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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11章28、30節)」
この写真は、私たちの小朋友の写真です。市内の小学校に入学し、ちょうど一週が過ぎています。この様に、四月に見られる光景で、一番微笑ましいのは、小学校入学の一年生の「ランドセル姿」でしょう。体に余るほどの大きなランドセルを背負いながら通学する姿は、可能性に満ち溢れている姿です。六年後には、背中にチョコンとのせられるほど、体が大きく成長しているのが、興味深いのです。
もう一つは、「重荷」を負う人の姿を象徴しています。徳川家康は、次の様に言いました。
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。』
まさに、当を得た人生訓です。ところで、イエスさまは、重荷を負いかねたら、『わたしのところに来なさい。』と言われました。一人では負い切れない重荷があるのを知っておられるからです。人の孤独や生きづらさの問題です。そんなに難しい重荷や課題、そんなに多い重荷や問題が分かっていてくださるのです。
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中国の華南の街の朝な夕なの風景は、お爺ちゃんやお婆ちゃんが、小学生を送り迎えしていて、孫が負うべきカバンを、年寄りが背負って後をついていくのが見られて、不思議に思ったのです。《長幼の序(孟子の勧めた訓戒)》の中国で、『こんなことでいいの?』と、いつも思っていました。しかもお昼に送り迎えに行き、下校時にも迎えるのです。
この幼い友人は、どんな重荷を負いながら大人になっていくのでしょうか。このお嬢さんには〈行く道〉、私たちには〈来た道〉ですが、その重荷を負って、一緒に歩んでくださるお方がいると言う約束です。それは、小麦を食べるヨーロッパや中近東で見られる光景ですが、二頭の牛が小麦を挽いたりする時に、牛は「軛(くびき)」に繋がれて、同じ方向に、同じ速度で歩きながら、小麦を粉にします。そうすると、きめの細かな小麦粉ができるそうです。
私たちの《軛の相手》が、イエスさまだと言うのです。私の歩く速さに合わせて下さるし、速く歩く必要のある時は、無理なく導いて下さるそんな、《軛仲間》なのです。私は、もう長く、そうしていただいて歩いて来ました。足が腫れることも、傷付くこともありませんでした。歩けない時には、このお方が、背負ってくださったのを感じたものです。
ここまで来るのを長く感じた道でしたが、実際には、ほんのわずかな道のりだったなあと、今になって思うのです。そうして今の地点があります。もう少し行かなければなりませんが、ご一緒くださるお方がいて下さるのは、なんと感謝なことでしょうか。
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