早朝に思う

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 順風満帆な青年期を生きていたのですが、突然病んでしまって、一切のものを失ってしまう〈生きていく辛さ〉を、一人の歌人が、次の様に、短歌を詠んでいます。

 死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし

 これを詠んだのが、歌人・明石海人(本名野田勝太郎)です。この方は、明治34年に、静岡県駿東郡方浜村(現沼津市)に生まれています。沼津商業学校に進んで、静岡師範学校(現静岡大学教育学部)で学びました。卒業後は、小学校の教員として奉職しています。須津尋常小学校で出会った女性と結婚し、二人のお嬢さんが与えられました。

 ところが、25歳でハンセン氏病を発症してしまうのです。愛する妻と子たちと、強制的に離されてしまいます。そして、「天刑病」、「業病」と言われた病の特効薬を求めて、福岡県の明石に行ったりします。その後、現、岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539にある国立療養所「長島愛生園」に隔離収容されてしまうのです。

 この様に、青天の霹靂、思いもよらない発病を受け入れながら、短歌と出会います。それを詠むことを始めて、ご自分の心の思いを「三十一文字」で表現したことが、生き続けさせる力となっていったのです。失明もしてしまいますし、喉頭狭窄による気管切開も経験し、死と面と向かっても生き続けたのです。

 1938年(昭和13年)に、改造社から出された『新万葉集』に11首の短歌が入選するのです。翌年の2月に、ご自分の歌集『白描』が出版されます。でもその4ヶ月後に、明石海人は、わずか37才で召されてしまうのです。生前の193312月に、長島曙教会で、宣教師から「洗礼」を受けます。そして、身に負った病の「天刑」を、「天恵」、「天啓」として捉え直して、受け入れられる様になります。

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 明石海人は、『人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲を見た。癩は天啓でもあった。』と言い残しています。「隔離政策」と「偏見」、伝染性がないことが明らかになっても、その隔離を継続した国に決定が、大きな問題とされまああいた。

 この野田勝太郎さんが受洗した曙教会のみなさんから、この方の時代とは違う平成に入って、驚く様な感謝献金を、私はいただいたことがありました。それは尊過ぎて、自分の生活のためには使うことができず、長くお世話くださった宣教師が病んだ時、その医療費のために献金させていただいたことがあったのです。

 新型コロナが収まり切らず、感染される方が増える中、さらに熱暑が続く8月ですが、人の予測外の出来事に見舞われる、人の世の現実に戸惑わされていますが、私の確信は、『神の愛は不変で、移ろうことのない!』なのです。振り返ってみるなら、理解できない人生上の出来事が、きっと人の一生には益しているのではないでしょうか。さまざまに思い出している、もう暑苦しく蝉の鳴く早朝です。

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