育成と激励

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 「体育運動学校」、私たちが住んでいた華南の街の家の近くに、幼い子から青年まで、多くの人男子女子が学んでいた、スポーツ専門の寄宿制の市立の学校が、広大な敷地の中にありました。多くの体育館や運動場があったのです。

 素質があって、運動能力の高い子どもたちを訓練して、初級、中級、上級と、国内や国際的な舞台で活躍できる level の選手を育成していました。中国のみなさんは、『私たちの国の sports は、国は大きいのですが、小さいボールの競技が得意なんです!』と謙遜に言っておいででした。そう言えば、卓球や🏓バトミントンバトミントン🏸は、国技の様に思われているのでしょうか、大人気でした。

 先日の TOKYO2020 の卓球団体戦で、中国が金、日本が銀だったそうです。それを聞いて、街中にあった、あの体育学校を思い出したのです。菜市caishichang ” やバス停に行く時に、その校内を通っていたので、行き合った学生たちの顔を思い出したのです。親元から離れて、春節にしか帰宅が許されない様な環境の中にいるからでしょうか、あまり楽しそうな表情を見せていなかったのです。

 猛特訓の練習を積み上げて、オリンピック出場を目指していくのでしょう、どの省都にもある学校です。村で選ばれ、区で選ばれ、市で選ばれ、やがて省や国の代表になって、卓球ばかりではなく、数多くの競技選手がしのぎを削る様に訓練を積んでいるのです。10歳前後から、練習に明け暮れるのは、国家の威信のためとはいいながら、過酷なのだそうです。

 それに引き換え、アメリカの少年スポーツは、もう少し緩やかなのかも知れません。もちろんプロ級の素質を持っていると、そう悠長に楽しむことなんかさせてもらえないのでしょう。高校生の孫が、春にはサッカーでしょうか。今頃の季節は野球、間もなくバスケットボール。いつだか送られてきた写真は、ゴルフをしている姿が映っていましたから、季節季節に違ったスポーツをしてきているのです。

 日本では、スポ少、クラブ、中学、高校、大学と、一種目を延々と続けていくのです。私たちの時代は、ビンタをもらったり、正座して集団責任を取らされたり、罰のうさぎ跳び、百本ノックなどが待っていました。好きで始めたのに、楽しくなかったのです。雰囲気は暗かったかなあ。

 あの頃の私たちと同じ表情が、体育学校の子どもたちの顔に見られたのです。住んでいたアパートの上の階の中学生のお嬢さんが、バトミントンが優秀だそうで、ご両親は一生懸命に応援していました。今はどうされたでしょうか。市レベル、省レベル、国レベル、どのあたりの優秀さなのでしょうか。そう考えると、オリンピックで金メダルに輝くと言うのは、驚くほどの猛練習の結果であるのです。

 ギリシャのアテネで行われていた古代オリンピックは、都市国家の競技大会だったそうで、そのしのぎを削る様な競争は、尋常ではなかったのでしょう。『健全な肉体に、健全な精神が宿る!』、逆もまた真でしょうか、鍛えた肉体や勝つことだけが目的でないのが、近代スポーツの精神なのです。弱くてできない人も、一生懸命に競技する人の姿を見て、生きていく励ましをもらえることなのです。

 そう言ったスポーツの祭典を、体育教師をし続けてきて、青少年の健全な心と身体の成長のために、辛苦して勤め上げた弟は、呼ばれて” TOKYO2020 “ の大会のボランティアをして、今日、終了するOlympic、そして続けて行なわれるParalympics を、陰で支えているのです。練習を積み上げてきた青年たちの激励者であり、健全な成長を願うからなのでしょう。
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平和への道

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 日本の中国地方、岡山や倉敷や福山には行ったことがありますが、行ったことがない、いえ行けなかった街が一つあります。「広島」です。

 戦後間もなくの頃でしょうか、父が一冊の写真集を買って帰ってきて、私たちの子供の前に置きました。1945年8月6日に、広島に投下された原爆の被害状況を写した写真を掲載した「広島原爆写真集(titleははっきり覚えていません)」でした。海軍の将官の家庭で育ち、軍需工場の責任者として、戦争に関わった父が、敗戦とともに、戦争の悲惨さや惨さを、自分の子たちに伝えたかったからでしょう。

 小学生の私には、死屍累々(ししるいるい)たる衝撃的な写真ばかりでした。私が生後8ヶ月の夏に、恐るべき被害をもたらした原爆投下で、無条件降伏をし、やっと長い戦争を終えることがでた頃だったのです。その 映像の shock が大きかったせいで、緑の葉をたたえた木が育つほどに復興していた広島だったのですが、下車したくなく通り過ぎていたのです。

 ここに掲げた poster は、この方の写真展の案内です。中国電力本店に、社長秘書として勤めていた高田静雄さんが撮影されたものです。この方は、「砲丸王」と言われるほどに優秀な砲丸投げ選手で、日本では長い間、記録保持者だったそうです。戦前に行われた「ベルリン・オリンピック大会」に砲丸投げ競技に出場されています。戦後、写真家となられ、その多くの作品の中の一枚が、これです。父と同世代人でした。

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 原爆を投下したアメリカから、広島を訪れ、原爆記念碑で祈りを捧げ終えた夫妻を撮影したものです。「平和への道」に歩み出そうとしている一歩なのでしょう。高田さんは勤務中に被曝されており、白血病で、東京オリンピックが開催された1964年の前年、53歳で亡くなられておられます。

 強靭に鍛えた肉体も、化学兵器の前には、脆かったのです。学徒動員で働いていたその日、お嬢さまは被曝されて亡くなっておいでです。平和の時代、あれから30年目の同じ日に、私たちの長女が誕生しているのです。私たちの生まれ育った街(今は吸収合併されています)も、投下予定の都市候補に挙げられていたと聞いたことがあります。

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