壬生

.



.
 今朝、晴れていましたので、思い立った様に、最寄りの栃木駅から、8時17分発の東武宇都宮線に乗って、壬生駅で下車し、壬生城址公園を訪ねました。

 宇都宮と栃木の中間に、この壬生町があります。1462年、壬生氏が、この地を治め始めた折に築城されています。関東平野の一角に建てられている平城です。日光に家康の墓所が作られ、改装されるのですが、初めの頃の将軍は、日光の墓所詣でをする時に、 その旅の宿舎として、この城を使ったので、将軍家所縁(ゆかり)の藩として、名を上げたそうです。

 明治が百五十年も経ちましたから、武家屋敷が残っているかと思って、城の近くの城下町の「本丸」という名の街を歩いてみましたが、一、二軒、それらしき門構えの家がありましたが、家は普通に建て直されていて、往時を偲ぶことはできませんでした。

 この初代の壬生氏が、近江国から持ってきた「夕顔(ゆうがお)」が、殖産興業で農家が植えて、この地の名産品にしたのです。その夕顔から干瓢が作られるのですが、街中に「干瓢問屋」の看板が掲げられた店があって、壬生氏の善政を感じさせてくれた、もう一つの街の顔でした。

 壬生忠英公のお陰で、この地の干瓢は、今に至って、全国の生産の八割を占めると言われています。酢飯の間に入れられた、醤油や砂糖で煮た干瓢が入った手巻き寿司は、鉄火巻きに負けないほど美味しいものです。母が、遠足や運動会には、決まって巻いてくれたのです。

 栃木市も商いの町でしたが、城下町でもあるのですが、壬生の現代の街は、ゆったりと落ち着いた風情が感じられていました。幕末の長州藩の人、高杉晋作が一度、この街を訪ねて、剣の他流試合をしています。その道場が残されていか、資料館の方に聞きましたが、剣の手合わせをしたのは事実でも、どこだったかは記録が残されていないとのことでした。

 まだ十代だった晋作は剣に負けて、鼻っ柱を折られて、悔しい思いで、この街を去ったのですが、令和の訪問者は、干瓢の匂いを想像しながら、ちょっと空腹な感じで、東武鉄道に乗って帰宅しました。

.