恩人の死


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戦争が終わって、軍需産業の石英の採掘工場が閉鎖されて、父は、その工場を、平和利用し始めたのです。石英を搬出したケーブルを利用して、県有林の伐採権を得て、木材の切り出しをしていました。搬出先は、京浜地帯の木材市場だった様です。その父のもとで、十代の青年が働いていたのです。

この青年は、戦時中、国防の志を立てて、予科練に志願し、終戦とともに、その志は敗れてしまったわけです。出雲にいた当時、父が好きだった、〈泥鰌すくい〉の手伝いをさせられたことがあって、近く親しい関係があった様です。それで、父を頼って、父が始めた事業を手伝おうとしてやって来たのです。

街から作業現場は、山道を歩いて往復していたそうです。若いこの方が、歩こうとしない私を、父に言われておぶって山奥の家に連れて行ってくれたそうです。しかも若くて屈強の方でしたが、荷物を持ちながら、私を背負い、泣き泣き山道を歩いたことを、母や兄たちから聞かされたのです。

その木材の事業を終わらせた後、この方は、故郷に戻って、日本通運の自動車の運転手の仕事を始め、定年まで働いたのです。父への感謝があったのでしょう、秋には鳥取の二十世紀梨を、年末には出雲そばと「あご野焼(飛魚で作った白身のかまぼこ)」を毎年送ってくれました。

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私たちが結婚すると、四人の家に、同じ様に、毎年送ってくださったのです。私が中国に行くまで、それが続いていたのです。父と母が好きだったので、それを父の子たちにも送り続けてくれたわけです。穏やかな方で、私たちは、父や母が呼んでいた様に、『茂ちゃん!』と、〈ちゃん呼び〉を許してくださったのです。

鳥取に出張した時に、出雲のお宅に寄ったことがありました。美味しい、出雲そばをご馳走してくださり、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってくださったり、大東の母の親戚までお連れくださったりしたことがありました。その時、父や兄に聞かされた〈昔話〉を話しますと、ただにこにこと聞き流しておられるだけでした。

先ほど、兄と弟から、茂ちゃんが、今朝、九十歳で亡くなられたと、言ってきたのです。みんなで訪ね様との話が何度も、私の帰国時にあったのですが、兄たちは行くことが二度ほどあったのですが、私は実現しないまま、過ぎてしまっていました。もう一度お詫びをしようと思ったのに、叶えられなかったのが残念でなりません。

葬儀のために、兄と弟が明日一番で、出雲に出掛けると言っています。残された奥様と、息子さんの上に、ただ平安を願うのみです。私の大切な方、恩人との戦争後からの出会いと交流に、終止符が打たれたのです。ただ感謝あるのみです。平安!

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遊びと労働

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オランダの歴史学者に、ホイジンガという方がおいででした。ある本の中で、この方の述べられたことが引用されていました。「遊びと労働」についてでした。「仕事(労働)」だけではなく、「遊び(余暇を楽しむ)」ことに触れています。

日曜日と週日、昼間と夜間、青年期と老年期、冬至と夏至、正月(西洋ではXmas )とその他、夏と冬と言う対になったものの様に、「労働(仕事と言っても好いでしょう)と「遊び」があるのでしょう。

奉公に出た丁稚さんの楽しみは、主人からお小遣いをいただいて、弟や妹にお土産を持って帰省できる、盆と正月だったそうです。それを「藪入り(やぶいり)」と言って、旧暦の一月一六日、七月十六日なのです。「故郷(中国語では  老家 laojia ”と言いますが漢字としては実感が強いですね)」、つまり親元に帰って、過ごす日々の楽しみが、日常の奉公を支えていたと言ってもいいのでしょう。

労働だけでは、人間は耐えられない様にできているのでしょう。日常の義務や任務から解放されて、ホッとできるひと時が、激務の時を支えているとも言えるでしょうか。今年の後半は、ラグビー熱がものすごい一年でしたが、前後半の間の “ half time ” が、それと同じ様な役割を持っていそうです。

ただし、正しく日曜日、昼間、青年期、正月、遊びをしないと、意欲を削いだり、怠心が生じたりしてしまいます。私は、本業の他に、スーパーマーケットの床掃除を、月に二、三度でしたが、20年ほどやっていました。自分たちの事務所を建て上げる時、工務店に頼まないで、自分たちの手で建てたのです。その掃除からの収入が、建設期間の十数カ月間の働き手の生活の一部を支え、後には、子どもたちの教育費に当てることができたのです。

その労働が明けると、私はタオルを手に、朝湯の銭湯や日帰り入浴施設や山間の温泉場に出掛けて、息抜きをしたのです。パチンコとか麻雀とか競馬などをしませんでしたから、500円ほどで湯に浸かって、ボーッと山の稜線や飛ぶ鳥を眺めて、昼時には、蕎麦をすすって、小さな安らぎの時を過ごしたのです。

床を洗浄し、モップをかけ、乾いた床面にワックスをかける作業でした。学校に行っていた時に、大手のホテルのアルバイト中に、ポリシャーを使ったことがあって、その経験を買われて、その仕事を得ることができたのです。「労働と遊び」、これが一対をなすのを身を以て経験したことになるでしょうか。

あの忙しさと緊張を解かれて、今の時があります。けっこう懸命に生きて、義務を果たして来れたんだと自負しているのです。多くの人の助け、協力、理解があってでした。今住んでいる、この街の北の方に、入浴施設があって、一度行ったことがありました。同じお湯、似た様な環境でありながら、労働の日々の合間ではなかったので、あの頃の様な感動がないのに気づかされるのです。

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渓谷の谷間に浴場があって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉がありました。あの感動は忘れることがありません。ちょうど今頃の季節、厳冬の凍てつく日が続いていた日だったと思います。あの「遊び」の時々があって、「労働」の日々が支えられていたことになります。

(懐かしい山間の公共の日帰り温泉です)

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仕事

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市役所では、『まだまだ!』と思っている私を、とうとう「後期高齢者」の枠に入れてしまいました。孫たちだけではなく、正真正銘の〈senior/シニア/おじいちゃん〉になってしまって、もう納得しております。

そういえば、時代の主役は、とっくに息子や娘になって、今や、孫の時代を迎えようとしているのかも知れません。号令一下、妻や子どもたちを従えて、車に乗せ、海水浴やキャンプや親戚の家に連れ出し、一切の責任を自分の肩に負い、気負いながら、家族を守りながら東奔西走した日々があったのを思い返しています。

格好をつけたのはいいのですが、山道を降った車の前方で、旗を降ってるいる男の人が見えました。『何だろう、こんなところで?』と思ったら、静岡県警の交通違反取り締まりだったのです。道理で帽子を被っていました。格好いいお父さんが、速度違反の切符を切られて、しょげて、俯いているのを、車の中から〈八つと二つの目〉で見ていました。頑固親爺も肩なしでした。

そんなことを思い返しながら、本格的な「終活」に入ったのを実感しています。ウイキペディアに、『終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最後を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括をする言葉である。』とあります。

「葬儀不要」、「墓不要」を家内に言ってあります。だれかに懐かしく思い返され、悪いことには触れないで、いいことだけが語られる様な式は、して欲しくないのです。造物主の元に帰ることができるので、亡骸を埋葬する場所はいりません。中部山岳の街の上流の流れのほとりで生まれましたので、その流れに灰の一部を、そして13年過ごした華南の街の旧新の両市街を分けて流れる河に、残りを流して欲しいのです。それも大変ですから、巴波川に、そっと流してください。

財産はありませんので、遺言状を書く必要はありません。遺産は無形の思想や精神であって、どんな夫、父親、祖父、友、弟、兄であったかを思い出して戴くだけで十分でしょう。

そういえば、39才の時、家内と4人の子どもに向けて「遺書」を認めたことがあります。すぐ上の兄に、腎臓を提供するために、左腎を摘出手術をすることになって、〈もしか〉のことを考えて書いたのです。家内が、その決意を支持してくれたのは感謝でした。次男は、3歳になったばかりの時でした。

百まで生きさせて戴くつもりですが、どう考えても、もう十年、十五年、そんなところでしょうか。最近、順天堂大学病院の哲学外来の樋野興夫医師の書かれた本を読んで、「死にゆくとは仕事」という考えを知って、うなずいたのです。

鶏小屋の金網のケージを作る作業が、私の社会的仕事の最初のものでした。それから、今している「家内を支える仕事」、現地を離れていますが、華南の街で「継続したい仕事」もあります。もしかしたら、私の方が、家内よりも早いかも知れませんが。一緒に戻れることを願いつつあります。

そして最期に、「死にゆく仕事」が残されているんだと思えるのです。いつも思うのは、〈双六(すごろく)〉の様に、〈上がり〉になる様に、家内や子どもたちの迷惑にならないことだけを願っています。でも、これからは迷惑なしには、後期高齢期を生きられないのですから、万端よろしくお願いしておきます。

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遊び

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滝廉太郎の「お正月」、新しい年が来るのが待ち遠しくて、よく歌った記憶があります。

もういくつねると おしょうがつ
おしょうがつには たこあげて
こまをまわして あそびましょう
はやくこいこい おしょうがつ

もういくつねると おしょうがつ
おしょうがつには まりついて
おいばねついて あそびましょう
はやくこいこい おしょうがつ

男の子は凧(たこ)や独楽(こま)、女の子は追い羽根(おいばね)が、正月の遊びでした。私たちの世代には、そんな遊びがあって、とても懐かしく思い出します。家の中では、「福笑い」や「カルタ」や「トランプ」で遊んだのです。

独り遊びもありましたが、ほとんどは「集団遊び」でした。『勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう』とです(東京都下版)。

陣取り、鬼ごっこ、馬乗り、馬跳びなんかもありました。夕方のラジオ番組が始まるまで遊んで、「笛吹童子」などの番組を聞こうと家に帰って、ラジオの前に座って聞き入ったのです。

テレビもゲーム機も無かった時代の素朴な伝統的な遊びが、代々受け継がれていた様です。体のふれあいが懐かしいですね。遊び仲間の距離で、体温の温もりを感じられる様な近さで遊んでいた記憶があります。竹馬にも乗りましたし、兄が作ってくれた雪橇(ゆきぞり)で、崖を滑り降りたりもしました。

ザリガニやハヤ(川魚)を釣ったり、屑屋のおじさんの助けで、小川の流れで、金目のものをすくったり、水道管の繋ぎの真鍮製の栓を掘り起こしたこともありました。そんな手伝いで、お小遣いをもらったりしました。

家に帰って、宿題をやった様な記憶がないのです。病気にならない時の外遊びに懸命だったのを思い出します。同じ学年での遊びではなく、近所の子どもが長幼が混じりながら、よく遊んだのです。面倒見のいいお兄さんがいて、遊んでくれたでしょうか。その遊びで、人間関係のルールを学んだのだと思います。

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垣根

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植木の「垣根」って、最近では、あまり見かけません。腱板断裂の怪我をして、中国から帰って来た足で、札幌の整形外科医院に入院したのが、三年前になります。手術を終えて、リハビリを継続して受けていた頃、何度か外出許可をもらって、札幌の街を歩いた時に、気付いたことがありました。北海道の家の多くが、垣根なしなのです。

半年後に、家内を連れて検診で、札幌を訪ねた時に、遠距離バスで、函館に知人を訪ねた時も、函館周辺でも、同じ様に、多くの家が垣根がなかったのです。それらは、私には新発見でした。私自身が、垣根や塀のない家に住み続けてきたので、そう感じたことでした。

作詞が巽聖歌、作曲が渡辺茂の「たきび」の歌詞は、次の様です。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている※

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

バケツの水に、新聞紙をつけて、十分に水分を吸った新聞紙で巻いた、サツマイモを、掃き集めた落ち葉の焚き火に入れるのです。芋が焦げないで、しなやかな「焼き芋」が作れるのです。スーパーの入り口で焼いて売っているものとは、一味も二味も違って、実に美味しくできあがります。

子どもたちを連れて山奥のキャンプ場に行った時、消化用にバケツに水を張って置きながら、落ち葉を集めて焚き火をしたことが何度もありました。必ず、サツマイモを持参して。「焼き芋」を作ったのです。

そういえば、「焚き火」も、消防法とかで禁止されているのでしょうか、見掛けることはありません。先週、集まりへの出席で、出かけた道筋の農地から、煙が上がっていました。しかも二箇所で見掛けましたが、珍しい光景でした。以前は、どこでも見られた里の風情でしたが。

今年は、家事が自分の仕事で、食料の買い出し、調理、ゴミ出し、洗濯などをこなした一年で、家内に長くやってもらった分の〈お返し〉をしたのかも知れません。それで、春先に、「しもやけ」が手にできてしまい、痛痒さを久しぶりに味わったのです。〈生味噌〉の代わりに、メンタームを塗って直しました。

今日は、市立図書館に行って、矢内原忠雄全集を読んできました。若い頃に傾倒した人の著作を読み直して、再び強烈な迫りを感じたのです。家内は、「夜と霧」を読み直して、借り出して帰って来ました。行き帰りの道筋に、山茶花の垣根がけっこう多いのに気付いたのです。これから、木枯らしの季節になるのでしょうか。

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実家

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「いせやホームセンター」という名のお店が、栃木市薗部にありました。このお店が、1978年に、「カインズホーム
センター」の一号店として開店しています。2018年度末の時点で、店舗数は28都道府県下に217店舗もあって、その年間の売上は4000億円にもなる、業界最大手の企業です。

何でも揃う大型店で、栃木に住み始め、また10月の第19台風で被災した後、引っ越しをせざるをえなくなって、移り住んだ家の家具や調度品や雑貨まで、このホームセンターに行って、手に入れています。帰って来れる《実家》ができて、年末には、二人の娘が家族で帰ってきますので、その準備もしているこの頃なのです。

車がなくなってしまったので、長男が車で来てくれる時に、出掛けていたりです。栃木店と大平店の二店が、自転車で行ける距離にあって、荷台に載せられる物を買いに行ったりしてきました。ところが、この両店も被災して、大平店は、この18日に再開するとの知らせがあります。ところが、創業の栃木店は、被災と店舗の老朽化とで、廃業を決定したのだそうで、先日のニュースにそうありました。

まあ被災仲間の私も、開店を待っていたのですが、残念な結果になってしまいました。水の勢いというのは、ものすごい力で、その動きも自在だというのを、今更ながらに経験した今年の後半でした。舟運で栄えた街ですから、川辺にできた街並みは、何度も水害を受けてきた街なのです。

その氾濫した巴波川の脇のアパートの4階に移り住んで、川面に、白鷺や鴨や鯉がいて、街中のオアシスの様な佇まいを、11月朔日以来楽しんでおります。年末と正月は、この狭い家で、8人が生活をし、正月には、二人の息子たち家族が加わって、14人になります。布団や食器、暖房やトイレ、『どうしよう!』という事態です。ところが家内は大喜びでいますが。

娘たちは、手ぐすね引いて、家の中を、配置換えするつもりの様です。近くの図書館が、孫たちの学習室に使えるでしょうか。歩いて3分の所に、「金魚の湯」という名の銭湯もあります。どうにかなりそうで、6人で過ごしていた子育て中の《ワイワイ》に《+α》になることでしょう。

この住み始めたアパートには、もう二軒、被災者家族が引っ越して来られています。何だか〈被災同窓会アパート〉になったみたいです。娘たちの好きな魚屋さんが、目と鼻の先にあり、郵便局も、市の無料駐車場も、デニーズやインドカレー店まであります。そう言えば、昔、『狭いながらも楽しいわが家』と歌った歌がありましたね。

(栃木市蔵の町美術館です)

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厳冬の山村で

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思い返しますと、父が亡くなって48年、母は7年になります。二人の兄と弟がいて、私を入れて6人家族でした。小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。

日本の様に、こんなに自然の恵みを戴いた国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」の様に、自然界が牙をむき襲ってくることもあります。ビクビクしたと思ったら、「優しいお袋」の様に、満開の桜や山を萌えさせる紅葉を見せ、四季の彩りを色濃く見せてくれます。

育児法などの本を読んだこともない両親に、育て上げてくれたことを思い出しています。優しい母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたり、ゲンコツをもらいながら、剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が61才で、誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、父が年上の感じがしないのが、何となくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今日は、私の誕生月なのです。父の戦時下の業務手帳が、父の机の引き出しの中に残されてあって、そこに、『午前4時45分誕生!』と記されてありました。こんな厳冬の早朝に、村長さんの奥さんが、家に来られて、井戸の水を汲んで、お湯を沸かして産湯(うぶゆ)の用意をしてくれて、産婆役をしてくださり、その腕に、私を受け止めて、産衣を着せてくれたのだそうです。

山の渓谷の12月の水は冷たかったのでしょうね。終戦の8か月前の山村ですから、物資の乏しい時でもあったのです。父は水汲みや、湯沸かしを助けたのでしょうか。甲斐甲斐しく動き回って、3人目の〈また男の子〉の私を迎えようと、手慣れた手つきで準備に余念がなかったのでしょうか。そんな中、陣痛に耐えながら、母は産んでくれたのです。

毎年そうなのですが、今では、子どもたちが独立して、世帯を持っていますので、一緒に、一人一人の誕生祝いをしたいのに、そうできないのが残念です。先週、在米の孫娘の水泳大会の動画が送られて来ました。バタフライが得意なのだそうで、家族や友人たちに賑やかな応援の声が聞こえていました。〈工事中〉の孫たち4人と、年々〈いぶし銀〉の様に磨きがかかる様に願いながらも、〈粗鉄〉でしかない私との年齢差に、人生の面白さがあるのを楽しんでいます。

中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)」が付いて、値打ちがあって、貫禄があると言った意味が含まれているのです。その様に、「完成」に向かっているのでしょう。間も無く迎える新しい月と年に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして、さらに「箔」をつけるために、輝いた「2020年」を、家内と共に迎えたいものです。

もうすぐ、お嫁に行った娘たちが家族で〈里帰り〉して来ます。東京圏にいる息子たちも、正月には、やって来ることになっています。この帰省が、私への《誕生プレゼント》なのでしょう。明治五年に創業した写真館が、引越し先の家の目と鼻の先にあって、『正月には、家族全員14人で写真を撮りたいの!』との家内が、予約を入れています。『早く来い来い』の12月17日の早暁です。

(しばらく食べていない「甲州ぶどう」です)

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medical cafe

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小春日和の中、今日は宇都宮に出掛けました。東武宇都宮線の始発から終着まで乗って、駅近のオリオン通りを行った、“ cafe “が会場で、「街中medical cafe in Utunomiya」の月一の定例会があって参加する家内の乗る車椅子を押して行ってきました。市内や近郊の県立がんセンターや自治医大などの医療に従事する関係者と癌患者と家族の情報交換や、激励を目的にした集いでした。会の代表の平林かおるさん(栃木県立がんセンター病理診断科)が、「私たちについて」で、次の様に、会の様子を語っています。

『国民の2人に1人ががんにかかる現在、がんを始めとして病気で悩んでいる方やそのご家族は少なくありません。各医療機関には外来診察や相談窓口を通じて、患者さんやご家族をサポートする機能が備えられていますが、病気や治療に対する情報提供が主体で、患者さんやご家族の不安や悩みに対して十分に対話をする余裕がないのが現状です。

日本では、欧米のように心のケアを行うカウンセリングが生活習慣の中に普及していないという事情もあり、今まで相談する場所がなかったと思われていた方もおられると思います。

病気になった時に誰に相談したいかという問いに対し、家族や友人を上回り、医療者、がん経験者と答えた方が7割を占め、より病気に身近な人との交流を望んでいるというアンケート結果もあります。

そこで私たちは、病院の外に出た、日常生活の場であるまちなかで、通常の医療では満たされない部分を埋め合わせるサポートができないかと考え、下野新聞社のご協力をいただき「まちなかメディカルカフェ in 宇都宮」を20134月、宇都宮市オリオン通りの「下野新聞NEWS CAFE」に開設し、活動を行ってまいりました。その後、201811月より、「Café ink Blue」に活動拠点を移動しましたが、今現在も下野新聞社の後援を頂いております。

ここでは、病気を持たれた方やご家族がお茶を飲みながら、リラックスした雰囲気の中で、安心して自由に話ができ悩みを語り合う場所を提供し、医療者やがん経験者などとの対話を通じて、病気を持ちながらも笑顔で前向きに生きることができるように少しでもお手伝いをさせていただきたいと思っています。

この考え方は「がんであっても笑顔を取り戻し、人生を生き切ることができるように支援したい」と願う、順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫先生が提唱された「がん哲学外来・メディカルカフェ」を根源としています。

診療や診察はいたしませんが毎回、医師数名、看護師、医療ソーシャルワーカー、臨床心理士などの医療従事者や、教員、学生、市民ボランティアなどのスタッフが参加しています。

スタッフの中にはがん経験者もおり、相談に来られる方の必要性に応じた対応ができるように心がけています。月1回ではありますが、来てくださる方に寄り添いながら、このメディカルカフェが皆様にとってささやかなまちなかのオアシスとなれば幸いです。』

初参加の家内は、会の副代表をされている医師の面談(入会儀礼でしょうか)を経て、全体の交流会に加わり、シンセやハープやアイリッシュフルートの演奏の“ Xmas 祝会 も行われ、初めて参加した思いを、家内も語るように求められていました。けっこう何度も再発しながらも、その病状を乗り越えて来られた《歴戦の強者》が参加されておられ、そんなみなさんの〈発病とその後〉の体験が語られていました。

同じ栃木市から参加されていらっしゃる方がおいでで、『毎回、これが最後になるかという覚悟で、これまで7回ほど参加して来ています!』と家内に語っておられた言葉が、真摯(しんし)に聞こえてきました。城山三郎が、「そうか、もう君はいないのか」を著していて、奥様のがん発症を、夫の目から記しておいでだったのを思い出したのです。

この” medical cafe “を始められた、樋野興夫医師は、『死は人生最後の仕事です!』と言っておられます。確かに、生きるために仕事を積み上げ、果たして来た私たちは、双六の上がりの様に、死というステージを迎えて、それを《仕事》と捉えるのは、すごいことだと思わされたのです。それで、自分も『上手に取り組みたい!』と思わされながら、家内のお伴をして過ごし、帰りの車窓から男体山がくっきり見えた一日でした。

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可能性

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「天の配剤」とは、夜があり昼がある事、男がいて女がいる事、冬があり夏がある事、貧しさがあり豊かさがある事、弱さがあり強さがある事なのでしょうか。互いに補い合い、助け合い、譲り合うために、二つの違いが背中合わせの様にあります。一日中昼だったら、人の心も体も休まらないのに、しっかりと眠れる夜があります。男だけだったらギスギスしているのに、女性がいる事によって和やかになれます。寒い冬ばかりだったら凍えてしまうのに、灼熱の夏があって人は活動的になります。貧しい人を支えるために、ある人には豊かさが与えられています。

もし世の中に、強者ばかりがいたらどうでしょうか。喧嘩や戦争で覇権争いに、人は明け暮れている事でしょう。小学校の同級生に長島くんがいました。「オランダ屋敷」に住んでいると言われていました。当時、『・・・オランダ屋敷に雨がふる』という歌詞の歌が流行っていて、雨漏りのひどい家だったからです。弟がいて、二人で破れた「番傘(紙と竹でできた雨傘)をさして、雨の日には登校して来ました。その内、雨の日に学校を休む様になったのです。傘が完全に使えなくなったからです。お互い悪戯小僧でした。

ある時、何かを仕出かして、彼と何人かで、廊下に立たされたのです。まだ給食のない時代、彼は弁当も持って来ませんでしたので、立たされ仲間にカンパして、彼を経済援助した事がありました。悪戯で、落ち着きがなく、我儘で、短気な私が、子どもの頃にした、たった一つの善事でした。小児麻痺で体の不自由な後輩がいました。彼の友になって、彼を励ましたのです(実はこちらの方が励まされたのですが)。生意気盛りにのたった一つの善事でした。

道路を歩いていたら、女性を殴っている男がいました。間に立って、『女をいじめるな!』と、その男に一発食らわしました。社会に出てした、たった一つに善事(!?)でした。両親のいない姉弟がいました。弟は鑑別所にいました。帰って行くのは施設で、そこで何時も<カツアゲ(上級生に金品を盗られる事)>されていました。家庭を味わってもらおうと、わが家に引き受けたのは、大人になってした、たった一つの善事でした。

まだいろいろなことがありましたが、テレビ放映が始まった時期に、やっていた「月光仮面」が、強きをくじいて、弱きを助けていたのをよく観たからでしょうか。自分が少しだけ強かった時に、弱く見えた人たちに加勢したのです。それは、性格の悪い私には、少し変えられるために、好い機会だったのです。

世の中に、<不要な人間>はいないのです。若い講師が、頬を紅潮しながら、『重度障碍児を日向に出したり、お風呂に入れたりと手伝いをした事があった。普段は完全に助けられないと生きていけないのに、彼らの表情に笑みが浮かぶんだ!人って、生きてるだけで、驚くほどの可能性があるんだよ!』と講義中に話してくれました。これは、高い授業料を払って、学んだ二つの内の一つの事でした。

自分も含めた誰にでも、どんな状況の人にも、生きる限りは、「可能性」が、溢れるほどにあると言うのは、自分勝手な生き方をし、我儘な男を変えた言葉でした。あの講師が、初老の学長になって、NHKの「Eテレビ」に出演していたのを見た事ことがありました。白髪になっておいででしたが、目の輝きは変わっていませんでした。人への「労(いた)わり」を、私に教えくれた方です。

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たたら

 

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島根県奥出雲町は、古代製鉄が行われた町として有名です。その製鉄法を、「たたら」と言います。この「たたら」について、次の様な解説があります。

     ♡♡♡♡♡♡♡♡♡

『日本列島における人々と鉄との出会いは、縄文時代末から弥生時代のはじめころで、大陸からもたらされたものと考えられています。

しかし、日本列島内で鉄生産が開始される時期については、研究者の間で、弥生時代説と古墳時代中期説および後期説とにわかれています。いずれにせよ、縄文時代末には、鉄器が日本列島にもたらされ、弥生時代のはじめには、鉄素材を輸入に頼りながらも、国内で鉄器の加工生産が開始され、やがて弥生時代後期になると、小規模ながら製鉄が開始され大陸からの鉄素材に、列島内産の鉄も加えて鉄器の生産が行われるようになり、そして、古墳時代後期には列島内の鉄生産が本格的になったものと考えられます。

そんな理由で、日本列島内の古代製鉄史のなかで、大きな転換期が6世紀にあったことが知られます。また、初期のころの原料は、鉄鉱石の場合が多く、以後、砂鉄も加わり、やがて砂鉄が主流になっていきます。

このことから、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す、後に中国山地で盛んになる「たたら製鉄」の技術もこのあたりから始まったと考えられます。』

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この「たたら製鉄」が盛んだったのが、奥出雲で、日中戦争や太平洋戦争のころまで続けられてきたそうです。ほぼ1300年以上の歴史があるのです。この伝統の「たたら製鉄」を、次時代を担う子どもたちに継承してもらおうと、町内小学校の6年生を中心に、11月から12月の間に、体験学習が行われてきています。

この様に製造された鉄から、包丁や農耕具が作られていきました。その鉄の中でも、特に優れた鋼(はがね)を、「玉鋼(たまはがね)」と言うそうです。これが、「日本刀」の原材料として、刀鍛冶によって火入れや冷やしを繰り返し、打たれ叩かれて、名刀が誕生しています。

父の家の床の間に、鹿の角で作られた「刀置き」がありました。私が大きくなった時には、刀がなかったのですが、きっと戦時中、武器を作るために、「供出(きょうしゅつ)」されてしまったのでしょう。また男の子4人が、真刀を振り回したら危険だから、父か母が処分したのかも知れません。

平和利用のため、また伝統製法の保存のために、方言や習慣を残そうとする動きを含めて、懐古主義だけではなく、歴史や伝統技術を学ぶ意味でも大切なことに違いありません。「古き良きもの」と、「新しいもの」が共存するのは、今の時代を生きる者として願うべきことの様です。

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