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「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。(ゼカリヤ書14章6〜7節)」
若い日には、思ってもみなかった年齢、想像したこともない「記念日」を迎えて、いろいろな感慨が、想いの中に浮かんできます。
元気な父がいて、クリーニングに出したワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨き上げた革靴、そんな出立ちで、朝玄関を出て行き、電車に乗って通勤し、一日働いて帰ってくる、そんな日を繰り返していました。休みには、家の前でキャッチーボールをしてくれ、たまに東京に連れ出してくれて、家では食べたこともない様な西洋料理を食べさせてくれました。観劇もさせてくれたのです。分厚い広辞苑や字源を買ってきては、黙って使う様にしてくれました。出張帰りには、焼売、温泉饅頭を、会社帰りには、ケーキや鰻や餡蜜やソフトクリームを買ってきてくれました。
時々、社会情勢を聞かせてくれたりしました。小説とか週刊誌を読まない人でした。プロ野球の巨人軍のフアンで、家では、小型ラジオを耳につけて、横になって聞いていたのです。スタルヒンや沢村栄治を知っている世代でした。後楽園球場にも連れて行ってくれたでしょうか(兄に連れられて行ったかも知れません)。時代劇の好きな私に、俳優の実名を教えてくれたことがありました。知り合いだったのでしょう。
中学校時代を過ごした、親戚の家に連れて行ってくれたこともありました。継母の葬儀に、電車に乗って、なぜか三男坊の私を連れて行ってくれました。布団の上で、羽交絞めされたり、抱きすくめたり、髭面でホッペホッペヨをされたのです。電車通学する高校生の私の後をつけて、私と父の間にいた女子高生たちの会話を盗み聞きして、家に帰ってきては『◯◯と、うわさしてたぞ!』と話してくれたこともありました。病気一つしないで丈夫でしたが、初めての入院で、そのまま家に帰らず、六十一で天の故郷に帰って行ってしまいました。
母は、よく五人もの男の世話をしたものだと感心してしまいます。買い物をし、井戸から水を汲み、火鉢に火を起こし、料理をして弁当を含めて三食食べさせてくれました。電気洗濯機を家で使い始めたのは、上の兄が、運動部に入って、練習帰りに、上級生の泥で汚れた分厚い練習着を持ち帰ってきてから、父が買ったのです。それまでは盥(タライ)で、洗濯板を使っていました。掃除もし、学校から呼び出しを喰らうと、怒られに出掛けてくれました。
愚痴など、父への不満など、近所の人の噂など、芸能界の話題など、母の口から聞いたことがありませんでした。近所の出戻りの若い女性や未婚の女性、弱っている人たちを訪ねては、教会にお連れてして、証をしていました。自分では聖書を読み、家族や知人たちのために祈り、賛美をし、献金もしていました。小さな体で、働き蜂の様に動き回っていた人でした。
子どもたちが大きくなって、日中いなくなると、おめかしをして新宿などに出かけて、デパートで買い物をするのが唯一の楽しみだったそうです。トラックに轢かれて、両足切断も危ぶまれるほどの大怪我をして、一年近く入院しました。また卵巣癌で、これも一年近く入院したこともありました。相部屋には、長く治らないで居続ける〈病室名主〉がいて、みんなをいじめていると言っていました。ぶん殴ろうと思いましたが、母にやめさせられました。
すぐ上の兄と義姉とが、父と母の《黄昏の日々》の面倒を、亡くなるまで看てくれました。父も母も満足だった様です。母は老齢年金があって、それを貯えていたのが、亡くなった後、だいぶ経ってから郵政省から連絡があって分かりました。お金を残してくれていました。家内が病んだので、大部分を兄たちと弟が、治療費に使う様にしていただいたのです。幸せの薄い父と母でしたが、二人とも信仰をいただいて、精一杯生きて平安のうちに、天に凱旋しています。
父と母の黄昏には、光があったと思います。母は、一度も父に手を挙げられたことはなかったそうです。父の悪いことは一度も口にしませんでした。子どもたちに拳骨を落とす父でしたが、それも明治男の愛情表現だったのでしょうか。さて、お姉さんだった家内とお兄さんだった私も、今や人生の黄昏時を迎えています。五十一年めに入って今、今まで見たことのない光が輝いているのを感じるのです。
上の娘が、聖書のことばを贈ってくれました。
「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。(エレミヤ17章7〜8節)」
まだ実らせる「実」があるのですね。あるご婦人が、『お二人は、私たちの手本です!』と言って励ましてくれました。うれしいことです。子や孫たち、友人たちが👍をしてくれました。
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