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金沢は、加賀百万石、前田利家の所領だった地で、「小京都」と言われる古い日本の面影の残る街だそうです。私はまだ訪ねたことがありませんが、この街の出身で、気にかかる文人がいます。室生犀星です。彼の詩に、「小景異情」があり、その一節が次にようなものです。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたい)帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
北陸新幹線ができた今では、3時間で行き来できますので、「遠きみやこ」ではなくなったのですが、彼の生まれ故郷の金沢は、決して、犀星にはよい思い出があって、飛んででも帰りたいような街ではなさそうで、この詩は、複雑な思いがあって作られたものであることが分かります。加賀藩の足軽あった父の子でしたが養子に出され、仏門で育てられ、長じて学びのために東京に出て行った人です。
そう言った背景を負って生きた人は決して少なくないのです。犀星が複雑な、屈曲した思いで見ている金沢は、どんな街なのか、一度は訪ねてみたいと願いつつも、今日に至っております。江戸時代、諸国の大名の中で、最高の石高だったのが前田家、金沢藩でした。江戸、京、大阪につぐ、名古屋と争うほどの街だったからです。
この「金沢」の地名も、金を産出した背景があっての命名で、金を鍛金(たんきん)して作る、金箔は繊細な作業であって、それが現代に継承されていて、その様子を動画で見たことがあります。どこでだったでしょうか、その金粉の入った珈琲を飲んだことがあります。金には味がなかったのですが、雰囲気はよかったかな、です。
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前田家は、律令の行政区画の加賀、能登、越後を統治していた、北陸道の雄でした。群雄割拠の世を生き抜くというのは、大変なことだったのですが、とくに利家は、時の指導者の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の元で、武勲をあげたり、上手に世渡りをすることのできた器だったのです。磐石の百万石の藩の基礎を築いた人でした。
前田家の庭園の「兼六園」は有名で、石川県の観光名跡です。この街は、戦争末期のアメリカ軍の空襲を免れたので、古跡などが残されていて、古い街並みもあるそうです。知人のお嬢さんが、金沢においでで、時々訪ねては、お土産の和菓子を送ってくださいます。
現在の石川県は、人口が112万人、県都は金沢市、県花は黒百合、県木はアテ(アスナロ、ヒバ)、県鳥はイヌワシです。父の祖先が、鎌倉武士だと言っていましたので、その縁で、この県の小松市に、「安宅(あたか)の関」があり、源義経が、奥州平泉に逃れる時に、そこを通関しているのです。
それが物語として残っています。同行の家来の弁慶が、「勧進帳(かんじんちょう)」を読むのですが、関守には、それが偽物であるのが分かりつつも、それを見逃すのです。悲しい義経の物語に花を添え、歌舞伎の演目として有名なのです。
(「兼六園」、「勧進帳」です)
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