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日本の中国地方、岡山や倉敷や福山には行ったことがありますが、行ったことがない、いえ行けなかった街が一つあります。「広島」です。
戦後間もなくの頃でしょうか、父が一冊の写真集を買って帰ってきて、私たちの子供の前に置きました。1945年8月6日に、広島に投下された原爆の被害状況を写した写真を掲載した「広島原爆写真集(titleははっきり覚えていません)」でした。海軍の将官の家庭で育ち、軍需工場の責任者として、戦争に関わった父が、敗戦とともに、戦争の悲惨さや惨さを、自分の子たちに伝えたかったからでしょう。
小学生の私には、死屍累々(ししるいるい)たる衝撃的な写真ばかりでした。私が生後8ヶ月の夏に、恐るべき被害をもたらした原爆投下で、無条件降伏をし、やっと長い戦争を終えることがでた頃だったのです。その 映像の shock が大きかったせいで、緑の葉をたたえた木が育つほどに復興していた広島だったのですが、下車したくなく通り過ぎていたのです。
ここに掲げた poster は、この方の写真展の案内です。中国電力本店に、社長秘書として勤めていた高田静雄さんが撮影されたものです。この方は、「砲丸王」と言われるほどに優秀な砲丸投げ選手で、日本では長い間、記録保持者だったそうです。戦前に行われた「ベルリン・オリンピック大会」に砲丸投げ競技に出場されています。戦後、写真家となられ、その多くの作品の中の一枚が、これです。父と同世代人でした。
原爆を投下したアメリカから、広島を訪れ、原爆記念碑で祈りを捧げ終えた夫妻を撮影したものです。「平和への道」に歩み出そうとしている一歩なのでしょう。高田さんは勤務中に被曝されており、白血病で、東京オリンピックが開催された1964年の前年、53歳で亡くなられておられます。
強靭に鍛えた肉体も、化学兵器の前には、脆かったのです。学徒動員で働いていたその日、お嬢さまは被曝されて亡くなっておいでです。平和の時代、あれから30年目の同じ日に、私たちの長女が誕生しているのです。私たちの生まれ育った街(今は吸収合併されています)も、投下予定の都市候補に挙げられていたと聞いたことがあります。
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