人と麺を恋うる秋

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 貧しい家庭で育った兄弟の話を、華南の漁村で聞いたことがあります。優秀な弟に、教育を受けさせたかったお兄さんは、東南アジアに出稼ぎに出て、給料をもらうと、弟のために送金をし続けました。そういった出稼ぎの労働者を、「クーリーkuli(苦力)」と呼んだのです。

 シンガポールの中華街の一郭に、移民のみなさんの記念館があります。極貧の中国からやって来て、その街で働いた人たちが住んだ街です。豊かになった現代の中華街は、観光地になっていますが、ある建物の二階に、それがありました。重労働の中で、アヘンの吸引に走る者がいたり、低賃金の重労働で、この国の基礎が出来上がっていったのです。

 狭い部屋に、蝋人形が置かれているのですが、どんな生活だったかが窺えるのです。まさに、苦労の「苦」、力仕事の「力」で生きていた街ですが、ビルの林立する近代都市は、そこにいかなければ過去の街の様子は知ることができません。

 “ LEXUS “ という日本製の高級車に乗っている女性が、同じ教会にいました。ご両親、弟さんとご主人と一緒に、鮑の養殖と輸出の仕事をしている、働き者のご婦人です。この方の「老家laojia/故郷」に連れていってもらったことがあります。彼女の親戚の家を何軒も訪ね、とても暖かくもてなしていただいたのです。一人の年配のおじさんは、すでに退職をして故郷に帰って来ておられ、とてもにこやかで穏やかな、自分よりも大分年配の男性でした。

 この方が、お兄さんに仕送りをしてもらい、大学まで進学し、後に大学の教授になり、その時には退職していたのです。そのお兄さんの愛をお聞きして、兄弟愛に感動したのです。その訪問は、漁船で漁に出ていて、シケにあって遭難され、ご主人と御子息を亡くされた、親戚のご婦人の激励のためでした。

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 お嫁さんとお孫さんがいて、辛そうにしておられたのです。家内が手を握ってお話をして、お祈りもしていました。その漁村は、イギリスの聖公会でしょうか、そこからやって来た宣教師の伝道で、今では村民の85%がクリスチャンだと言っていました。親戚中が集まって歓迎してくださったのです。

 この方が、日本の大学に留学して、今は大学で教えているご婦人とお二人で、2年前に家内を見舞ってくれたのです。彼女のお母さんは、市場の入り口で、お父さんが獲った魚をバケツに入れて売っていて、その横でお母さんを助けていたと、貧しい田舎の子供時代を話してくれたのです。

 街の省立病院に入院中、寝ずの番をしながら家内を支えてくれた方で、今でも母の様に慕ってくれています。ご子息が、今秋厦門大学に入学されると、昨夕、友人が知らせて来ました。お嬢さんも、大学生で、この方の家庭で、水曜日の夜に交わりを持っていました。市井の人は、穏やかで、信仰深く、社会の中でも活躍されています。

 時々、電話で様子を知らせてくれます。忍び寄る秋に、ちょっと人恋しくなっていたところに、続け様に電話が2件ほど、先週はありました。私たちには、とても嬉しいことなのです。一緒に食べた牡蠣やイカや肉、野菜のうどんの味が思い出される、《食欲の秋》でもあります。
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華と赤とんぼ、そして涼風

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 Olympic 、第一に思うのは、マラソン競技です。どの大会でも、開会と閉会の会場となる主会場を出て、所定の42.195kmの距離を走って、大観衆の見守る中をゴルインする姿は、「スポーツの華」に違いありません。

 思い出すのは、1964年に行われた東京大会の highlight のマラソンです。ローマ大会で、「裸足の王者」と異名をとったアベベ・ビキラが、ローマ大会でも東京大会でも優勝して、二連覇を飾ったのです。東京で共に競ったのが、三位に輝いた円谷幸吉でした。

 陸上競技の華には、drama があります。エチオピアの高地で育ったアベベの優勝を誰一人として、1960年の大会で予想した人はいませんでした。眼光が鋭く、古武士の様で、カモシカが疾走するごとく嫋(しな)やかでした。

 マラトンの戦場からアテネまでの距離を、フィディピディス(Philippides)という兵士が、アテネの勝利を知らせるために走った故事からか始まった競技です。過酷な競争で、自分にはできないなと思わされましたから、アベベ・ビキラにしろ円谷幸吉にしろ英雄の様に感じたのです。

 二人とも、短命で生涯を終えてしまったのは残念でした。TOKYO2020のマラソンは、札幌で行われ、優勝は、ケニアのキプチョゲ選手でした。大迫傑は6位入賞と健闘しました。今では例外なく、出走選手は、「カーボンプレートシューズ(通称厚底シューズ)」を履いているのだそうです。ずいぶん高価な靴を履かないと、勝てない時代です。アベベの様な時代は、もう来ないのでしょう。

 東京大会で、アベベは靴を履いて、甲州街道を調布で折り返しました。昨日、散歩に出ようとしてたら、三匹の赤とんぼが、目の前を舞っていました。華々しく演出された大会が終わって、2021年の夏が行こうとし、台風の予報が気になる、秋到来の今朝、窓からの風が涼しく感じられます。

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楽しかった

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敬愛します 兄上ご夫妻様

『 OHAYO 』ございます。コロナ渦中の五輪は閉幕しました。お疲れさま!と言い聞かせています。選手から“楽しかった”、“大会開催に感謝”をずいぶん聞いた競技でした。そして十代の若い選手の活躍には、未来への確かな力を感じました『ARiGATO』。

大会中は、大きな傷病者もなく感謝です。バッハ会長からも、全てのField Cast皆に御礼のメッセージと小さなプレレゼント、チラコソです。何とか体調も守られ、この小さな老体は、感謝な日々を過ごさせて頂いたことを今振り返りながら、次の24日からは、感動のパラで再び「Medical」奉仕させて頂きます。

暑さ対策をされ、健康と安全を最優先にお身体ご自愛ください。御身を案じております。先ずは、お祈りを感謝し ご報告まで申し上げます。

よい一日であります様に   弟より

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 今朝、第二番の mail です。真夏の八月、しかも酷暑の中で行われた TOKYO2020 を終えての気持ちを送ってきました。〈小さなプレゼント〉、嬉しいでしょうね。それよりも何よりも、『楽しかった!』に込められた、〈谢谢〉、〈Thank you〉、〈 カムサハムミダ〉、〈Merci〉、〈Danke〉、〈Gracias〉、〈Terima Kasih〉、〈Toda rabaetc を聞けたことが、嬉しかった様です。

 そこに本当の意味や価値がありそうですね。《小さな感謝》が、人を激励し、人生にも潤滑をもたらすのでしょう。ご苦労様です。まだ、Paralympics  でのボランティアがあるそうです。大会のvolunteerは、65歳以下で、ほとんどが若者たちだそうですが、75歳の弟には敢闘賞をあげたい、兄の身贔屓(みびいき)です。

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一万歩目標

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 『足の向くまま、気の向くまま!』、その日の気分によってでしょうか、このところ散歩をしています。その散歩コースが4つあるのです。だいたい東西南北になるでしょうか。一番多く行くのが、〈北Corse〉で、市の総合運動公園です。野球場、サッカー場、体育館、テニスコート、幾面もの多目的競技場、弓道場、屋内プール、やはり総合運動場なのです。時々、中学生の野球大会、高校生の野球大会、テニスの大会などを見受けられます。

 広い公園内の緑の樹々の中に散歩コースがあって、われわれ世代のみなさんが、黙々と歩いておいでです。私の場合は、家から五千歩弱ですから、場内の散歩はほどほどで、ほとんどの場合は、同じコースをたどって家に戻るのです。

 〈南Corse〉は、巴波川の土手に上がって行く道です。ほとんど人と行き交うことがなく、下流の橋をいくつか越えて歩くのです。江戸期から明治大正にかけて、舟運の行われた川を眺めるのですが、船子の歌う声が聞こえてきそうです。そこは四千歩強でしょうか。土手の脇に大きな桑の木があって、桑の実がなっていましたが、熟すのを待っている間に、どなたかにもがれたか、鳥がついばんでしまって、味見をすることができませんでした。静かに物思いをしながら歩けるのです。

 〈東Corse〉は、生活協同組合の店まで行きます。住宅街を抜け、時々、東武宇都宮線の高架下を歩き、しばらく行くと踏切があって、そこを渡ります。田圃の側道を歩くのですが、ビール麦の植え付けと刈り取り、稲の植え付けと刈り取りの風景を眺めることができます。広い関東平野は、穀倉地帯で、農業が盛んなのを、今に受け継いでいるのです。

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 もう一つは、〈西Corse〉です。合併前は、大平町で、日立の大きな工場が創業し続けてきて、それに関連する会社が多くあった様です。だからでしょうか、文化施設や運動場が整っていて、文化的な香りがしてきます。主に、beisiacainz home に向けて、買い物も兼ねて歩いて行きます。五千歩ほどあります。

 今は夏休み、小学校の脇を通る北と東のCorseでは、小学生が、野球の練習をしている様子が見られ、しばらく歩みを止めて、その様子を見ています。怒鳴って叱っている監督のいる学校があると思うと、静かに諭しているcoach がいる ground と、様々です。〈スポ少〉で野球やバスケットをしていた子どもたちのことを思い出したりするのです。

 今日は日曜日、午後歩きでもしようかと思っています。それの雲行きが怪しそうです。Rain coat を着て歩くと暑いので、傘持ちでしょうか。この散歩で、体重が10kgほど、見事に減ったでしょうか、苦行僧のようあいて歩いていませんので、ご安心ください。野花が咲き、家の囲いの中に庭木があって、季節に花が楽しめます。もう秋です。

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育成と激励

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 「体育運動学校」、私たちが住んでいた華南の街の家の近くに、幼い子から青年まで、多くの人男子女子が学んでいた、スポーツ専門の寄宿制の市立の学校が、広大な敷地の中にありました。多くの体育館や運動場があったのです。

 素質があって、運動能力の高い子どもたちを訓練して、初級、中級、上級と、国内や国際的な舞台で活躍できる level の選手を育成していました。中国のみなさんは、『私たちの国の sports は、国は大きいのですが、小さいボールの競技が得意なんです!』と謙遜に言っておいででした。そう言えば、卓球や🏓バトミントンバトミントン🏸は、国技の様に思われているのでしょうか、大人気でした。

 先日の TOKYO2020 の卓球団体戦で、中国が金、日本が銀だったそうです。それを聞いて、街中にあった、あの体育学校を思い出したのです。菜市caishichang ” やバス停に行く時に、その校内を通っていたので、行き合った学生たちの顔を思い出したのです。親元から離れて、春節にしか帰宅が許されない様な環境の中にいるからでしょうか、あまり楽しそうな表情を見せていなかったのです。

 猛特訓の練習を積み上げて、オリンピック出場を目指していくのでしょう、どの省都にもある学校です。村で選ばれ、区で選ばれ、市で選ばれ、やがて省や国の代表になって、卓球ばかりではなく、数多くの競技選手がしのぎを削る様に訓練を積んでいるのです。10歳前後から、練習に明け暮れるのは、国家の威信のためとはいいながら、過酷なのだそうです。

 それに引き換え、アメリカの少年スポーツは、もう少し緩やかなのかも知れません。もちろんプロ級の素質を持っていると、そう悠長に楽しむことなんかさせてもらえないのでしょう。高校生の孫が、春にはサッカーでしょうか。今頃の季節は野球、間もなくバスケットボール。いつだか送られてきた写真は、ゴルフをしている姿が映っていましたから、季節季節に違ったスポーツをしてきているのです。

 日本では、スポ少、クラブ、中学、高校、大学と、一種目を延々と続けていくのです。私たちの時代は、ビンタをもらったり、正座して集団責任を取らされたり、罰のうさぎ跳び、百本ノックなどが待っていました。好きで始めたのに、楽しくなかったのです。雰囲気は暗かったかなあ。

 あの頃の私たちと同じ表情が、体育学校の子どもたちの顔に見られたのです。住んでいたアパートの上の階の中学生のお嬢さんが、バトミントンが優秀だそうで、ご両親は一生懸命に応援していました。今はどうされたでしょうか。市レベル、省レベル、国レベル、どのあたりの優秀さなのでしょうか。そう考えると、オリンピックで金メダルに輝くと言うのは、驚くほどの猛練習の結果であるのです。

 ギリシャのアテネで行われていた古代オリンピックは、都市国家の競技大会だったそうで、そのしのぎを削る様な競争は、尋常ではなかったのでしょう。『健全な肉体に、健全な精神が宿る!』、逆もまた真でしょうか、鍛えた肉体や勝つことだけが目的でないのが、近代スポーツの精神なのです。弱くてできない人も、一生懸命に競技する人の姿を見て、生きていく励ましをもらえることなのです。

 そう言ったスポーツの祭典を、体育教師をし続けてきて、青少年の健全な心と身体の成長のために、辛苦して勤め上げた弟は、呼ばれて” TOKYO2020 “ の大会のボランティアをして、今日、終了するOlympic、そして続けて行なわれるParalympics を、陰で支えているのです。練習を積み上げてきた青年たちの激励者であり、健全な成長を願うからなのでしょう。
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平和への道

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 日本の中国地方、岡山や倉敷や福山には行ったことがありますが、行ったことがない、いえ行けなかった街が一つあります。「広島」です。

 戦後間もなくの頃でしょうか、父が一冊の写真集を買って帰ってきて、私たちの子供の前に置きました。1945年8月6日に、広島に投下された原爆の被害状況を写した写真を掲載した「広島原爆写真集(titleははっきり覚えていません)」でした。海軍の将官の家庭で育ち、軍需工場の責任者として、戦争に関わった父が、敗戦とともに、戦争の悲惨さや惨さを、自分の子たちに伝えたかったからでしょう。

 小学生の私には、死屍累々(ししるいるい)たる衝撃的な写真ばかりでした。私が生後8ヶ月の夏に、恐るべき被害をもたらした原爆投下で、無条件降伏をし、やっと長い戦争を終えることがでた頃だったのです。その 映像の shock が大きかったせいで、緑の葉をたたえた木が育つほどに復興していた広島だったのですが、下車したくなく通り過ぎていたのです。

 ここに掲げた poster は、この方の写真展の案内です。中国電力本店に、社長秘書として勤めていた高田静雄さんが撮影されたものです。この方は、「砲丸王」と言われるほどに優秀な砲丸投げ選手で、日本では長い間、記録保持者だったそうです。戦前に行われた「ベルリン・オリンピック大会」に砲丸投げ競技に出場されています。戦後、写真家となられ、その多くの作品の中の一枚が、これです。父と同世代人でした。

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 原爆を投下したアメリカから、広島を訪れ、原爆記念碑で祈りを捧げ終えた夫妻を撮影したものです。「平和への道」に歩み出そうとしている一歩なのでしょう。高田さんは勤務中に被曝されており、白血病で、東京オリンピックが開催された1964年の前年、53歳で亡くなられておられます。

 強靭に鍛えた肉体も、化学兵器の前には、脆かったのです。学徒動員で働いていたその日、お嬢さまは被曝されて亡くなっておいでです。平和の時代、あれから30年目の同じ日に、私たちの長女が誕生しているのです。私たちの生まれ育った街(今は吸収合併されています)も、投下予定の都市候補に挙げられていたと聞いたことがあります。

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立秋

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 「黄河」の中流から下流あたりを、誇り高い「黄河文明」の中心という意味が込められている、「中原(ちゅうげん)」と呼んで、中華文明の発祥地だとされています。河南省の鄭州市辺りを言うのでしょう。

 その地域の気候の一年の太陽の動き、移り変わりを、「二十四節気(にじゅうしせっき)」に区分し、今日は八月七日は、「立秋」です。こんなに暑いのに、暦の上では、「立秋」だと聞きますと、季節感が狂ってしまってる様ですが、それでも、先日は赤とんぼが飛んでいましたし、着実に「秋」が、そこまで来ているのでしょう。

 黄河下流域と私たち日本、北から南に長い列島の中で、気候は随分と違いがありますし、今夏など、旭川や帯広、新潟など、思っても見ない街で、高温を記録しているチグハグさを感じてしまう、最近の気象です。

 秋風の 吹のこしてや 鶏頭(けいとう)花 与謝蕪村

 まだ、この暑さでは、物悲しさを感じることも、書を読もうとも思わないのですが、暑いからこそ、ソヨソヨと吹く秋風を心待ちしたい願いが湧いてくるのかも知れません。

 伝え聞くニュースによると、私たちが長く住んだ華南の街の近くでも、大雨で洪水が出たとのことです。開発が、ものすごい勢いで進んで、自然体系が破壊されてしまったことも、大雨の自然的な原因と共に考えられそうです。

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 東南アジアやブラジルのアマゾンの森林伐採によって、気象の均衡が崩れて、異常気象の元凶になっていると聞きます。創造の世界は、創造者の意図によって定められているのに、人為的な手を加えてしまったことによって起こるのだそうです。

 そう言えば、子どもの頃には、扇風機もエアコンもなく、氷屋さんで縄で結えて買ってきた氷を、母が、氷砕きでかいて、シロップや梅酒を入れて、飲ましてくれたり、肉屋で〈ボンボン(ゴムの袋で凍らせたキャンディー)を買って咥えたりして、団扇で涼を摂っただけでした。ところが今は、ブンブンと室外機が回って、26、7℃の室温の中にいるのですから、自然を虐めている様でなりません。

 先ほども、出先で大雨に遭ってしまい、駆け込んだスーパーの eat-incorner  で、熱いコーヒーを飲んできました。ice coffee でない贅沢を楽しんでしまったわけです。こんなチグハグな生活で、身体はついていけるのかどうか、ちょっと心配でなりません。今頃を、「涼風至(すずかぜいたる) 87日頃」と気取って言うのだそうです。

(ケイトウの花、中国の中原です)

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科学者と預言者

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 科学者の発言、科学的な思考が、どの様なものかが分かるのが、尾身会長の発言に見られるのかなと思うのです。その時や、場所や、機会によって変わってしまう「感覚」に頼らないで、集められた事実から、結論を出そうとしている思考法です。しかもとても単純なのです。

 ちなみに、毎日新聞は、次の様に言っています。

 『政府の有識者会議「新型コロナウイルス感染症対策分科会」の尾身茂会長が16日に記者会見し、開会を1週間後に控えた東京オリンピックの応援は自宅で家族などとし、路上や飲食店などで大人数で応援しないよう国民に求める談話を発表した。尾身会長は「7月から8月下旬にかけての2カ月は、4連休、夏季休暇、お盆、オリンピック・パラリンピックなどが集中するため、1年以上の新型コロナウイルスとの闘いにおいて、正に山場だ。山場を乗り越えるためには、緊急事態宣言の期間中に感染拡大を少しでも抑えることが求められる」と訴えた(2021/7/16 17:51)』

 こう難しい理論を隠して、単純に言われる背景は、『情報通信技術(ICT)を使った疫学調査など科学技術の重要性から』であると、尾美会長は言っています。だから、この勧めを、「理解してほしい」と願っています。それは人間を知っているかどうかにあるのでしょう。優れた能力と、弱さもろさを、人は併せ持っていることです。もし謙遜に、自分の限界を認めるなら、驚くほどの知恵が与えられるのではないでしょうか。

 ガリレオ・ガリレイが、宗教的な、神学的な、政治的な立場で、天動説を押し通され、彼の「地動説」を異端審問にかけられて有罪を宣告された時、『それでも(地球は)動く!』と独り語を語った様に、事実を人間の都合で変える様なことはしないのです。事実は、感染者の数で歴然とされている今を起点に、これから将来の展望を語れるのです。大きな問題になる以前から言っていたのに、政治的な立場の人たちは、聞こうとしなかったのです。

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 尾身さんは、次の様に言っています。

 『私の専門は、公衆衛生という分野です。個人と向き合う臨床とは違い、社会全体の健康を考え、政策提言などをするのが仕事で、感染症の予防から、公害対策、食品衛生や環境汚染まで扱っています。』と、しっかり医学を学んで、問題意識を持ちながら公衆衛生の分野で生きてこられたのです。

 新型コロナの感染問題を、広角的に観ることができる姿勢と能力を、この科学者は身に着けているのです。ことの本質を見つけ出し、そこから派生することごとを、冷静に観察することが、科学者にはできるのです。そうすると科学的根拠があって、想像力が活発化して、直感が働くのでしょう。

 栃木県下に、自治省が設立した、「自治医科大学」が、宇都宮線(東北本線)の沿線にあります。その第一期生で、卒業生が尾身会長です。尾身茂氏は、「わが歩みし精神医学の道(内村祐之著/みすず書房/1968年刊道)」を読んで医学の道に方向を変えた人でした。この内村祐之は、内村鑑三の子でした。

 その時代、その時代に必要な Message を、預言者の様にして語る器を、神さまは備え、遣わされるに違いありません。危機的な状況下で、憐み深い神さまは、人に託す言葉や知恵を、こう言った器に授けられるのです。その声に、謙虚に聞くなら、早期にコロナ問題の解決を得ることができることでしょう。はっきりものが言えるのは、科学者が事実の上に立って物事を見定めてるからなのでしょう。預言者は、権威に阿(おもね)らないからです。

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味覚の秋

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 幼稚園に、子どもたちが行ってた頃、借りた農地に、サツマイモの苗を植える、農業実習がありました。『お父さんたちに助けて欲しいので、ぜひ・・・』との事で、参加しました。地方都市で、おじいちゃんの家の多くが農業で、サツマイモの苗植えなど珍しくなかったのでしょうけど、秋になっての収穫までの間、『美味しいサツマイモを食べられるよ!』と言う、生育を楽しむ事だったのでしょう。食欲旺盛のわが家の子どもたちは大喜びでした。

 秋になっての収穫の時期にも、駆り出されたのです。五月に苗植えをして、10月の収穫だったでしょうか、それまでの間、農地の所有者が世話をされていた様です。そんなことを忘れての収穫でした。嬉々として掘り起こして、収穫を楽しんでいた園児に、均等に配られて、家で蒸したり、調理して食べたのです。その時の味は忘れてしまいましたが、幼稚園の頃のことって、大人になってまで覚えているのでしょうか。それとも忘れてしまっているのでしょうか。

 華南の街に住んでいた時、友人宅にお邪魔した時に、実のオレンジ色のサツマイモをたくさんいただいたのです。家に帰って、早速蒸しました。まだ<秋深し>ではないのに、<芋蒸し>して食べましたら、絶品でした。故郷から送られて来るのでしょうか、田舎を持っている人は、収穫のたびに、送ってもらっている様です。

 その頃、上の階の方の所に、大きな竹籠いっぱいの「龍眼long yan」が送られてきていて、お裾分けしてもらいました。まさに「龍の眼」の様な感じですが、口当たりが良く、冷やして食べると美味なのです。日本でも輸入品がありますが、確かハワイにもあったと思います。夏の初め頃の果物です。

 日本のスーパーでも売っていたのですが、「紫芋(サツマイモの一種です)」が、華南の街でも売られていて、とても美味しかったのです。収穫の時期になって出回ると、買っては食べていました。食べ物の「季節感」とは好いものですね。この週初めには、「無花果(いちじく)」が、スーパーの果物売り場に並べてあって、つい手を出して買い求めてしまいました。初秋の果物でしょうか。小学校の下校時に、無花果泥棒をしたのは、知人の家で、先日メールに書いたら、子どもの頃を笑われてしまいました。

 まさに「味覚の秋」、涼しくなって食欲が解き放たれて、<美味しい物だらけの秋>の到来です。食べ過ぎに気をつけなくてはなりませんね。美味しい桃をいただいて、満足しています。自然の中で、農業をなさる方が工夫をし、世話をして美味しいものを作られるのは、感謝でいっぱいです。そろそろ、「栗」も「柿」出てきそうですね。
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早朝に思う

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 順風満帆な青年期を生きていたのですが、突然病んでしまって、一切のものを失ってしまう〈生きていく辛さ〉を、一人の歌人が、次の様に、短歌を詠んでいます。

 死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし

 これを詠んだのが、歌人・明石海人(本名野田勝太郎)です。この方は、明治34年に、静岡県駿東郡方浜村(現沼津市)に生まれています。沼津商業学校に進んで、静岡師範学校(現静岡大学教育学部)で学びました。卒業後は、小学校の教員として奉職しています。須津尋常小学校で出会った女性と結婚し、二人のお嬢さんが与えられました。

 ところが、25歳でハンセン氏病を発症してしまうのです。愛する妻と子たちと、強制的に離されてしまいます。そして、「天刑病」、「業病」と言われた病の特効薬を求めて、福岡県の明石に行ったりします。その後、現、岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539にある国立療養所「長島愛生園」に隔離収容されてしまうのです。

 この様に、青天の霹靂、思いもよらない発病を受け入れながら、短歌と出会います。それを詠むことを始めて、ご自分の心の思いを「三十一文字」で表現したことが、生き続けさせる力となっていったのです。失明もしてしまいますし、喉頭狭窄による気管切開も経験し、死と面と向かっても生き続けたのです。

 1938年(昭和13年)に、改造社から出された『新万葉集』に11首の短歌が入選するのです。翌年の2月に、ご自分の歌集『白描』が出版されます。でもその4ヶ月後に、明石海人は、わずか37才で召されてしまうのです。生前の193312月に、長島曙教会で、宣教師から「洗礼」を受けます。そして、身に負った病の「天刑」を、「天恵」、「天啓」として捉え直して、受け入れられる様になります。

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 明石海人は、『人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲を見た。癩は天啓でもあった。』と言い残しています。「隔離政策」と「偏見」、伝染性がないことが明らかになっても、その隔離を継続した国に決定が、大きな問題とされまああいた。

 この野田勝太郎さんが受洗した曙教会のみなさんから、この方の時代とは違う平成に入って、驚く様な感謝献金を、私はいただいたことがありました。それは尊過ぎて、自分の生活のためには使うことができず、長くお世話くださった宣教師が病んだ時、その医療費のために献金させていただいたことがあったのです。

 新型コロナが収まり切らず、感染される方が増える中、さらに熱暑が続く8月ですが、人の予測外の出来事に見舞われる、人の世の現実に戸惑わされていますが、私の確信は、『神の愛は不変で、移ろうことのない!』なのです。振り返ってみるなら、理解できない人生上の出来事が、きっと人の一生には益しているのではないでしょうか。さまざまに思い出している、もう暑苦しく蝉の鳴く早朝です。

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