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『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。(イザヤ51章1節)』
このブログは、次男の勧めと管理で、2012年3月31日、母の95回目の誕生日に始めて、今日に至っています。それ以前にも、別の title でブログを発信をしていたのですが、お隣の国での発信ができなくなり、触れる内容に注意しながら、「悠然自得」と言うtitle で再開したのです。
開設の目的は、子どもたちや孫たちに、父として祖父として〈自分史〉〈家族史〉を語り残そうとして記しているつもりなのです。出自、来歴、思想、交友、学び、出会った人、出来事や時事雑感、思い出などを取り上げてきています。公開してますので、興味のあることで検索するとhit して、お読みくださる方からコメントが来たりしています。そんなことをご理解の上、お読みいただいたら嬉しいです。
どなたも、そうなのかも知れませんが、父の足跡を追い求めたいと言う願いがあります。昭和初期の横須賀市で入学した旧制中学校、東京に転校して学んだ中学校、中学を卒業して学んだ秋田市の旧制の秋田鉱専(旧制専門学校)、そんな学校跡や生活したあ街を訪ねてみたい思いが消えません。そして青年期を過ごした東京、仕事のために滞在した旧満州の奉天(今の瀋陽です)の鉄道会社(鉱山部門)、京城(今のソウルです)、山形、甲州の御岳などもです。自慢話にならない様にと思っています。
父が生まれたのは、日本海軍の鎮守府の置かれた横須賀で、海軍工廠の技官をしていた家系で生まれ育っています。父の話によると、後に国会議員となる、海軍の機材を港で扱う港湾労務の元締めに、仕事の差配を、曽祖父が任せていたそうです。その方の娘さんの結婚相手の名前をとって、私の名前をつけたと言っていました。その子どもが、有名な政治家になっています。
日本海軍が、自国の軍艦をイギリスから買っています。父の話によると、旗艦船を買うために出掛けた一行に、曽祖父が随行していたそうです。その船は、1898年に発注されており、1902年に竣工しています。「戦艦三笠」と艦名があって、対露の日本海海戦で東郷平八郎が指揮した船です。今は、横須賀港に記念館として停留しています。何年も前に、次兄と弟、そして横須賀の父の実家の敷地に住む従兄弟に案内されて、訪ねたことがあります。
京浜急行電鉄の駅の近く、港に面した丘の上に、父の生まれた家が残されています。昔は、「家の格」と言うものが重要だったのだそうで、父の生母は、父を産んだ後、離縁され、父だけが残されています。父の生母は足入れ婚の様だったのでしょう、父は、嫡出子にならなかったのです。祖父が再婚し、継母の下で、父は大きくなったのです。祖父をあまり語らない父でしたが、私が髭を蓄えると、『俺の親父にそっくりだ!』と言っていました。
思春期の頃でしょうか、父は、家に居た堪れなくて、東京の親族を頼って家を出ています。そこから私立の中学校に通うことになりました。どんな中学生、成績だったのでしょうか、旧制中学に入れるのですから、まあまあだったのでしょう。試験の面接官の前で、『「教育勅語」を暗唱したので入学できたんだ!』と、真偽の程は不明ですが、父が言っていました。
なぜ父が、「鉱山学」の専門学校を選んで、何になろうとしたのかも聞きませんでしたが、戦争が終わるまで、満州や朝鮮半島、山形や山梨の鉱山で働いたのですから、鉱石採掘の実務に特別な思いがあったのでしょう。家には、立派に結晶した水晶が、置いてありました。少なくとも軍用機の防弾ガラスの原料であった石英を、軍名で掘る責任を追って、「軍需工場」を率いていたのです。その頃の写真が残っていて、「戦勝祈願」などと書かれた日の丸の旭日を染め抜いた鉢巻をした従業員の集合写真が、母のアルバムに残っています。
甲府連隊長が乗っていた軍馬よりも、父の馬の方が良かったとかで、連隊長が譲って欲しかったそうですが、譲らずに乗り続けたそうです。ところが、父の馬を世話していた馬丁の方が、子どもが病んで、栄養価の高い食物が欲しくて、父の許可もなく、無断で、父の馬を潰して、肉にしてしまったのです。父に馬肉が届けられたのですが、自分の馬とはつゆ知らず、それを食べてしまったのです。後になって、自分の馬だと分かったのですが、事情を察して、父は不問に付したそうです。
私たち兄弟と、同世代の子のために、赦したのでしょうか、そんな優しい父でした。そう言えば、四人の子供の将来を考え、東京に越そうとしていた時、大田区に家を買う段になって、上手く騙されて、大金を取られてしまった話も聞きました。さらに涙もろくって、人に同情深かったので、そう言ったことが度々あったのでしょう。
自分は大きな立派な家で育っていましたが、父が尊敬していた方が、物に執着しない生き方をしていて、手狭な家で生活しておられ、それに倣ったのでしょう、住めればいいだけの家で満足した人だったのです。駅に近くて、至便性が良かった家を買って、また次を考えようとしていたのでしょうけど、そこに、10年も住んだのです。ところが、中央自動車道の計画で、転居せざるを得なくなり、その補償金で買える家を見つけたのです。
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終戦で、軍需工場は閉鎖され、そこにの残された索道(ケーブルカー)を使って、県有林から払い下げられた材木を、京浜地帯に送り出す事業をしていましたが、私たちの将来の教育を考えて、東京に越したのです。
東京の三多摩地区を住み替えて、そこから浅草橋、日本橋室町、日本橋伝馬町(だったと思います)、新宿淀橋などの会社で働いていました。六十一で、父はアッという間には帰天してしまうのです。東京に出てからは、ピカピカの革靴を履き、新調した背広に、クリーニングに出したワイシャツにネクタイで、ピシッと決めていたのです。そのお洒落な父が、晩年は、次兄のジャンパーを着て出勤する様になっていたのです。あの変化には驚いた覚えがあります。
勤め始めて、家に、私が〈食い扶持料〉を入れる様にしていたのを、父がとても喜んでくれて、父は飲まなかったのに、自分でビールを買ってきては、夕食に添えてくれたのです。小田急線で、父は都内に通勤していたのですが、電車の急停車で、クモ膜下を痛め入院し、なんと退院の朝に、入院先で、父は亡くなってしまったのです。すぐ上の兄が、61歳で召された父を、そして父の死後、寡婦となった母を40年も次兄夫婦が世話してくれ、95歳で母は召されました。二親を世話をしてくれ、天の神さまの元に送ってくれた次兄夫婦には感謝でいっぱいです。
父の職歴を思い返しますと、曽祖父が海軍の技官時代の人脈が、父の戦後の仕事の機会を備えていたのだろうと思うのです。いつでしたか、高校生の頃だと思いますが、私を連れて、父が務める大きな一部上場の会社に連れて行かれたことがあります。そこには、江田島海軍兵学校の校長をしていた方の息子さんがいました。父よりも年上だったと思います。また幕末の薩摩藩士の桐野利秋の子だという方を紹介してくれ、目を丸くして挨拶したのを覚えています。父から聞いたり、歴史で知っていた人の係累に会えるというのは特別なことでした。
父は複数の会社の責任や顧問などをしながら、働いていたのです。新宿にあった出版会社などにも連れて行かれました。兄や弟も、そんな経験があったのでしょうか、父の働く職場に行くことができ、そこにおいでの父の同僚や上司とお会いできたのは、良い思い出でもあります。自分の働く職場を、父が見せてくれ、人に会わせてくれたのは有益でした。
二親の信仰について触れてみます。父は、『俺は日蓮宗だ!』と言って、たった一竿の箪笥の引き出しに、経本と数珠を入れていました。でも、青年期にいた満州時代の関係の方でしょうか、神奈川県の川崎で関わっていた教会に、父は、家族に隠れて礼拝出席していました。「下駄履きで出席できる教会」を、牧師さんに言ったのだそうです。そんな教会だったのでしょう。子どもの頃に、『親爺に連れられて横須賀の教会の教会学校に行っていたよ!』と言っていたこともありました。
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母は少女期に、幼馴染の紹介で、カナダ人宣教師家族のいる教会の教会学校に行き、信仰を持ったのです。一緒に教会生活をした教友が、戦時中に、結婚して、満州の熱河で伝道をした福井牧師と一緒に働いていたと、母から聞きました。ですから、熱心な信仰生活を送った母で、カルガモの様に、よく四人を連れて教会に行ったのです。その後、東京都下の街の路上で、一人の婦人と出会うのです。お互い見つめあっているうちに、互いがクリスチャンだと分かり合ったのか、その方の集うアメリカ人人宣教師の教会に、誘われて行く様になるのです。そこのメンバーとして、召されるまで、母は教会生活を送っています。その教会に、上の兄が導かれ、今は穏退していますが、牧師をしていました。私もその教会で献身し、開拓伝道に従ったのです。
その母の続けられ、積まれた祈りがあったのでしょうか、父が召された入院先の病院の病室で、上の兄に導かれて、父は信仰告白を明確にしたのです。私も同席していました。その入院先の病院で、退院の朝に、父は召されてしまったわけです。父もまた信仰告白者として、天にて再び見(まみ)えることができると確信しているのです。
父には、母親違いの弟や妹たちがいましたが、非嫡出子で、相続のない子として入籍しています。その弟は、戦時中に南方の戦線で戦死しています。でも父が、天国の国籍を手にしたのは、幸いだったと感謝しています。
『親孝行したい時に親はなし!』、親孝行をされたい、されなければならない年齢に自分がなって、父への不孝を思い出しています。小学校入学前に、病んで死にかけた私を、可哀想に思って、特別扱いしてくれたのです。中学の時に、渋谷に連れ出してくれ、レストランで仔牛のやわらかい肉料理と黒パン、ロシア料理だったのでしょうか、それをご馳走してくれました。美味かったのです。弟は、新宿の中村屋に連れて行ってもらって、美味しいカレーを食べた思い出があるそうです。きっと父は、二人の兄たちも、一人一人連れ出していたのでしょう。
カツサンド、うなぎ、ケーキ、ソフトクリーム、シュウマイ、薄皮饅頭、あんみつセットを持ち帰っては、『さあ喰え!』と言って、見つめていた父を思い出すと、それが非行化防止の父の優しい策だったのだと、思い出して微笑んでしまいます。
父の青年期の挫折体験が、どんなものだったか皆目、三男の自分には分かりません。昭和初期の躓き青年が、どんな生き方をしたのでしょうか。その空白期間を知りたい私は、先日、栃木市大平図書館に出掛けて、ヒントになる様なタイトルの本を、書庫から借りて読んだのです。
類推はできますが、少し想像するだけしかできませんでした。母と結婚する前に、立ち直ったのでしょう、母が、『私にはいい人だったわ!』と言わせたほどの夫だったわけです。しっかり、危なっかしかった四人の息子たちを、食べさせ、着せ、連れ出し、叱り、拳固を見舞い、笑わせ、怒らせ、抱きすくめ、そして教育を受けさせてくれた父です。劣等感に苛まれずに、生きることができたのは、父のお陰です。
母が、四人の子を連れて、出雲の実家に帰ったことがあります。小学校2年頃だったでしょうか。父との間に、何かあったなどとは分からず、東京駅から夜汽車だったでしょうか、それに乗って旅をしたのです。混んでいて、横になれない座席で、弟と私とを、母は抱いたり、叱ったりしていたのでしょう、兄たちは無人の車掌室に潜り込んでいたそうです。大社とか日御碕とかに行きました。養母に悟されて母は、四人の養育を考えて、父のもとに帰ったのです。どんな夫婦間にも、色々とあるわけです。
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私が、国立病院に肺炎で入院した時に、死にそうな私に、高価なペニシリンを使う様にしてくれたのが父でした。そればかりではなく、曽祖父がロンドンで買って持ち帰った、純毛の毛布を、私の体を温めるために、横須賀の生家に取りに行って、病院のベッドで使わしてくれたのを覚えているのです。それを暇をしていた私は、ハサミで切ってしまって叱られたことがあります。バカの子ほど可愛い、のでしょうか、弱い私を愛(いとお)しんでくれた父には、思い出すたびに感謝が湧き上がってきます。
小学校に行ってる頃でした、その父が、家から私を連れ出して、大きな川のそばで、死にそこないで甘やかされ、わがままな振る舞いの多い私を、こっぴどく叱ってくれたのを忘れられません。まさに〈愛と鞭〉でした。その時はゲンコツなしで、こんこんと諭しながら叱ってくれたのです。それで、少し変わったかな、の私なのです。
学校を出て、就職先が決まった時に、父は菓子折りを携えて、下落合に住んでおいでの、私の就職先の所長宅を挨拶のために一緒に訪ねてくれました。大きな大学の国文科長を兼任されていた教授宅でした。父の期待に応えないで、二流の学校を出た私でしたが、父は、その就職先に入ったことが嬉しかったのでしょう。江戸期の資料や書籍が家の書庫の中にあって、見せてくれました。父は、そんな分野を学びたかったのかも知れません。話の合間に、興味深く見入っていました。
子は、父なくして、自分があり得ませんので、自分のルーツを、授業で宿題に出された次女の孫が、いろいろ聞いてきてた時期がありますが、少し細かく記してみたのです。まさに、自分の掘り出された穴、背景なのです。『父は父なるが故に、父として遇する!』、出典不明の、私の座右の言葉です。
(「穴」を掘るシャベル、「戦艦三笠」、「索道」、「相州浦賀」、「浅草」です)
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