残された物の意味

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 すぐ上の兄と弟と弟の孫と4人で、東日本大震災の茨城の被災地に出掛けたことがありました。弟の教え子が経営する大きな観光旅館のある、「五浦(いずら)」の近辺を訪ねたのです。その旅館も、津波被害を受けていました。美しい広々とした海岸線は、夏には海水浴で賑わうと言う部落でしたが、2011年の大震災から3〜4年経っていたその辺りは、あの猛威の爪痕を、まだ生々しく残していました。

 その海岸部を北に行きますと、福島県に接した所に、「いわき市(磐城)」があります。地震と津波の被害で、いわき市は500人ほどの犠牲者があったそうです。福島は脚光を浴びましたが、ここいわき市も津波の被害を、大きく被った地でした。その海岸部に「豊間」と言う地があります。

 そこに「豊間中学校」があり、ここも大きな被害にあっています。2011311日に、「卒業式」が行われましてから、3時過ぎに、あの大地震に襲われ、津波警報が発令されたのです。生徒や教職員は高台に避難したそうです。十五の春の門出の式典で、校歌などを演奏したピアノがも塩水と泥を被ってしまい、式の行われた体育館のステージの段に置かれてありました。

 その体育館を、自衛隊のみなさんが、4日間をかけてきれいに掃除をし、床はピカピカにされていました。気掛かりだったのは、生き延びたピアノです。そのピアノは、お孫さんが通う同校の体育館が新築された時に、蒲鉾店を経営する方が、お祝いに寄贈されたものでした。津波の被害は大きかったのですが、その中で残されたピアノは、寄贈者の思いや残されたものの価値が認められ、修復が決意されたのです。

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 自衛隊の山口隊長も、「復興のシンボル」にするという意気込みで、体育館の中央に置きました。瓦礫として処分されるところを、震災から2週間後に、いわき市でピアノ店を営み、調律師でもある遠藤洋氏が修理をかって出たのです。誰が見ても修理不能のピアノを、修復チーム6人の作業で、一万個ものparts が修理され、半年後ついにピアノの音はよみがえったのです。

 その翌年3月、豊間中学校の生徒が学ぶ仮校舎では、 新しく卒業生を送り出すために、卒業式が行われ、校歌と「未来へ」という曲がこのピアノの伴奏で弾かれたのです。うしなった物はおおかったのですが、残された物に思いを向けるのは、私たちの人生に似ていそうです。

 今、《ピアノを弾こう!》と言う campaign があちこちであるようです。わが栃木市の栃木駅(JR両毛線、東武日光線)のコンコースに、一台のピアノが置かれてあります。先ごろ閉校し、第一中と合併した市立藤岡第二中学校のグランドピアノなのでです。卒業生には懐かしい一台です。家内は、『この街に主への賛美を響かせたい!』と、楽譜を持って、時々駅まで歩いて行って弾いています。

(被災後の「豊間中学校」と「奇跡のピアノ」です)

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