ノアの日の如く

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 この数年、ことのほか気象異常が甚だしいのです。帰国する前年、中国の華南、私たちの住んだ省の西部でも、大雨による洪水に見舞われ、甚大な被害がありました。友人たちは、被災地に入って、井戸の消毒などの奉仕に当たっていました。

 一昨年あたりからは、アジア圏だけでなく、アメリカでもカナダでも、ヨーロッパ諸国でも、洪水や大嵐や山火事などの被害が伝えられていて、本年は世界大の異常現象を甚だしく見せています。

 聖書に次の様に記されてあります。

 『人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイ243739節)』

 気象用語の〈線状降水帯〉を、天気予報の中で聞くと、『まるで40日四十夜も雨の降ったノアの日の様だ!』と表現したいほどの、現象に思えてなりません。その「ノアの日」は、原語ですと複数形の ” days "ですから「日々」のことになります。洪水が起こるまでの日々も、水が引いた直後の日々も含まれていることになります。

 ところが人々は、飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、厳粛さを感じていないかの様でしたから、この時代と同じです。起こっている異常現象を厳粛に捉えていないのです。

 「人の子」とは、イエス・キリストを言っています。母も、私を育ててくれた宣教師のみなさんも、「キリストの再臨」を待ち望んでいましたが、それを迎えることなく、地上の生涯を終えて、神のみ元に帰って行きました。

 今朝も滋賀で地震があったと、ニュースが知らせていました。地震の頻発、民族の対立、戦争の噂など、「人の子」が来られる直前の様子に当てはまります。その備えはおできでしょうか。これは脅しではなく、備えをする様に、歴史の支配者である神さまが勧告していらっしゃるのです。

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幾年ぞ

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最近、コロナ騒動が始まって、しばらく経った頃から、よく聞く様になった言葉に「人流」があります。『人流が多くなった!』、『人流を減らさないと!』と言うのを聞きます。日本通運やヤマト運輸がしている物資輸送を「物流」と言いますから、何か人が「物」になった様で、まるで人が無機質になったみたいに感じてなりません。

 人間は、さまざまな動機や目的をもって移動をして、社会の中で活動をしています。だから孟宗竹を真っ二つに割って作った樋に流れ下る「そうめん」や、景気が良し悪しで動きを見せる「金」の流れとは違います。

 「人の流れ」とか「人出」の方が、愛や優しい思いを持った人の動きを表すには良い様に思えます。物ではなく、心と人格を持つ人として捉え接して欲しいのです。

 利用規制や行動規制で、鉄道の駅や、高速道の出入り口を、何かの理由で閉鎖したり、開いたりすることもあります。要人が通過したり、利用する時に、一般の利用客の行動を規制してしまうのは、ある理由で仕方がないのかも知れませんが、物流従事者や医療関係者は、急がなければならない時には、迷惑になってしまいます。人の流れ、動きを、都合によって制限したりしています。

 カルガモ一家が道路を渡ろうとしていると、カモ流、車は停車して、お母さんや子どもたちが渡り終わるのを待って、運転を再開しています。これは優しさですが、人命尊重などの優先順位はよいのですが、文字通りに《民主》でなければならないのでしょう。思いやり座席に座る人たちの様に《弱者優先》であるべきです。

 カタカナ語よりも、まだ分かりやすいのですが、今の〈造語言葉〉が荒れていて、カサカサとして、人を潤せないで、傷付けているのが悲しくないでしょうか。天然自然に恵まれた、しっとりした気候の国に育った言葉は、美しく配慮があふれています。《やまとことば》を聞くとホッとしてしまいます。

 お隣の国の朝鮮語は、講演や説教に向いた言語でしょうか。ソウルの家庭に食事に招かれた時、日本語の詩的な美しさを褒められたことがありました。確かに、短歌や俳句の七五調は、簡潔で、韻をふんだりしていますと聞きやすいものです。ことばが美しいのです。

 まつりすみ いくひか過ぎて なに思う

 若い命の散華、将来を奪われた父やオジや祖父や友や隣人が、命を賭して守ってくれた山河は、今やコロナと大雨で大変な状況です。兄二人を戦場に送り、二人とも戻ってこなかった妹さんが、『戦争をした当時とコロナ禍で五輪を強行した今が重なる気がして怖い!』と言われました。七十有余年、新しい課題や問題を負いながらの今です。

(「たくみの里」になっていたモロコシです)
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