ドジョウ

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 近所の小川に出掛けては、ザルですくい獲ったのが「泥鰌(どじょう)」だったそうです。だれがかと言いますと、私の父でした。だれと一緒に行ったのかと言いますと、予科練に行こうとしていた「シゲちゃん」でした。どこでかと言うと、母の故郷の島根県の出雲だったのです。

 『凖ちゃんのお父さんは、ドジョウが好きで、いつも誘われて、小川で獲ったもんです!』と、出雲を訪ねた時に、懐かしそうに話してくれました。母の家の隣に住んでいた方でした。当時は街中の小川は、コンクリート製の堤などなくて、自然のままでしたから、ドジョウも多くいたのでしょう。

 そのせいでしょうか、『凖、駒形に行ってドジョウを喰おうな!』と何度も、元気だった父が言っていました。よほど美味しかったのでしょうか、『俺の子だからきっとドジョウが好きなんだろう!』と思ったのか、喰いしん坊の私にご馳走しようとしたのかも知れません。

 東京の街に詳しい父でしたから、浅草の銘店にも、何度も足を運んだのに違いありません。「駒形」と言うのは、六区とか浅草寺(せんそうじ)とか雷門の近くにあって、人の賑やかな街だったのでしょう。今でも通りの傍に店を構えて、営業をしています。

 江戸以来の「どぜう料理」を出すので人気店の様です。「柳川(やながわ)」と言う鍋料理があるのです。骨の苦手な人には、骨抜のドジョウに、さきがけにしたゴボウを、醤油や味醂などの割り下で煮込み、卵とじにして、ネギのみじん切りを添えてあるのです。

 江戸時代からのドジョウ料理で、鰻などと一緒に、人気料理だったようです。本格的なものは食べたことがないので、父を思い出しながら、浅草を訪ねてみたいのです。コロナをお土産に帰って来てはいけませんので、まだ自重しているところです。

 東武鉄道は、浅草から埼玉、千葉、群馬、栃木の各県を、12の路線で結んでいて、1899年の開通しています。創業者は甲州人、現在の山梨県山梨市出身の「鉄道王」と異名をとった根津嘉一郎です。繁華な東京と地方を結ぶ鉄道路線を創業したことは、鉄道に使命をよく心得た人だったことが分かります。

 この根津嘉一郎は、教育事業にも財力を用いて、武蔵大学、武蔵工業大学など、大きな大学ではないのですが、次代を担う優秀な人材を育てて来た学校を設立しています。根津の命名した社名の「東武」とは、〈武蔵国の東部〉と言う、田舎を結ぶ路線を目指して命名した社名のようです。

 浅草から、小学生が電車に乗って、大平山に遠足をしたのだそうです。また栃木県から、賑やかな大都市東京を訪ねて、観劇など文化に触れ、買い物のためにも、多くの人たちが利用したのでしょう。コロナ禍が落ち着いたら、まだ浅草まで、ここから直通電車では行ったことがありませんので、「柳川」を食べに出向きたいものです。

 特急ではなく普通電車に乗って、地下鉄線、東急線に乗り継いで、JR南武線まで出掛けたことが何度もあります。『イキハヨイヨイカエリハ・・・』で、帰りの東武電車で、栃木への車窓は、利根川や渡良瀬川の鉄橋を越えると、都会から田んぼの多い農村部になって、ちょっと寂しさを覚えてしまいます。

 でも空気も景色も人情も、良い栃木なので、ここが好きになっている私です。でも、まだドジョウ一匹、見たことがありません。浅草、昔は「浅草雷門駅」と呼んだそうで、そろそろな気配がしますので、そんな浅草に、行かなくては!

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