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 一昨日は、6週一度の通院で、近くの医院に出掛け、帰りにスーパーで買い物をして帰って来ましたら、家の玄関の鍵がポケットの中になく、どこかに落としてしまったのです。立ち寄り先に電話して、届いてないか聞いたのですが、どこにも無かったのです。『届いたら連絡させてもらいます。』と言ってくれました。

 どうもなさそうなので、家内用の鍵で、合鍵を作ろうとカインズに出掛けたのです。『マスタキーでないと・・・』とカウンターで言われてしまいました。店の防犯上の決まりなのでしょう。それで散歩の道筋に、『合鍵作ります!』の看板の見覚えがありましたので、その店に回ったのです。

 店番のおばあちゃんが、難しいことは言わないで、コピーを作ってくれました。やはりプロの仕事で、家に帰って来て、その鍵で玄関の扉が開いたのです。それで、聖書の記事を思い出したのです。

 『ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。 2列王656節)』

 この人は、無くしたのではなく、水の中に落としてしまったのですが、預言者エリシャが、一本の枝を水の中に投げ込んだら、重い斧が浮かんだのです。私の失くした鍵も「借り物」でしたから、返さなければなりません。自分はエリシャのような預言者ではなかったので、「木の枝」を投げませんでした。

 助け手エリシャは、いつでもいてくれそうにありません。道具を使う人は、それを使う前に、点検整備が必要なのでしょう。借り物ならなおのこと、楔(くさび)で斧と手持ちの握りの部分がしっかり収まっているかを見るべきです。今回の私の鍵の紛失の場合は、管理が足りなかったのです。

 無くしたのは、脱いだ手袋と一緒に、上着のポケットに鍵を入れていたので、手袋を出す時に地に落ちたのでしょう。ズボンのベルトにキーを収める小物を持っていましたが、冬場にベルトを使わないズボンを履いていたので、それを使わなかったからです。

 今朝は、ズボンを履いて、鍵のホルダーをしっかりベルトとのつなげました。アルゼンチンの研修旅行に行った時に、お土産の小物を買って来ていて、その holder が引き出しにありましたので、それを取り出したのです。

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 鍵といえば、聖書にも「鍵」が出てきます。

 『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。 わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。 彼は、父の家にとって栄光の座に着く。(イザヤ222223節)』

 この預言のことばによると、「鍵」はだれの肩に置かれるのかと言いますと、主イエス・キリスト、救い主、神の子のです。イザヤの時代、パレスチナの地で用いられていたカギは、どんな物だったのでしょうか。どのようなものにしろ、その役割は「開閉」で、閉じられた部屋や箱などを「開ける」ことだったのでしょう。神に関わる秘密や奥義が、開かれていくのかも知れません。その「ダビデの家」、統治者なる神が、イスラエルの王として膏注いで、選ばれたダビデに、その神の民イスラエルの国を任せました。

 ただし、ダビデには、多くの人の血を流したこと、また民の数を勘定して犯した罪がありましたが、やがて「ダビデの子」と自らを言われた、神の御子イエスさまこそが、鍵の担い手でいらっしゃることを預言したのです。マタイの福音書では、神さまが、ペテロに鍵を用いることが欠かされとの記事があります。

 『わたしは、あなた(ペテロ)に天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ1619節)』

 ここに語られているペテロは、教会の土台の岩になるほどの祝福に預かっていますから(マタイ1618節)、「キリストの教会」こそが、「天の御国」、神の奥義、神の約束などと深く関わることを、たとえば解いたり繋いだりできる権威を与えられていることを、ここで言っているのではないでしょうか。

 とにかく、イエスさまこそが、「天の御国」にしても、約束にしろ奥義も、その施錠された世界で、それを開くことにできる方です。私たちにもできるのです。なぜなら私たちは、「キリストと共同相続人(ローマ817)」なのですから。驚くほどの委任、約束、祝福をいただいているのではないでしょうか。

 私の家の鍵は、私の住んでいる玄関しか開けられません。でも、神に関することを開いたり閉じたりすることのできる鍵が、私の手の中にあるのです。それって、きっと「信仰」のことなのでしょう。

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