在り続ける教会

.

 伝道の道に入って間もない頃に、一冊の本を読みました。牧会30年の辻宣道師の「牧会生活の処方箋」です。教会生活の諸相を綴ったものでした。その本の冒頭に、次の様な記事がありました。

 『ある日、母に言われて元教会員(教会は政府の命令で解散させられていた)だったひとの所へカボチャを分けてもらいに行きました。農家でした。たしか父が牧師であったころ、役員をしていたひとでした。

 驚きました。「おたくに分けてやるカビチャはないね!」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょうか。平穏無事な時は、まっさきに証しなどして張り切っているひとでしたが。

 そのガッシリした体格は、いかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個も分けてくれぬひとになってしまったのか。

 私には弟が三人いました。あのチビたちに何を食べさせようか、とぼとぼ帰っていった日のことを覚えています。リンゴ畑にそろそろ寒さがしのびよってくる夕方でした。

 そんなものかと思いました。人間いざとなれば、信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになってなかなか素直に神もひとも信じられませんでした。』

 この牧師のお父さまは、1942年の初夏に警察に連行され、治安維持法違反で拘束され、拘置所、裁判所、刑務所と続き、懲役二年の服役中に、青森刑務所で亡くなられています。彼が中学二年の時だったそうです。お父さまの亡骸を、お母さまと刑務所に、リヤカーをひいて引き取りに行き、亡骸が棺桶の中で、ごつごつ当たる音を聞きながら教会に帰ったと言っておられます。

 この少年は、戦後、叔父の世話を受け、神学校で学んで、任職されて牧師となられています。牧会者の子弟として生まれ育ち、茨の道をたどりながらも、お父さまと同じ道を歩んだことは、驚くべ強烈な証しではないでしょうか。

 これは、キリストの教会が持っている「二面性」を言い表してる経験談でしょうか。こう言った現実があって、教会は二千年の歴史を持っているわけです。難儀な時や経験を経ながらも、ドッコイ滅びることなく、連綿と、教会の主であるイエスさまと共に、都市にも農村にも漁村にも、そして山村にも、「キリストの教会」はあり続けての今なのです。

.