外滩

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  上海に、「外waitan(外灘)」と呼ばれる場所があります。長江の河口の黄浦江にあって、多くの船が東シナ海に出入りしている箇所です。戦前には、横浜や神戸や下関から出港した船が接岸した「波止場」で、中国にいました間、何度か、この波止場と大阪南港の間を船旅で、私は通ったのです。

   華南の街のバスターミナルから、長距離の夜間運行のバスに乗り降りして利用しました。「波止場」と言うのが一番相応しい呼び方で、飛行機を利用するよりも、はるかに情緒があって、潮のにおいも感じさせられますし、カモメの鳴き声もするのです。何よりも『日本に帰るんだ!』と言う想いが湧き上がり、日本からやって来て上陸する時は、独特の緊張感のあった上離陸点でした。

 一度だけでしたが、旧日本街にある、ホテルに泊まったことがありました。上海から来ていた学生が案内してくれ、そのお礼で一緒に restaurant に行って、食事を奢ったのです。その泊まった youth hostel(ユースホステルになっていました)は石板の床でなく、年季の入った板を敷いた床で、しかも古びたにおいがして、父に若い時代の雰囲気ってこんなものだろうか、と思えたのです。

 『若かった父も、もしかしたら、ここに泊まったかも知れないかなあ!』と想像しながら、そこで明日の出航の前夜を過ごしたのです。あの《懐かしさ》って、何だったのでしょうか。もうとっくに召されていた父に聞く術もなかったのですが、長州藩士の高杉晋作も、幕末期に、この街を訪ねて、過ごしていますから、きっとそんな思いにされたのでしょうか。

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 上の兄が、大学受験で聞いていたラジオ番組の後だったか、前だったか、歌謡浪曲で、「人生劇場」をしていたのを聞いていました。それで、その文庫本を買って読んだ本の中に、吉良常という人物が登場するのです。彼が、「花火師」として、この上海にやって来て、日本の花火を打ち上げる下りがありました。中学生の私は、『オレも上海の夜空に花火を上げるんだ!』と誘発されたのです。

 12、3歳頃の幼い願いなど、いつか消えてしまったのですが、全く別な使命や目的を抱いて、中国に行き、家内と一緒に13年も過ごしたのも不思議な導きだったのだと思っています。花火師としてではありませんでしたが、素敵な年月でした。

 御多分に洩れず、コロナ感染のためと経営難のために、上海フェリーの貨客船が、2020年から運行停止し、現在は、「日中国際フェリー」のみが就航していますが、これも現在は、コロナ禍で運行停止中で、まだ再開の見込みが立たないようです。留学生、旅行者、同じように大学で日本語を教える教師などのみなさんと、二泊三日で同船し、話し合ったのが懐かしいのです。仕事で日本に出掛けていく若い女性たちとも出会いました。カモメが沖合までついて来て、外海に行くと飛び魚が、船の横を飛んでいるのが見えました。

 そう言えば、ずいぶん船に乗っていないのです。近くの巴波川の観光舟は、時折、これもコロナ禍で営業自粛で、毎日のように見られないのですが、大洋を横切る船に乗りたいのは、コロナ禍で外出がままならないから、殊更に誘(いざな)われるのかも知れません。わが家にやって来る青年が、『コロナ明けにはオーロラを観に行く予定なんです!』と、家内に言っていたそうです。

 赤い鼻緒のジョジョを履いて、おんもに出たいと願うみーちゃんの思いに、みんなが重ねて思っているのでしょうか。すぐ上の兄が、兄弟会で一緒に出掛けられる日のやって来るのを、首を長くしている mail が、時々来ます。みんな同じ思いの春到来ですね。

(上海の外灘の現在と1927年に描いたデッサンです)

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