栃木人

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ここ栃木で、近代歴史上で、最も著名な人は、田中正造でしょうか。田中正造は、現在の佐野氏の出身で、栃木県選出の衆議院議員でした。1901年10月に議員辞職をして、直訴の準備をします。12月10日、帝国議会の開院式当日、日比谷公園の近くで、『お願いがござります、お願いがござります!』と言って、明治天皇に直訴するのです。ところが警察官に阻まれて、叶いませんでした。しかし、その死を覚悟した直訴は、新聞各社に、好意的に取り上げられて、世論を動かすに至ります。その時期訴状の一部に、

「・・・魚族絶滅し、田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ、業に離れ飢て食なく、病て薬なく(中略)壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり・・・」とありました。足尾鉱山から流れ下る鉱毒の水が、渡良瀬川流域の田畑に、領民の生活水に、絶大な被害を加えていたのです。

田中正造は、田畑が汚染されるを看過ごせませんでした。領民の窮状と現状を、日本社会に知らせることができたのです。田中は、警官に手で拘束されたましたが、時の政府は、『単に狂人が馬車の前によろめいただけだ!』と言って、大事にしないで不問にしています。時の政府は体面保持するとに終始したのです。それで、田中正造は釈放されています。

この人の素晴らしいのは、妻カツさん宛に遺書を書いていることです。決死の覚悟の栃木人、佐野人、小中村民でした。また直訴直前には、奥さんに〈離縁状〉を送っていました。自分のする天皇直訴の罪の責を、愛妻に負わさないため、恥をかかせないためにでした。こう言った人を、《真の日本人》、《日本男児》、六十になる1ヶ月前の勇気ある快挙でしたから、《理想的日本老人》と言うべきでしょうか。

71歳で客死しています。自分の家ではなく、旅の講演先の地で没しています。農民の子、と言っても庄屋の家系この子でしたが、武人にも勝る生き方をしたことは賞賛に当たります。その家系は、足利尊氏の末裔で、佐野のお隣の「足利」とも関わりがあると言うことです。

亡くなられた時の様子を、“ ウイキペディア” は、次の様に伝えています。「死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋一つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石三個、日記三冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。」とです。やはり、生きてきた様に、この人は死んで逝かれたのです。ここは立派な人物を生み出した県であります。

(天皇直訴をする田中正造です)
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