沈みゆく太陽

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 吉岡治の作詞、原信夫の作曲の「真赤な太陽」を、美空ひばりが歌っていました。

まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの
渚をはしる ふたりの髪に
せつなくなびく 甘い潮風よ
はげしい愛に 灼けた素肌は
燃えるこころ 恋のときめき
忘れず残すため
まっかに燃えた 太陽だから
真夏の海は 恋の季節なの

いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
渚に消えた ふたりの恋に
砕ける波が 白く目にしみる
くちづけかわし 永遠を誓った
愛の孤独 海にながして
はげしく身をまかす
いつかは沈む 太陽だから
涙にぬれた 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの
恋の季節なの 恋の季節なの

 この歌を歌った、美空ひばりは昭和を代表する女性歌手でした。川田晴久と一緒に歌っていた、まだ子どもの頃の彼女の歌声を、薄覚えています。歌は、1967年に発表され、なんと140万枚の大ヒットを飛ばしたものでした。ジャッキー吉川とブルーコメッツが、バックで歌っていました。自分は、青春真っ只中で、すぐ上の兄に買ってもらった背広に、白いYシャツにネクタイ、黒い靴を履いた社会人一年生でした。その年の夏前に、流行ったのです。

 この2月1日に、89歳で亡くなる直前の石原慎太郎氏が、この歌詞の「いつかは沈む太陽」のくだりを、余命わずかな時期、昨年の秋頃に引用して、「死への道程」と言う遺稿を記していました。大学在学中の1955年に、「太陽の季節」を発表し、57年には芥川賞を受賞し、一躍文壇の寵児となり、「太陽族」の社会現象が起こりました。少なからず自分も、夏休みに坊主頭に、「慎太郎刈」の真似事をし、中学校の校則違反をしたことがありました。足を引きずって裕次郎の様な歩きの真似もしたのです。

 湘南海岸の砂浜を駆け回った男たちも、鬼籍に入ったわけで、輝いていた「太陽」が沈むように、生者必衰で、「太陽族」の弟の裕次郎も、その歌の作詞者も、作曲者も、歌手も、一緒に歌った若者たちの多くも亡くなっています。聖書には、次の様にあります。

 『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・。(ヘブル927節)』

 誰もが、「死」を迎えるのです。父も、母も、恩師たちも逝きました。やがて順番に、私も、決して避けることができずに、死に逝くのです。実に厳しいのは、「死後に裁き」のあることを言います。聖書には、次の様にもあります。

 『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 1コリント1554節)』

 これは、パウロが、コリントの教会に書き送った手紙の中の一節です。パウロは何を言っているのでしょうか。語ることなく、封印しておきたい「死」の問題を取り上げているのです。この聖書箇所の前に、次の様に書き記されてあります。

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 『聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告jげましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント154553節)』

 人類の始祖の〈最初の人アダム〉と、《最後のアダム》、《第二の人》である、イエスさまが比較されて記されています。アダムは死にました。ところが、イエスさまは十字架で死なれたのですが、復活されて、「死」を討ち滅ぼされたのです。《死に勝利した救い主》だと、パウロは記します。代々の基督者は、これを信じたのです。私の母も、父も、二人の兄も、一人の弟も、息子も娘も孫たちも、そう信じたのです。受くべき「裁き」を、代わって受けてくださったことを信じることができました。未知、未経験の「死」を、恐れないで、怯えないでいいのです。イエスさまは、

 『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは「死」を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 2テモテ110節)』

と、パウロが弟子のテモテに、「死」は滅ぼされたと書き送ったのです。

 『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント人へ155558節)』

 軍隊を、ウクライナの街々に送って、殺戮行為を繰り返している命令者のプーチンも、レーニンやスターリンがそうだった様に、彼もまた必ず死ぬのです。誰一人、これを免れることはできません。だから生きている今、神と和解し、私の身代わりに十字架に死んでくださったイエスを、誰でも信じるなら、救われ、永遠の命を頂けるのです。ここに「救い」があります。聖書は、そう約束するのです。

(1950年代の若者の「太陽族」、“キリスト教クリップアート”からです)

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幕末の雄

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 高知の桂浜の高台に、坂本龍馬の像があって、太平洋の彼方に目を向けて、遠望している姿が印象的でした。華南の街のわが家に出入りしていた若者が、明徳義塾高校に留学するので、親御さんに代わって、その入学式に出席したことがあり、その式の帰りに、その高台に上がってみたのです。

 この龍馬は、あまりにも虚飾が多くなされて、実像とかけ離れているのを知って、司馬遼太郎の功罪を考えてしまいました。sensational に筆を進める誘惑に、小説家はさらされているので、遥かに実像とかけ離れた人間像が作られ、それが一人歩きをしてしまうのでしょう。

 世界に目を向けていた幕末期の青年であったことは間違いがなさそうです。当時の青年たちが、鎖国の外の世界に関心があったからです。同じ土佐から、船員だった万次郎が太平洋を漂流して助かったのですが、その万次郎が、10年ぶりに帰国して、その漂流の記録を本にしました。「漂巽記略(ひょうそんきりゃく)」で、鎖国で海外事情に飢えていた人々に、その本は情報を提供しています。龍馬も、その本を読んで、その目を外国に向けたのでしょう。

 それで観光用の像が、太平洋の彼方に向けられた龍馬像を作っているのでしょう。面白おかしさではなく、歴史上の人物の真実さを提供してくれるのが、「日誌」です。1966年から68年にわたって、同じ司馬遼太郎作で、毎日新聞に掲載された「峠」があり、幕末に登場した人物を取り上げていました。文庫本になっていたのを、読んでみたことがあります。

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 越後国長岡藩の家老を務めた河井継之助を、小説家の筆で、憶測や願望をもって描いていますが、実虚を織り交ぜた小説で、読者の興味に応じて筆を運んでいるので、実像とは大分違った誇張や飾りがあります。買って読んでもらわなければならないので、何とかも方便があるのでしょうか。

 幕府支持の長岡藩は、長州軍を迎え撃つのですが、福島の会津只見で、戦いで負った傷が原因で没しています。あの戊辰戦争の犠牲者となったのです。その只見川の河畔に、記念館があるそうで、雪が溶けて春になったら行ってみたいと計画してます。日帰りは難しそうですが。

 この徳川への恩義や忠実さを忘れず、穏健な立場をとって、会津と長州の間で執り成しをしますが、長州に打たれてしまいます。この継之助の実像を知りたかった私は、彼の日誌を、古書店で見つけたのです。藩の要職につく以前の、若き日々の旅行記です。コロナ禍の良い点は、いながらに旅行案内の日誌を読んで、文字と sketch で、その旅程を、当時の様子を思い描きながら 楽しむことができることなのです。

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 『安政戊午(ホゴと読み、五年のことの様です)十二月二廿七日に、長岡を出で・・・』、継之助が32歳の時でした。三国峠を越えて、九日後に江戸に着いてます。品川沖では、「異船(外国船のことです)を見て、驚き怪しんだと言うよりは、『気味好き事なり。』と言っています。

 横浜、鎌倉などを訪ね、実に羨ましい旅の見聞を知ることができるのですが、若き継之助の目的は、観光だけではありませんでした。これと決めた人を訪ねて、教えを請うと言った修行時代の旅でした。四国は備中松山藩に、「幕末の三傑」と呼ばれた、「山田方谷」と言う賢者から教えを受けたいと願っての西国遊学の旅でした。この方谷は、石井十次、富岡幸助、山室軍平らに、「至誠惻怛(『世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。』と言った教えです)」の教えの影響を与えています。

 方谷は、多忙だったのですが、よく時間を割いてくれて、その訪問を『談ず。』と書き残しています。その内容の記録は省いているのです。旧知の会津藩の訪問者などもいて、そう言った訪問者仲間でも、『談じ。』たのです。師の方谷は、江戸に行く用ができたので、継之助は短期滞在で松山を経って、九州に向かうのです。

 十月二廿一日に、肥後国熊本に着いています。加藤清正の築城した熊本城は、長岡城と比べてみたのでしょう、その石垣の大きさに驚きを見せています。噂に聞いた通りの城だったのでしょう。『平地多し、広大なり。』と言って、城下から薩摩の方面を見たのでしょう、肥後藩の豊かさを、その感想で記しています。

 後世に残そうと旅日記を書いただけではなく、金銭の出納の記録を、『何々に二文。』とか書き残していますし、漢書を学んでいた人なのに、当て字も多くある様です。自由に書き記した日誌だったのがうかがえます。よく本を読んだ人でしたが、〈多読〉ではなく、《精読》を旨とした人だと言われています。

(越後長岡の花火大会、旅行地図です)

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医院の待合室に

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 月一で通院している、掛かり付け医師を持つ身となり、今朝も診察に行ってきました。血液検査なのですが、長年、極めて高かった中性脂肪が平常値に戻りました。また薬を飲んでいた尿酸値も正常値になり、ただ血圧が高めで、薬を飲まされています。血糖値も問題なし、逆に貧血もありません。

 この掛かり付け医は、医院と道路を挟んだ向こうにグラウンドが見える高校があって、そこを卒業している方です。母校の脇での開業医はいいですね。この方の医院の壁に、同じ作者の絵が掲げられているのです。この上の絵は、待合室の壁にかけてあって、今朝、スマホを向けて撮りました。下の方は、ウイキペディアのサイトにある、この方の絵なのです。

 イギリスの人気画家、マッケンジー・ソープ( Mackenzie Thorpe )の描いたものです。「希望」、「愛」、「喜び」を伝える画家だそうです。このソープ氏の背景は、幼児期の極貧を過ごしたのだそうで、その頃から、絵を描くことが一番の励ましでした。そんな背景や思いの作者の好きな医師を知って、私は安心してるのです。

 今朝も、ご自分で診察室の椅子から立って、待合室にいた私の名を呼んで招き入れてくれました、今朝は二度もでした。二度目に行った時に、早過ぎたのです。駐車場の脇の花壇の花に、この医師が水を遣っておいででした。挨拶して私と目があったら、医院の裏から入って行って、玄関の戸を開け、カーテンを開け、テレビまでつけて招き入れてくれたのです。

 看護師さんにだけ任せずに、率先して開院の準備をしたり、患者を呼んだりする医者は、開業医では珍しいと感心した私は、もうそれだけで半分は治った思いだったのです。❤️を大切にしている内科医に違いなさそうです。

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外滩

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  上海に、「外waitan(外灘)」と呼ばれる場所があります。長江の河口の黄浦江にあって、多くの船が東シナ海に出入りしている箇所です。戦前には、横浜や神戸や下関から出港した船が接岸した「波止場」で、中国にいました間、何度か、この波止場と大阪南港の間を船旅で、私は通ったのです。

   華南の街のバスターミナルから、長距離の夜間運行のバスに乗り降りして利用しました。「波止場」と言うのが一番相応しい呼び方で、飛行機を利用するよりも、はるかに情緒があって、潮のにおいも感じさせられますし、カモメの鳴き声もするのです。何よりも『日本に帰るんだ!』と言う想いが湧き上がり、日本からやって来て上陸する時は、独特の緊張感のあった上離陸点でした。

 一度だけでしたが、旧日本街にある、ホテルに泊まったことがありました。上海から来ていた学生が案内してくれ、そのお礼で一緒に restaurant に行って、食事を奢ったのです。その泊まった youth hostel(ユースホステルになっていました)は石板の床でなく、年季の入った板を敷いた床で、しかも古びたにおいがして、父に若い時代の雰囲気ってこんなものだろうか、と思えたのです。

 『若かった父も、もしかしたら、ここに泊まったかも知れないかなあ!』と想像しながら、そこで明日の出航の前夜を過ごしたのです。あの《懐かしさ》って、何だったのでしょうか。もうとっくに召されていた父に聞く術もなかったのですが、長州藩士の高杉晋作も、幕末期に、この街を訪ねて、過ごしていますから、きっとそんな思いにされたのでしょうか。

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 上の兄が、大学受験で聞いていたラジオ番組の後だったか、前だったか、歌謡浪曲で、「人生劇場」をしていたのを聞いていました。それで、その文庫本を買って読んだ本の中に、吉良常という人物が登場するのです。彼が、「花火師」として、この上海にやって来て、日本の花火を打ち上げる下りがありました。中学生の私は、『オレも上海の夜空に花火を上げるんだ!』と誘発されたのです。

 12、3歳頃の幼い願いなど、いつか消えてしまったのですが、全く別な使命や目的を抱いて、中国に行き、家内と一緒に13年も過ごしたのも不思議な導きだったのだと思っています。花火師としてではありませんでしたが、素敵な年月でした。

 御多分に洩れず、コロナ感染のためと経営難のために、上海フェリーの貨客船が、2020年から運行停止し、現在は、「日中国際フェリー」のみが就航していますが、これも現在は、コロナ禍で運行停止中で、まだ再開の見込みが立たないようです。留学生、旅行者、同じように大学で日本語を教える教師などのみなさんと、二泊三日で同船し、話し合ったのが懐かしいのです。仕事で日本に出掛けていく若い女性たちとも出会いました。カモメが沖合までついて来て、外海に行くと飛び魚が、船の横を飛んでいるのが見えました。

 そう言えば、ずいぶん船に乗っていないのです。近くの巴波川の観光舟は、時折、これもコロナ禍で営業自粛で、毎日のように見られないのですが、大洋を横切る船に乗りたいのは、コロナ禍で外出がままならないから、殊更に誘(いざな)われるのかも知れません。わが家にやって来る青年が、『コロナ明けにはオーロラを観に行く予定なんです!』と、家内に言っていたそうです。

 赤い鼻緒のジョジョを履いて、おんもに出たいと願うみーちゃんの思いに、みんなが重ねて思っているのでしょうか。すぐ上の兄が、兄弟会で一緒に出掛けられる日のやって来るのを、首を長くしている mail が、時々来ます。みんな同じ思いの春到来ですね。

(上海の外灘の現在と1927年に描いたデッサンです)

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揺籃

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 1月10日の「悠然自得」に、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」を掲げました。どれほどのお姉さんが、妹が、兄が弟が、戦場に出征する兄弟を思いつつ見送ったことでしょうか。日露戦争への出征兵士の姉の心情を、正直に、そう晶子は漏らしたのです。ロシアにもウクライナにも、そんなお姉さんがいるのでしょうね。孫娘が、これまでは兄の大学進学やスポーツのことで激励していたのに、一朝、ロシアのウクライナ侵略のニュースを見聞きして、『戦争に行くの?』と母親に聞いた思いが、実に重く感じる早春です。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

お姉さんだけではなく、お母さんの気持ちも忘れてはいけません。小学校の級友のお母さんが、八百屋さんの手伝いをしながら子育てをしていた姿を覚えています。白い割烹着をしていたのです。戦争で主人を亡くし、父を亡くして残された子を、懸命に育てていた姿です。

「コサックの子守唄」を聞いたことがあります。

1 眠れや愛し子 安らかに
空から月も のぞいてる
お聞きよ私の 子守歌
まどろむお前の 頬に微笑(えみ)

2 やがては旅立つ 愛し子よ
門出に手を振る りりしさよ
見送る涙が 母の夢
眠れや愛し子 安らかに

眠れやコサックの 愛し子よ
空に照る月を 見て眠れ
やさしい言葉と 歌を聞き
静かに揺り籠に 眠れよや

 「コサック」は、ウクライナの戦闘集団を呼んだ言葉で、ソ連に属していた時代にも、戦士として戦った歴史があります。戦士を産もうとしているお母さんなどいようはずがありません。コサックのお母さんも、揺籃(ようらん)を揺すりながら子守唄を歌って、幼児が平和に生きていくのを願ったにちがいありません。  4人の子を産んだ私の母も、家内も、そんな思いで育て上げていました。

 悪戯度では同じような級友が、時として寂しいそうな顔を見せていました。同級生で、空手をやっていた猛者がいました。お父さんは、有名な将軍の一族の親や叔父を持ちながら、日中戦争後も、中国に残って、部下の戦後の世話をしながらも帰国できず、中国の乾いた土の上で倒れたのです。お父さんのことは聞いても、抱いてもらうことのなかった、級友たちの父親への思慕の思いは大きそうでした。家に遊びに来た時に、私の父と話していましたが、ちょっと複雑だった様です。

 晶子ではありませんが、『君死にたもうことなかれ!』の思い、『静かに眠れ!』と揺籠を揺するお母さんの手の想いが、強く迫って来ます。剣を納める日の来るのが早いことを願う、弥生3月の初めの朝であります。

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ボルシチの国々

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  『ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラまことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇3957節)』

 これは、世界を恐怖に陥れた、世界最初の共産主義国家の「ソビエト社会主義共和国連邦〉の国歌です。

1
Союз нерушимый республик свободных
Сплотила навеки Великая Русь
Да здравствует созданный волей народов
Единый, могучий Советский Союз!

自由な共和国の揺ぎ無い同盟を
偉大なルーシは永遠に結びつけた
人民の意思によって建設された
団結した強力なソビエト同盟万歳!

Славься,Отечество наше свободное,
Дружбы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族友好の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

2
Сквозь грозы сияло нам солнце свободы,
И Ленин великий нам путь озарил:
Нас вырастил Сталин-на верность народу,
на труд и на подвиги нас вдохновил!

雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き
そして偉大なレーニンは我々に進路を照らした
スターリンは我々を育てた――人民への忠誠を
労働へそして偉業へと我々を奮い立たせた!

Славься,Отечество наше свободное,
Счастья народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族幸福の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

3
Мы армию нашу растили в сраженьях
Захватчиков подлых с дороги сметём!
Мы в битвах решаем судьбу поколений,
Мы к славе Отчизну свою поведём!

我々の軍は戦いによって我々を成長させ
卑劣な侵略者を道から一掃する!
大戦によって我々は世代の運命を決定し
我々が我が祖国に栄光をもたらそう!

Славься,Отечество наше свободное,
Славы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведёт!

<コーラス>
讃えられて在れ、自由な我々の祖国よ
民族栄光の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗よ、人民の旗よ
勝利から勝利へと導きたまえ!

 これは、〈レーニンとスターリン賛歌〉であって、スターリンが原稿に赤鉛筆で推敲に推敲を凝らして作詞したと言われています。聖書には、次のようなことばが記されてあります。

 『自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。 (箴言272節)』

 自画自賛のこの国の国歌を、ソ連崩壊まで歌い続けた(死後にスタリーンが批判された後、フルシチョフが作り直していますが)のですが、たくさんの人材を粛清した者たちの成した業を知っているソ連国民が、どんな気持ちで、この歌を歌たったのでしょうか。

 現在、ロシアの国家は、スターリン時代の国家の melody を復活させて、「強い国家」を建て上げるために、人々を鼓舞しようとしています。歴史は、「大国主義」の野心は、常に崩れ去って崩壊しているのにです。

 大国志向の国は、弱小国を侵略し、吸収して、国境を拡張させていくのです。ローマ帝国もモンゴール帝国も、破竹の勢いで世界制覇をしたのですが、今はその残り滓しか残っているではありませんか。多くは、内部抗争、後継者選任の抗争で滅んでいきます(ある歴史家は、今も、なおローマ帝国の時代だと言っています)。

 その大国維持は、警察国家を設けて、言論も行動も規制していき、違反者は抹殺してしまうのです。そういった強圧的支配が、長続きしないのは、スポーツの世界でも、芸能の世界でも、いわんや政治の政界でも、結局は、〈窮鼠(きゅうそ)猫を噛む〉で、体制は内部から覆されてしまうのです。

 失敗した過去に学ばないで、過去の栄光を追おうとする男のすることを黙認し、支持してしまう民族的な欠陥は、長い唯物論の教育の結果があるかも知れません。それとは真逆で、クレムリンの中にも、篤信の基督者がいたのです。「義」や「公正」の基準を持たない人も社会も国家も、長続きはしません。

 一体、歴史を支配される主なる神さまは、今、ボルシチを食べる国々の中で起こっていることを、どうご覧になっているのでしょうか。じっと目を凝らして、義なる神が、何をなさるか、そのなさることを見てみることにします。悪が思いのままにことをなすことなどあり得ないからです。

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 『また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。--しかしあなたは実際は富んでいる--またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2810節)』

 まだ若い頃のことです。ソビエット連邦が崩壊する前に、東側諸国に、福音宣教の働きをしていた団体から、送られてきた機関紙に添えられていたと思いますが、薄い一冊の冊子がありました。そこにソ連国内の宗教弾圧のおぞましい記事が掲載されていました。イワンという若い兵士が、キリスト信仰の故に迫害を受けている様子が、写真も添えて記してあったのです。

 自由圏にいて、信仰の自由が保障されている私とは、まるで違う状況下に置かれている、同世代の基督者が、イジメや差別や過酷な仕事を強いられ、その上、度重ねる体罰を受けて、顔がパンパンに腫れ上がり、内出血した身体を、写真で見て驚いたのです。

 そんな不都合な仕打ちを受け続けてきた兵舎の中で、死ぬ直前に、このイワンは、天に引き上げられる経験をするのです。あのパウロが経験したと同じような、幻のうちにか、現実だったか、第三の天に引き上げられたのです。それは、殉教の日の次に、輝ける明日があり、永遠の時があることを、神さまが、イワンに知らせるためだったのでしょう。

 迫害が、まだ大っぴらに行われていた時代、平和な日本で生活していた自分にとって、ソ連国内では、こんなひどいことが起こっていたのに、慄然とさせられたのです。

 教会の主で、キリスト・イエスは、「牢」を恐れずに、『死に至るまで忠実でありなさい!」と勧めています。不正や、不義に対して、自らの信仰を貫くことを、示された時でした。

 『あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちのを与えよう。(ヨハネの黙示録210節)』

 それ以前に、こんな話を聞きました。信仰のゆえに銃殺刑に処さられる人たちが一列に並ばされていたのです。銃が構えられていた時、一人が、その処刑を恐れて、棄教して列を走り出たのです。その時、冠が天から降りてきていたのです。それを見た一人の兵士が、銃を捨てて、空いた列の中に立ったのです。その兵士は処刑されたのですが、天来の冠を被せられ、永遠の命に預かったのです。

 私たちの母教会を始めた方からだったと思いますが、そんな話を聞きした。イエスさまは、『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 (マタイ1028節)」と仰っています。

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徴兵や志願

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『アメリカには徴兵制度がありますか?』と言う問いに、America center が次のように答えています。

 『ベトナム戦争後、いったん徴兵は終わりましたが、1980年にカーター大統領の告示により196011日以降に出生し18歳となった男性は登録することが義務づけられました。

Selective Service Systemの変遷

現在は18歳から25歳までのアメリカ国籍を持つ男性はSelective Service Systemに登録し、訓練を受ける義務があります。(5年以下の懲役か25万ドル以下の罰金)
留学生など一部を除き、国籍を持たない男性も対象となります。アメリ国籍を持つ男性は国外に住んでいても登録の対象となります。』

 ヴェトナム戦争の時期に、友人から、『兵士として従軍したら、アメリカの市民権がもらえるんだそうだ!』と言う話を聞きました。アメリカの若者が、兵役逃れで、外国に仕事を得て出かける人があったのに、外国人が、他国に戦争に関わるというのには賛同できませんでしたし、銃を取りたくなかったし、アメリカの市民権も欲しくなかったので、その話には乗りませんでした。

 次女からの chat で、ロシア系の友人がいる孫娘から母親にでしょうか、『お兄ちゃんも戦争に行くの?』と聞かれたと言ってきました。まだ子供だと思っていたのに、社会的な責任を負わなかけれまばならない年齢になったのを知って、アメリカは、これまで数多くの兵士を外国に遣わしてきた歴史のあったのを、今更ながらに思い出した Jiiji です。

 私のアメリカ人の知人で、太平洋戦争に従軍した経験のある方、父の世代の方が、『再び戦争が始まったらどうしますか?』と聞かれて、『祖国のために従軍します!』と即答していました。その理由を、『もし、自分の妻や子が不審者に殺されそうになったのを知ったとします。そこに銃があったら、その銃を手にとって、妻や子を守ります。だから、同じ思いで、祖国の防備のために戦います!』と言われたのです。

 妻と育てていた四人の子に対して、彼らに及ぶ危害について、夫や親として、妻子を守るのは、養育者の務めを負った私の責任だと思って、これまで生きてきました。娘が送ってくれた、今回のウクライナで始まった戦争に、孫を守るために、80歳のお爺さんが、bag に数枚の下着と sandwich を持参 して、戦いのために志願している、路上の様子を写した写真(上掲のものです)が添えられていました。

 『そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ2652節)』

 侵略のために、銃を取り、海を渡った過去を持つ私たち日本は、これから起こる戦時の時に、攻撃者の前に、なすすべを知らずに傍観しかできないのでしょうか。それとも妻や子や孫や両親を、銃火から守るために立つべきなのでしょうか。悲しいかな、そう言う事態が目前に起こり得るかも知れません。

 主イエスさまが、おっしゃられたことを知っている私で、基督者でもありますが、苦渋の覚悟で、妻や孫を守るために銃を取る覚悟でいる、これが夫であり、ジイジである私の選択であり、決心なのであります。

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石川県

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 金沢は、加賀百万石、前田利家の所領だった地で、「小京都」と言われる古い日本の面影の残る街だそうです。私はまだ訪ねたことがありませんが、この街の出身で、気にかかる文人がいます。室生犀星です。彼の詩に、「小景異情」があり、その一節が次にようなものです。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)なるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 北陸新幹線ができた今では、3時間で行き来できますので、「遠きみやこ」ではなくなったのですが、彼の生まれ故郷の金沢は、決して、犀星にはよい思い出があって、飛んででも帰りたいような街ではなさそうで、この詩は、複雑な思いがあって作られたものであることが分かります。加賀藩の足軽あった父の子でしたが養子に出され、仏門で育てられ、長じて学びのために東京に出て行った人です。

 そう言った背景を負って生きた人は決して少なくないのです。犀星が複雑な、屈曲した思いで見ている金沢は、どんな街なのか、一度は訪ねてみたいと願いつつも、今日に至っております。江戸時代、諸国の大名の中で、最高の石高だったのが前田家、金沢藩でした。江戸、京、大阪につぐ、名古屋と争うほどの街だったからです。

 この「金沢」の地名も、金を産出した背景があっての命名で、金を鍛金(たんきん)して作る、金箔は繊細な作業であって、それが現代に継承されていて、その様子を動画で見たことがあります。どこでだったでしょうか、その金粉の入った珈琲を飲んだことがあります。金には味がなかったのですが、雰囲気はよかったかな、です。

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 前田家は、律令の行政区画の加賀、能登、越後を統治していた、北陸道の雄でした。群雄割拠の世を生き抜くというのは、大変なことだったのですが、とくに利家は、時の指導者の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の元で、武勲をあげたり、上手に世渡りをすることのできた器だったのです。磐石の百万石の藩の基礎を築いた人でした。

 前田家の庭園の「兼六園」は有名で、石川県の観光名跡です。この街は、戦争末期のアメリカ軍の空襲を免れたので、古跡などが残されていて、古い街並みもあるそうです。知人のお嬢さんが、金沢においでで、時々訪ねては、お土産の和菓子を送ってくださいます。

 現在の石川県は、人口が112万人、県都は金沢市、県花は黒百合、県木はアテ(アスナロ、ヒバ)、県鳥はイヌワシです。父の祖先が、鎌倉武士だと言っていましたので、その縁で、この県の小松市に、「安宅(あたか)の関」があり、源義経が、奥州平泉に逃れる時に、そこを通関しているのです。

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 それが物語として残っています。同行の家来の弁慶が、「勧進帳(かんじんちょう)」を読むのですが、関守には、それが偽物であるのが分かりつつも、それを見逃すのです。悲しい義経の物語に花を添え、歌舞伎の演目として有名なのです。

 

(「兼六園」、「勧進帳」です)

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