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箱根越えは、東海道を旅する人には難所だったそうです。高速道や新幹線を使って、箱根峠を越える必要のない現代人には、縁がなさそうです。その箱根を歌った、「箱根八里」があります。壬生町の出身の鳥居忱(まこと)が作詞、滝廉太郎が作曲しています。
箱根の山は 天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)へ 後方(しりえ)に支ふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き 杉の並木
羊腸の小徑は 苔滑らか
一夫關に當るや(あたるや) 萬夫も開くなし
天下に旅する 剛氣の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩根(いわね) 踏みならす
かくこそありしか 往時の武士
箱根の山は 天下の岨(そ)
蜀(しょく)の桟道(さんどう) 數(かず)ならず
萬丈の山 千仞の谷
前に聳へ 後方にささふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き 杉の並木
羊腸の小徑は 苔滑らか
一夫關にあたるや 萬夫も開くなし
山野に狩りする 剛毅のますらを
猟銃肩に 草鞋(わらじ)がけ
八里の岩根 踏み破る
かくこそありけれ 近時のますらを
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壬生城の城址公園の堀を渡る橋の袂に行くと、この歌のメロディーが聞こえてきました。解説の板書を見ますと、壬生出身の鳥居忱の作詞だとありました。お父上は、壬生藩の家老でしたが、明治維新以降、東京大学や東京芸大で教鞭をとった方です。
古き良き時代の日本語が溢れていて、意味が難しいのですが、箱根峠を通りますと、大陸の「函谷關」が、どういうところであるか、どれほど難所だったということが分かったのでしょう。中国に倣って、今の神奈川や東京や埼玉や栃木を「関東」と読んだのですが、函谷關ほどに「箱根の関」を超えるのに難儀したのでしょう。
この函谷關は、二箇所あったそうで、霊宝の函谷関を「旧関」「秦函谷関」、洛陽に近くのあ新安の函谷関を「新関」「漢函谷関」などと呼んで区別したそうです。洛陽から教え子が来ていて、『私の愛する古都においでください!』と誘われたことがありましたが、行かないで帰国してしまいました。この洛陽は、漢隋唐の時代には、都が置かれていました。
全く縁のない地に住み始めて、家内の体調も落ち着いていることもあって、周辺の街を訪ねたい思いに駆られて、県を跨がない小移動は可とばかりに、出かけようかなと思っているところなのです。壬生町の町立歴史民族資料館で、奇しくも鳥居忱を知った、先週の訪問でした。
夏の聖会が、箱根で行われていた時期があって、ニ、三度参加したでしょうか。明治期には、多くの若者を集めた夏季学校が、箱根で行われました。ある年、内村鑑三が講演を行なったのです。その話は、若者たちの心に、大きな感銘を与えました。その講演内容が、「後世への最大遺物」として、後になって出版されています。今でも、愛読されている一書です。
(箱根の関所跡、函谷關です)
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