例幣使

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 毎年、四月一日に、日光東照宮に「供物」を奉納する一行が、京の都を発ち、大祭前の十五日に日光に到着し、翌十六日の朝に、東照宮に入り家康の墓前に恭(うやうや)しく持参した「幣帛(へいはく)」を捧げました。その期日は決まっていたのですから、けっこう難儀な旅をしたことになります。雨の日も、四月の初めですから、雪や霙(みぞれ)だって降ることがあったでしょう。二週間の旅のことを考えると、自分の健康維持のために散歩している街道を歩いてみると、その旅の大変さが分かります。

 京都周りは歩きやすかったでしょうが、中仙道などの内陸の街道を、厚底のスニーカーなどなかった時代、草鞋で歩いたのです。山や谷や川を越え、毎夕違った宿に泊り、荷解きをし、翌朝には旅支度で身を包み、それを毎年繰り返したわけです。山里が多かったのでしょうから、刺身もなかったのでしょうし、土地土地の名産品を食べながらの旅だったことでしょう。

 難儀な旅に、不満や不平が顔に現れて、苦虫を噛み潰したような一行が予想されてしまいます。大体、〈強いられた義務〉と言うのは、いやなことに違いありません。1617年(元和三年)に、身罷(みまか)られてしまった初代将軍・徳川家康のために、ずいぶんなことを求められたものです。

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 「例幣使」の日光東照宮への参内は、1646年(正保三年)から始まり、1867年(慶應三年)まで続きました。ちなみに「参勤交代」は、1635年(寛永12年)に始まっています。両方とも三代将軍家光の時代でした。「例幣使」とは、神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使のことでしたから、家康を神とした礼を尽くすことを、徳川幕府は朝廷に求めたのです。でも日常から解放されての当番の旅には、刺激も多かったに違いありません。

 彼らが通う街道沿いの街は、毎年50人もの一行がやって来て、去って行くのは、見ものだったことでしょう。中山道の倉賀野宿から楡木宿間が「日光例幣使道」、楡木宿間から今市宿が「日光壬生道」で、全長三十一里十町(118.km)でした。この一行は、横暴の限りを尽くしたと伝えられています。

雨戸の節穴や障子の破れを塞がさせられ、町や村は、何と、彼らに強請り(ゆすり)やたかりをされたのです。それで、やりたい放題、憂さ(うさ)を晴らしたのでしょう。

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 さながら、最初の時には、都言葉を話す公家(くげ)を遠目に見て、異邦の人のように映ったのでしょうか。二日に一度、この日光例幣使街道を散歩する私は、代官所、商家の蔵、巴波川の流れ、味噌醸造屋、和菓子屋を脇見します。きっと当時はあった「草鞋屋」や「蓑合羽屋」は見当たりません。この同じ道を、牛馬が通ったのでしょう。農民や商人たちは、都人一行に、道を譲らされたことでしょう。一行は、厚顔にも公家の身分を誇ったのでしょう。

 でも、この例幣の旅は、公家にとっては、〈屈辱の旅〉だったわけです。征夷大将軍よりも天皇の方が上位で、将軍職は天皇が任命してきたのです。ところが家光の側近たちは、京の都から「幣」を持参して、権現様への参拝を義務化させられたわけです。誇り高い都人には、不平と不満があったのでしょうけど、当時の力関係はどうすることもできなく、劣位にあった彼らは、耐えられない思いをしたのではないでしょう。

 その思いを、農民や商人に向けたことになりそうです。随分と酷いことだったわけです。こう言った旅で、着替えなんかはどうしたのでしょうか。けっこう一行の後は臭かったのでしょうけど、みなさん気にしない時代だったのでしょう。宮に仕えても、土を耕しても、封建時代でも二十一世紀でも人は、誰も同じなのです。

 帰りは江戸に出て、将軍に見(まみ)えてから、しばらくの時を江戸で過ごした後に、東海道を京都に向かったのです。250年も続けさせた、幕府の支配力、統治能力は、凄いものであったことを知らされます。今日は、例幣使道を離れて、所用を兼ねて、西の方に散歩の予定です。雨の一日の予報です。

 

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