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勝海舟が、『二宮尊徳は・・・正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ。』と言っています。二宮尊徳は、下野國(今の栃木です)真岡(もおか)桜町で、農業指導をし、日光でも指導し、そこで没した逸材でした。この日曜日に、友人の説教に尊徳登場でした。
かく言った海舟も、徳川の直参旗本で、幼名を麟太郎と言いました。十二代将軍・家慶の子の慶昌の遊び相手に選ばれて、江戸城に上がっています。この慶昌が亡くなってしまったので、家に戻ってきました。その頃、犬に噛まれて大怪我をしますが、外科医の手術と、破格な人物の父・小吉でしたが、麟太郎を抱きかかえて、何日も介護をした、父性愛をによって快癒しています。
長じて、幕府の長崎海軍伝習所に学んでいます。幕末、江戸幕府はアメリカに使節を送りましたが、海舟もその一員に選ばれ、教授方頭取として、1860年、万延元年に、咸臨丸に乗船して140日の外遊をしています。
何よりも、薩長の軍が江戸に迫った時に、江戸を焼き討ちにしようとの企てがありましが、海舟は、江戸を火から守り抜いて、江戸城無血開城を成し遂げた、立派な人でした。それだけの才覚を持った人物でした。
明治維新後には、政府の要職に推挙されますが、気が進まなかったと言う理由で断っています。幕臣の維新後の仕事や生活の世話を長きにわたってしています。
大田区の友人の家の近くに、洗足池があるのですが、その池のはたに、海舟の墓があって、友人に案内されて行ったことがありました。島田虎之助の道場で剣道の修行をし、免許皆伝の腕前でしたが、刀を用いるのではなく、知恵を用いて生きた人でした。爵位を得るにもさんざと言い分けをしていたり、私欲や名誉を求めない生き方の人でした。
神さまは、確かに、人をお用いになられるお方です。人の側からみるなら、《時勢が人を作る》ようですが、さまざまな時代に、偶然人がいたのではなく、滅びたり、病んだり、困ったりすることを願わない、優しい神さまは、人の世の必要を見て、その時代時代に、人を備えなさるのでしょう。
(勝海舟の写真です)
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