昭和

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大きな手術をして、数年たった頃に、家内を誘って、中部山岳の山の出湯に出掛けたことがありました。落ち葉を敷きしめたような、渓谷の細い山道を上り詰め、県境近くにあった、晩秋の冷泉を沸かした湯治宿でした。

大きな手術痕を持った年配の男女が、肩を寄せ合いながら、病歴や闘病の様子を語り合う、まさに病友の同窓会さながらの湯でした。家内は、女湯に入ったのですが、男湯は冷泉で、小さな気泡を含む炭酸泉で、手術の傷跡にも付着するのです。宿の常連に言わせると、『それがいいのだ!』そうで、静かに身体を沈めていました。

当時、私たちは四十代でしたが、初老の方が、『湯を出たら、私の部屋に来ませんか。お茶を一緒にしましょう!』と、家内と私を誘ってくれたのです。手土産なしで、部屋を訪ねると、床の間に、“ アコーデオン ” が置いてあって、『音楽家なのかな?』と思ったのですが、聞かずじまいでした。

茶菓でもてなしてくださった後、この方が、『一緒に歌いませんか!』と、アコーデオンを手にとって、歌に誘ってくださったのです。それは、倶楽部に入る前に、お酒を飲んでは歌ったことのある歌謡曲で、お酒をやめてからは、歌うことのなかった歌謡曲でしたから、久し振りのことでした。

西条八十の作詞、万城目 正の作曲で、「旅の夜風」と言う歌謡曲でした。

花も嵐も 踏み越えて
行くが男の 生きる道
泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
月の比叡を 独り行く

優しか君の ただ独り
発たせまつりし 旅の空
可愛子供は 女の生命
なぜに淋しい 子守唄

加茂の河原に 秋長けて
肌に夜風が 沁みわたる
男柳が なに泣くものか
風に揺れるは 影ばかり

愛の山河 雲幾重
心ごころを 隔てても
待てば来る来る 愛染かつら
やがて芽をふく 春が来る

哀調の溢れる、父や母が二十代の頃に流行っていた歌なのです。新婚時代を過ごした「京都」が歌い込まれていて、昭和の息吹を感じさせる歌詞でした。うる覚えの私は、この方の導きで歌い、それにつられて、何と家内も歌ったのです。歌謡曲など歌ったことのない彼女が、その様に歌ったのには、驚いたのです。

郷愁を感じさせる日本の風景や日本人の営みがあって、多くの人に愛唱され続けてきた歌でした。39歳で、大手術をした後、渓谷沿いを入った鄙びた温泉宿に、湯治で、何度か泊まったことがあったので、知らない宿ではありませんでした。

湯治宿の午後の一時に、《日本人の私》が、家内と一緒にいたのが思い出されます。穏やかな初老の男性で、病を語ったのですが、仕事も自慢話も、何も語らず、けっこう楽しい交わりをいただいたのです。その宿は、重症な病後の方が、好んで投宿する宿でした。《病友》、《宿友》のよしみで、親しく談笑し、さながら湯屋も、招かれた部屋も、医院の待合室のようでもありました。

あの宿も、すでに営業をやめられてしまった様です。小川のせせらぎの渕に、ひっそりと建てられた、古びた木造の宿でした。床板が歩くと、キシキシと音がしたのが懐かしいのです。昭和の風情の中で、昭和人の交流が、昨日のことの様に思い出されてまいります。

ああ言った宿が消えてしまうのは、なんとも寂しいものです。話好き、歌好き、食好き、寡黙な方、寂しがり屋など、人生のいろんなところを通って来た、中年から初老の人たちの好む宿でした。そう、そんな宿に、また行ってみたい思いがしています。熊本を訪ねると、決まって温泉に連れて行ってくれる《泉友》がいます。夫人が術後の闘病中の友を誘って、肥後の湯も北関東の湯も行ってみたいものです。
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栃木人

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ここ栃木で、近代歴史上で、最も著名な人は、田中正造でしょうか。田中正造は、現在の佐野氏の出身で、栃木県選出の衆議院議員でした。1901年10月に議員辞職をして、直訴の準備をします。12月10日、帝国議会の開院式当日、日比谷公園の近くで、『お願いがござります、お願いがござります!』と言って、明治天皇に直訴するのです。ところが警察官に阻まれて、叶いませんでした。しかし、その死を覚悟した直訴は、新聞各社に、好意的に取り上げられて、世論を動かすに至ります。その時期訴状の一部に、

「・・・魚族絶滅し、田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ、業に離れ飢て食なく、病て薬なく(中略)壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり・・・」とありました。足尾鉱山から流れ下る鉱毒の水が、渡良瀬川流域の田畑に、領民の生活水に、絶大な被害を加えていたのです。

田中正造は、田畑が汚染されるを看過ごせませんでした。領民の窮状と現状を、日本社会に知らせることができたのです。田中は、警官に手で拘束されたましたが、時の政府は、『単に狂人が馬車の前によろめいただけだ!』と言って、大事にしないで不問にしています。時の政府は体面保持するとに終始したのです。それで、田中正造は釈放されています。

この人の素晴らしいのは、妻カツさん宛に遺書を書いていることです。決死の覚悟の栃木人、佐野人、小中村民でした。また直訴直前には、奥さんに〈離縁状〉を送っていました。自分のする天皇直訴の罪の責を、愛妻に負わさないため、恥をかかせないためにでした。こう言った人を、《真の日本人》、《日本男児》、六十になる1ヶ月前の勇気ある快挙でしたから、《理想的日本老人》と言うべきでしょうか。

71歳で客死しています。自分の家ではなく、旅の講演先の地で没しています。農民の子、と言っても庄屋の家系この子でしたが、武人にも勝る生き方をしたことは賞賛に当たります。その家系は、足利尊氏の末裔で、佐野のお隣の「足利」とも関わりがあると言うことです。

亡くなられた時の様子を、“ ウイキペディア” は、次の様に伝えています。「死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋一つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石三個、日記三冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。」とです。やはり、生きてきた様に、この人は死んで逝かれたのです。ここは立派な人物を生み出した県であります。

(天皇直訴をする田中正造です)
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百日草

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言うまいと、心で決めながらも言ってしまう真夏に、「百日草」が、今朝咲きました。朝顔は、自分の仲間が、次々と花開くにを眺めながら、自分も咲き続けています。土用も過ぎて、甲子園の高校野球も始まろうとしています。どのスポーツも、この暑さの中での練習も試合も、厳しいでしょうね。水分補給と随時休憩が必要です。
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朝顔便り/8月3日

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こんなに暑くても、しっかりと咲いてくれる朝顔、ホットリップス、マリーゴールドです。朝夕の水遣りは、汗をかくほどですが、こんなに綺麗に咲いてくれるのは、大きな励みです。「いのち」とは、驚くほどのものなのですね。太陽の熱射にも匹敵するような《いのちの躍動》なのです。今日は、次兄に誕生日、何歳になったのでしょうか。いまだに優しい兄です。
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恩送り

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この記事は、“ カラパイア ” の2017年3月5日に掲載された記事の転載です。

「恩送り」とは、かつて誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ることを意味する。人々のやさしさは伝播していき、世界はやさしくなれる。それが「ランダムアクトオブカインドネス」という考え方なのだが、そんな言葉を知らずとも、地道に自分が受けた恩を返し続けている人がいる。

 貧しかった少年時代、近所の人の好意に支えられ暮らすことができたというこの男性は、当時の恩を忘れることはなかった。

 中国の瀋陽市にて、貧しい子どもたちを学校に通わせてやりたい。そんな思いから30年間にわたって月給のほとんどを寄付している清掃員の男性が人々の注目を集めている。
 
 彼の物語はソーシャルメディアを通じ大勢の人に感銘を与え、彼の生き方を称える一方で、恩送りの素晴らしさを考える投稿も相次いだという。

月給のほとんどを30年間寄付

 中国の瀋陽市にて過去30年間、月給のほとんどを子どもたちの教育のために寄付している56歳の路上清掃員、Zhao Yongjiuさんのエピソードがネット上で話題となっている。

 この心優しい男性は、毎朝4時半に自宅を出て夜9時まで働いている。月給は日本円にしておよそ4万円。現地ではまともな暮らしがどうにかできるぐらいの額だが、彼は生活費をぎりぎりまで抑えている。
 
 そして残りのお金は “貧しい子どもが通学して正規の教育を受けられるように” と、全額寄付しているのだ。

 彼はこうした寄付を30年間続けており、これまでに寄付した総額はおよそ285万円で子ども37人分の学費に相当するという。

 だが男性はもっと子どもを支援をすべきだと考えており、自分の唯一の財産を売り払い、家賃およそ1万円のワンルームアパートに引っ越したりもしている。

近所の人たちの善意に支えられた少年時代

 Zhao Yongjiuさんが寄付を始めるようになったのは、子どものころの個人的な経験がきっかけだという。彼は1976年に15歳で父親を亡くし、それ以後は残された母と共に食べていくのも厳しい生活が続いたという。

 だが、近所の人々は何年にもわたってZhao Yongjiuさん一家の生活を助けた。彼らは自分たちのお金を出し合ってくれることもたびたびあったという。

 身近な人々の優しさに触れて感謝し、感銘を受けながら成長した彼は、人助けの人生を決意。子どもの頃に隣人たちから受けたたくさんの恩を次の世代である子どもたちに送ることにしたのだ。

恩送りを続ける真のヒーロー

 彼のエピソードは中国のソーシャルメディアにかなりの衝撃を与え、大勢の人が感動しそれぞれの思いをシェアした。

 そこには”彼のような人が大勢いればこの世界はもっと良くなるだろう”、”みんなが困っている人々に少しでも援助をすれば世の中は本当にずっと良くなるだろう”、というツイートもあった。またZhao Yongjiuさんを真のヒーローと呼ぶ人も声も上がっているという。

 自分が受けた恩を別の誰かに送る恩送り。それはもちろん金銭的な援助に限ったことではない。すべての人が困っている誰かにささやかな手助けができたなら、あらゆる人が精神的な豊かさを持つ世の中になるはずだ。

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こう言った善意は、瀋陽の街で、この竿さんがしているように、世界中の街でもなされている、「《隣人愛》なのでしょう。父の青年期、この街で一時期過ごしています。この隣町の撫順から、天津で学んでいた大学の学生が、よく天津のアパートに来られ、数ヶ月一緒に生活をしました。そんなことを思い出しています。

(ザオさんの仕事中の姿です)
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勝者

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アテネ・オリンピック出場をかけた、ある女子競技の予選の試合が行われていた頃ですから、2004年だったでしょうか、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。

監督が、19才の高校を出たての選手に、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、大会に出場できないのです。

国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのです。『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も必要悪なのだ、そういった風潮がみられたのです。

5、60年も前に、中学や高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私の所属していたクラブの練習は、ものすごいものがありました。

インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪循環があったのです。

あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていないんですね。

何時でしたか、力士のAが相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。この世界は年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、大会に出場できないのですね。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

これも何時でしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も見たたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、ある流派の空手の稽古の中に感じた「殺意」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 
 
あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めたときに見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。あの暴言を、『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいでしょうね。もちろん健康であるためには、肉体の鍛錬も必要に違いありません。欠点だらけの私を指導してくださったアメリカ人の起業家は、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。その代わりに、愛の配慮で忠告や助言や激励をしてくれたのです。若かった私が、《人生の勝者》になるためにでした。
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朝顔だより/8月1日

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こんなに暑い夏は初めてです。北関東・栃木での初めての夏ですが、だからと言って一番の暑さではなく、日本全体、いえ地球全体、北半球全域が暑いのです。そんな「厳重警戒」を、朝の9時から示し始め、昼前には「危険」と警告されています。

次男が行ってきました様に、水分補給、塩分摂取、外出注意(彼が言ったのは外出禁止でしたが)で過ごしましょう。今日から、隣の家具屋さんは、週休2日になっています。後の5日が祝される様に願っています。縁側の朝顔が、10輪も咲きました。ハイビスカスもマリーゴールドもコスモスもホットリップスも日々草が、いのちを輝かす様に咲いています。
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おめでとう!

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このブログ(日記)、「悠然自得」を始めまして、今月で満九年になろうとしています。子や孫に、彼らの父と祖父が、どう思い、どう考え、どう生きてきたか、どこに向かっているのか、そんな事々を書き残して、伝えたくて始めたのです。これを発行する以前、二度ほど別のタイトルでブログを発行したのですが、自他両面の都合で廃刊になり、2010年9月に、この「悠然自得」の発行を再開したわけです。

意外な人が、『読んでいます!』と言ってくださったりしていますが、『こんなこと書いて公にして好いの?』など、子どもたちから、何回も言われながら、ちょっと恥ずかしい事まで書いてきています。それでも大分抑え気味の執筆なんです。最近では、応答が余り寄せられませんが、家内の病状などを知って、電話やメールをしてくださる方もおいでです。

それでも、何度か絶筆をと思ったり、掲載した記事が欠落してしまったり、故障があったりしましたが、結構長く続いてきているのに、我ながら感心しております。始めましたのは、タイトルでお分かりの様に、中国に行って四年ほど経った頃でした。ですから、最近は兎も角、ほとんどが、華南の地で書いたもので、海を隔て、時を隔てて思いを連ねた事になります。

今日は、闘病中の家内、《糟糠の妻》の《誕生日》なのです。肺の腫瘍が大きくて、血管と気道と食道とを圧迫して、手足がパンパンに腫れ、呼吸が困難になり、食べ物を飲み込めない〈三重苦〉、さらに胸水も肺の中に、多量にありました。ですから退院もできませんし、組織検査をしてもはっきりした事が分からず、治療法も決まらずにいて、ほぼ諦めてました。きっと誕生日も迎えられずに、召されると覚悟していたのです。

そんな中、次男が見つけてくれた “ サプリメント ” を買って持ってきてくれて、入院治療中の母親に飲む様に勧めていました。十代の子育てに難儀した息子で、最後に産み落とした息子への愛情は特別でした。その子から、自分の母を切々と思い、回復する様にと、願いの籠った “ サプリメント ” は、どんな薬よりも、薬効があったのでしょう。主治医の反対を押し切って、内緒で家内はそっと服用していました。それが奏功したのが、危機を脱する事が出来た、一つの理由です。

華南の省立医院で診てくださった医師、その判断と治療、そして帰国を勧めてくださって、獨協大学病院にかかり、若い主治医が判断し、繰り返してくださった入院検査と治療、退院後の継続治療、これを受けられたことは感謝に尽きません。この主治医の背後に “ カンファレンス ” の経験豊かな医師陣がおいでで、懇切に治療をし、いまも継続して外来の医師の手で、治療が行われています。
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もちろん、世界中で家内への思いが盛り上がり、手が挙げられ、応援の声が響き渡ったのは勿論のことでした。大陸の華南の街からは、三組もの友人たちが来てくださいました。家内のために労を惜しまず、家を掃除してくれ、食事を作ってくれたりしたのです。みなさんが溢れ、こぼれ出る様な愛心を示してくださいました。これも大きな回復をもたらした理由だったのです。みなさんに、これほどまでに愛され家内が、実に羨ましいほどでした。

『今晩が山かも知れない!』と医師が、看護師に小声で言われた事も、家内は聞いた事があったそうです。幾度か〈死線〉を越えたのです。ところが最近は、元気になる様にと、席を設けてくださって、鰻や金目鯛の寿司や牛しゃぶまでも、食べられるほどの回復を見せている今です。何しろ、誕生日を迎えられたと言うのは、一たび諦めた私には、夢を見ている様な奇跡なのです。

戦時下に、大阪の泉州は堺で生を受け、戦災の東京郊外で火の中を潜り、苦学しながら学び、保育に生涯を捧げたのです。ところが、私が紹介され、結婚し、4人の子を成し、4人の孫のバアバの今です。この子たちや孫たちの激励は、大きな癒しの力に違いありません。懐かしい恩師の著作を開いたりして、家内は若き日を思い起こしています。

友人が住む様にしてくださった家で、ピアノを弾き、長く歌ってきた愛唱歌を口ずさみ、友人たちから送られてくる書を読み、幼い日から読み続けてきた愛読書を手元から離さずに、日を過ごしております。またハガキを書いて、感謝と近況を友人や知人に送ろうとしています。一昨日の夕方は、高校生の頃から、一緒に笑ったり泣いたり、行き来をし、同じ様な病と闘っている友に、一冊の本を贈呈していました。

本やクッキー、下着や寝具、野菜や果物、さまざまな愛の籠った物を戴くのですが、35年過ごした地の特産の《白桃》が、一昨日の昼前に届きました。あの地で、同じ師から一緒に学び、一緒に働き、共に子育てをし、一緒に総二階の事務所を建て、親しく交流した友人夫妻からの家内への贈り物でした。息もつかずに家内は泣きそうになって、ジュウシーな桃を食べていました。嬉しかったのでしょう。この様な多く篤い愛は、病を敗走させている事でしょうか。

家内と私は、13年生活した大陸の華南の地に、帰りたいと切望しています。御心ならば、きっと戻る事ができるでしょう。同じ心をもって、慕ってくださる友人たちと一緒に、彼の地で、共に時を過ごしたいと願っています。そこは私たちの《第二のふるさと》だからです。叶えられても、そうでなくても、この願いは変わりません。

梅雨が終わって、猛暑の到来に、〈暑さ指数33℃〉の「危険」、外出禁止、水分補給を、息子二人 が知らせて、留意する様に勧めてくれています。多くのみなさんの愛に感謝の家内と私です。

まだ闘病の日は続きます。家内は、御心の中にいたいと願っております。時々、『おまけを生きてるんだもん!』と彼女は言っています。何よりも、その《おまけ》をくださり、生まれる前から注がれ続けている、造物主の愛顧、憐れみ、激励、祝福を、一身に受けて、今日迎えた誕生日を、心から祝福します。先ほど(早朝5時)小さなプレゼントを、大きな感謝と愛とであげましたら、ハグでお返ししてくれました。誕生日おめでとう!

(家内の特愛の「マーガレット」、第二の故郷の風景です)

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