宮崎県

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 「鬼の洗濯板」と言われる、荒波に侵食された海岸線を見た時、江ノ島や九十九里浜の砂浜の海岸ばかり見てきた私でしたので、本当に驚いたのです。九州貧乏旅行で、宮崎市の青島を訪ねた時のことでした。実は、父から、自動車学校で、運転免許証を取るための受講料を、まとめてもらったお金で、九州に遊びに行ってしまったのです。父に、こっぴどく叱られてしまいました。

 古代日本を「蜻蜒洲(あきつしま/秋津島)」と呼んだのですが、宮崎県歌の中にこの表現が出てきます。日本神話に見られる日本誕生で、その地形が蜻(とんぼ)に似ていたので、そう言われた様です。

 日向宮崎と言えば、椎葉村の「ひえつき節」でしょうか。平家の落人伝説の中で生まれたもので、意味も分からずに、子どもの頃に、私も歌っていたのです。

庭の山椒(さんしゅう)の木
鳴る鈴かけてヨーホイ
鈴の鳴る時ゃ
出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ
何と言うて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと
言うて出ましょヨー

那須の大八
鶴富おいてヨーホイ
椎葉たつ時ゃ
目に涙ヨー

 全国に、「落武者伝説」があり、わが県の北、福島県の会津に近い、湯西川にも残されています。自分たちの祖先への想いというのは、どこでも強いのでしょう。京の都から遠ければ遠いほど、栄誉を誇った時と今の現実とを比べて、悲哀も感じながら、詩を読み歌ったのでしょうか。

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 律令制下、「日向国(当初は薩摩国・大隅国を含む領域でした)」と呼ばれ、徳川時代には、幕府直轄の天領が多くあったようです。高鍋藩、延岡藩、佐土原藩、飫肥(おび)藩(現在の日南市になります)、薩摩藩、その他に旗本領などもあったのです。

 歴史の中では、あまり知られていませんが、維新後に起こった西南の役の戦場は、宮崎県にまで及んでいて、薩摩藩とは敵対関係にあって、宮崎県が誕生した背景があるようです。

 現在、県都は宮崎市、人口は105万人、県花はハマユウ、県木はフェニクス、県鳥はコシジロヤマドリです。霧島連山が、火山の火口を見せて、得意な山貌があり、高千穂連山も含めて、天孫降臨の神話を生み出したのが、この日向国なのです。

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産業は、第一次の農林水産業が盛んで、比率からすると、農業は47都道府県のうち、その比率は第一位を占めています。県民所得は、東京都の半分近くなのだそうですが、物価は安いとされています。出始めの頃、売れ残った値引きした物でしたが、宮崎産のマンゴウは、形状も味も台湾のマンゴウに似ていて美味しかったのです。ただ原価は高かったのです。

 中学の同級に、「白鳥」と言う姓の同級生がいました。国語教師が、1年の国語の最初の授業の自己紹介の時に、彼の紹介後、

白鳥は 哀しからずや 水の青 空の青にも 染まずただよふ

を、彼への  ommage(敬意)なのか、からかいなのか、教えてくれたのを、鮮明に覚えています。若山牧水の短歌で、この教師の担任のクラスに、牧水の孫がいて、すぐ上の兄の親友にも、そのお兄さんがいました。若山牧水は、宮崎県の出身で、酒と旅を愛して、「漂白の歌人」と呼ばれ、酒量が過ぎたのでしょうか、肝硬変を患って、43歳で没しています。もっとも有名は短歌は、

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

 私が、酒をやめたのは、クリスチャンになった時に、聖霊に満たされた時に、その後、ピタッと飲めなくなったのと、12歳の時に知った牧水の生涯の最後を、教訓にしていたからなのです。そうですから、好きではなかった国語教師に感謝すべきかも知れません。

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 県民性について、『宮崎県の典型的男性を表す言葉として「いもがらぼくと」、女性を表す言葉として「日向かぼちゃ」がある。前者は「芋がらで作った木刀」の意であり、見掛けは立派だが芯のないお人よしであることを意味し、後者は、見た目は黒く小ぶりだが味はしっかりしているということを意味しており、民謡(但し、近年の作によるもの)にも歌われる。(ウイキペディア)』と言われています。

 台風が時々通過する県ですが、普段は、穏やかで、県民性も穏やかかも知れません。延岡から来ていた同級生が、そんな風貌でしたが、いつの間にかいなくなってしまいました。九州男児と言うよりは、延岡人だったのでしょう。

(鬼の洗濯板、コシシロヤマドリ、宮崎マンゴウです)

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