう言って揶揄するのですが、日吉丸(木下藤吉郎)が、主君の織田信長の草履を懐で暖めて、外出する主君の前に、サッと差し出した話を聞いたことがあります。誰もしないようなことをして、『サル!うい奴じゃ。』と愛顧され、主君を喜ばせ、褒められたのですから、天下取りをした豊臣秀吉は、抜きん出て優れていた人だったのです。

 それは抜け駆けではなく、主君に最善をしようとした、草履取りの主君愛だったのでしょう。『何に気付くか?』は、その人の生まれ持った特質なのでしょうか。親の生き方を見て、学びとって、そう言ったことができるのでしょうか。《人を喜ばせる才》を持って生きた人でした。

 父の客が、わが家に来られた時、私の弟は、その「藤吉郎」をしたのです。玄関に脱いで置かれた靴を、そっとだれも気付かない内に、ピカピカに磨き上げたのです。中学生の弟は、そう言ったことのできる子どもだったのです。そのお客さんは、綺麗になった靴を見て、目を丸くして驚いて、感謝と感心を、父に示していたのです。

 弟は、天下取りにはなりませんでしたが、《◯◯テツ》と呼ばれて、教え子に慕われ続けている教師をして来ました。彼の勤めた学校は、幼稚園から高校まであるのですが、幼稚園でも授業を担当していて、幼い子にも慕われていた教師でした。

 彼の高校では、卒業生は、市町村が行う式には参加しないで、学校で行う「成人式」を、卒業生の企画で続けているのです。卒業生は、校長でも理事長でも園長でもない、弟を、どの年度の卒業生たちもが、主賓講師に選んで、祝辞を話してもらうのだそうです。

 もう七十を過ぎているのですが、私の友人の奥さまがしている、「チャーチスクール」で、もう何年も何年も、週二日の講師をしているのです。わずかな生徒の学校で、交通費程度のお手当で、朝早く家を出て、電車を乗り継いで出勤し続けています。何百何千の教え子のいる彼が、一人、二人のスクールで教師をし続けているのです。

 弟ながら、彼の生き方に感心させられて、学ばさせられることが多いのです。今は、「ミニトマト」のベランダの鉢植え栽培の方法を教えられています。《一苗百個》だと励まされているところです。靴磨きの件ですが、私たちが天津の外国人アパートにいた時に、シアトルから来ていた若者が、家に食事にやって来ました。中国東北部を旅行して、目を輝かして旅行談を話をしてくれたのです。

 彼の履いていた靴は、ささくれ立っていました。それを見かねて、私は、靴クリームをつけて、ピカピカにはなりませんでしたが、磨いて上げたのです。ご両親が離婚していて、寂しそうな青年でした。そんな人生を好転させようとしたのでしょうか、語学学校で学んでいた留学生仲間でした。六十過ぎのお爺さんに磨かれた靴を見た彼の驚いた顔が、昨日のように思い出されて来ます。もう三十代後半の年齢になっているでしょうか。あれっきりです。

 

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例幣使

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 毎年、四月一日に、日光東照宮に「供物」を奉納する一行が、京の都を発ち、大祭前の十五日に日光に到着し、翌十六日の朝に、東照宮に入り家康の墓前に恭(うやうや)しく持参した「幣帛(へいはく)」を捧げました。その期日は決まっていたのですから、けっこう難儀な旅をしたことになります。雨の日も、四月の初めですから、雪や霙(みぞれ)だって降ることがあったでしょう。二週間の旅のことを考えると、自分の健康維持のために散歩している街道を歩いてみると、その旅の大変さが分かります。

 京都周りは歩きやすかったでしょうが、中仙道などの内陸の街道を、厚底のスニーカーなどなかった時代、草鞋で歩いたのです。山や谷や川を越え、毎夕違った宿に泊り、荷解きをし、翌朝には旅支度で身を包み、それを毎年繰り返したわけです。山里が多かったのでしょうから、刺身もなかったのでしょうし、土地土地の名産品を食べながらの旅だったことでしょう。

 難儀な旅に、不満や不平が顔に現れて、苦虫を噛み潰したような一行が予想されてしまいます。大体、〈強いられた義務〉と言うのは、いやなことに違いありません。1617年(元和三年)に、身罷(みまか)られてしまった初代将軍・徳川家康のために、ずいぶんなことを求められたものです。

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 「例幣使」の日光東照宮への参内は、1646年(正保三年)から始まり、1867年(慶應三年)まで続きました。ちなみに「参勤交代」は、1635年(寛永12年)に始まっています。両方とも三代将軍家光の時代でした。「例幣使」とは、神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使のことでしたから、家康を神とした礼を尽くすことを、徳川幕府は朝廷に求めたのです。でも日常から解放されての当番の旅には、刺激も多かったに違いありません。

 彼らが通う街道沿いの街は、毎年50人もの一行がやって来て、去って行くのは、見ものだったことでしょう。中山道の倉賀野宿から楡木宿間が「日光例幣使道」、楡木宿間から今市宿が「日光壬生道」で、全長三十一里十町(118.km)でした。この一行は、横暴の限りを尽くしたと伝えられています。

雨戸の節穴や障子の破れを塞がさせられ、町や村は、何と、彼らに強請り(ゆすり)やたかりをされたのです。それで、やりたい放題、憂さ(うさ)を晴らしたのでしょう。

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 さながら、最初の時には、都言葉を話す公家(くげ)を遠目に見て、異邦の人のように映ったのでしょうか。二日に一度、この日光例幣使街道を散歩する私は、代官所、商家の蔵、巴波川の流れ、味噌醸造屋、和菓子屋を脇見します。きっと当時はあった「草鞋屋」や「蓑合羽屋」は見当たりません。この同じ道を、牛馬が通ったのでしょう。農民や商人たちは、都人一行に、道を譲らされたことでしょう。一行は、厚顔にも公家の身分を誇ったのでしょう。

 でも、この例幣の旅は、公家にとっては、〈屈辱の旅〉だったわけです。征夷大将軍よりも天皇の方が上位で、将軍職は天皇が任命してきたのです。ところが家光の側近たちは、京の都から「幣」を持参して、権現様への参拝を義務化させられたわけです。誇り高い都人には、不平と不満があったのでしょうけど、当時の力関係はどうすることもできなく、劣位にあった彼らは、耐えられない思いをしたのではないでしょう。

 その思いを、農民や商人に向けたことになりそうです。随分と酷いことだったわけです。こう言った旅で、着替えなんかはどうしたのでしょうか。けっこう一行の後は臭かったのでしょうけど、みなさん気にしない時代だったのでしょう。宮に仕えても、土を耕しても、封建時代でも二十一世紀でも人は、誰も同じなのです。

 帰りは江戸に出て、将軍に見(まみ)えてから、しばらくの時を江戸で過ごした後に、東海道を京都に向かったのです。250年も続けさせた、幕府の支配力、統治能力は、凄いものであったことを知らされます。今日は、例幣使道を離れて、所用を兼ねて、西の方に散歩の予定です。雨の一日の予報です。

 

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