注意を要する人がいる

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 「要注意人物」、中学生の頃、きっと学校ではそうだったのでしょう。それなのに処罰されずに、不問に付されたことが二、三度ありました。親は知っていたのに、そのことで叱られなかったのですが、それが、ちょっと不気味でした。昔の感化院(今では児童自立支援施設ですが)、そこにも行かないですみました。少年院だって、入院資格が十分だったのです。青年初期、思春時の危機を通っていたのです。

 中学校の3年間の担任が、三年の三学期の通知簿の欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれていました。教師の目に、そう見えたのでしょう。私立の中学でしたから、職員会議で、校名を汚したのですから、退学だってあり得たのに、附属の高校に上げてもらえました。何と、教員資格を取るための「教育実習」までさせてもらいました。その上に、古墳や貝塚の発掘の指導をしてくれ、一緒にシャベル作業をした社会科教師の紹介で、研究所に仕事を見付けてくださったのです。

 その研究所の所長の紹介で、都内の女子校の教師に採用されたのです。仕事を始めて間も無く、中学と高校が一緒だった級友が、〈みんなの代表〉だと言って、本当に教師をしているのかどうかを、菓子折りとお祝い金を持って、確かめに来たのです。職員室からやって来たのを見た彼が、目を真ん丸くして見ていました。

 牧師になった時、『そう、君もお母さんの道を行くんだね!』と中学校の担任が言ってくれました。母と同じ信仰を表明した私にだったのです。でも、もう同級生たちは、確かめには来ませんでした。中学を卒業する長男を連れて、また担任を訪ねたことがありました。長男を見た担任が開口一番、『君は大丈夫だね!』と言って、太鼓判を押していました。中学時代の私と比較したのでしょう。息子の手前、なんてことを言ってくれたんだと思いましたが、正直、そうでした。その息子が、後に牧師になったのです。

 自分が、その要注意人物だったので、世界では高い評価を受けた人の中に、〈要注意人物〉がいるのが分かるのです。変に鼻が効くのです。私は、シュバイツアーを評価しません。自分がへそ曲がりでもあるからでしょう。「密林の聖者」、「生命への畏敬」で有名になって、ノーベル平和賞まで受賞した人でした。この人は、代々のクリスチャンが信じてきている、イエスが「神の子」であることは信じていませんでした。「自由神学」の立場で、奇跡も復活も再臨も信じていなかったのです。医療についても倫理観についても問題があったと言われています。総じて、アフリカの人たちからは評判は芳しくなく、欧米諸国からの評価は高いのです。

 カルカッタの聖女だといわれ、同じ様にノーベル賞を受賞したマザー・テレサも、高評価の影にある、実像を知らされてしまい、説教の中で、この人を引き合いに出して評価したりは、私にはできないのです。この人は、『キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています。』と言っています。キリストは苦しまれたのだから、同じように弱者や病者は苦しまなければならない、と言うのです。病気による痛みへの緩和治療も、衛生的な洗濯されたシーツも施設も、より良い薬の投与もありませんでした。

 莫大な募金がありながらも、そのお金を、収容者や施設の奉仕者の必要に使うことをせずに、口座に蓄えていたのだそうです。一緒に働いた方が、その証言しているのです。宣伝用に作り出された campaign  で、聖女とされた人でした。やはり実態が分からずに、一人歩きしてしまった人でした。

 アメリカの祝日に、「キング牧師記念日(1月第3月曜日)」があります。公民権運動で、アフリカ系の人々の地位向上のために立ち上がり、アメリカの社会を揺り動かした、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアでした。その行動の途中に、暴徒に暗殺されて、その生涯を終えています。でも彼には、scandal が知られています。公民権運動の勇者であったのは事実ですが、彼の生活に中に、ある道徳上、倫理上の問題があったと聞きました。それで私は引いてしまったのです。

 多くの本が、日本のキリスト関係出版社から出されています。ハーバード大学の教授であった人で、そこを退職した後に、知的に弱さを持つ方たちの「ラルシュ共同体」の奉仕に転身されたヘンリ・ナウエンの愛読者が多くあるそうです。素晴らしい洞察力をお持ちで、弱者に対する優しい気持ちを持って接していました。とくに「霊性の神学」の分野に通じておいででした。しかし、人生の後半で、自分が同性愛者であることを、著書の中で告白していることです。聖書的に見て、同性愛は受け入れられませんから、どんな思考、主張が優れていても、敬遠すべきだと判断するのです。

 このみなさんとは、お会いしたことも、直接お話を聞いたこともありません。でもこの人たちの神学的な問題、倫理的な問題、金銭上の問題があったり、偽善や秘密など、陰の部分があるなら、その影響力を受けないことにしています。小学生の頃、シュバイツアーは立派だと思っていました。カルカッタの貧民窟で、社会に弱者に支えていたテレサは偉いと思っていました。黒人の地位向上に命をかけたキングは勇敢だと思いました。ナウエンが著した「放蕩息子の帰郷」を読んだ時の印象は良かったのです。でもこの人たちの実態を知った時に、彼らからの感化を遠ざけました。

 神の御心から逸れた行いは、人や社会が、どんなに高く評価を下し、褒賞を与えても、聖書が言っている「愛」と「義」と「聖」とからかけ離れているのなら、近づくことは危険です。かつては、曖昧さや、不徹底さ、後ろめたさの中に、私がいたからです。その人を動機づけていたものが何か、それを見極める必要があります。

(一片の雲もない快晴の青空です)

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