甘え

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〈◯◯自慢〉、力の強い人は〈力自慢〉、我慢強い人は〈我慢自慢〉、盆栽の世話上手は〈盆栽自慢〉と言うのでしょうか。自分には、何か自慢できる物や事があるのか、考えを巡らしていますと、いくつか出てきました。育ての責任のない孫が、水泳大会で活躍し、野球のピッチャーで三振を取り、試験で100点を取り、絵画展で表彰されたりされたと聞くと、〈マゴ自慢〉している自分がいます。

それも、人に言ったりしないで、秘かに思っているだけです。まあ自分も例外なく、〈マゴバカ〉なのが分かります。今朝、30分ほどの所に出掛けている間に、娘から “ FaceTime ” の電話があったのだそうです。夏休みに、兄が参加した倶楽部のキャンプで、娘が皿洗いの奉仕をしたのだそうです。その奉仕振りを見ていたリーダーから、『アニーはリーダシップがあっていい。将来・・・』と褒められたと言ってきたそうです。

父親にあまりほめてもらえなかった娘は、自分の〈子自慢〉をし、ババは〈マゴ自慢〉をし、その話を聞いたジジも〈マゴ自慢〉を重ねています。褒められる事が、ほとんどなかった私も、孫が褒められていると聞いて、ちょっと羨ましくなってしまうのです。私には関係がないのですが、もし褒められたら、《有頂天にならない事》なのだそうです。

褒められなかったのですが、〈煽てられた事〉が、かく言う私のはよくありました。そして〈有頂天〉になっては、転がり落ちて鼻っ柱をへし折られる経験を繰り返してきたのです。

さて自慢話ですが、もう一つあります。肺炎になって、死ぬ経験を何度かした私は、小学校三年くらいまでは病欠児童でした。それで、死なせまいと母は、私をかばいながら、隣街の国立病院や、国家公務員共済組合病院に連れて行ったのです。決まって、錠剤や水薬をもらって帰って来て、朝昼晩と、枕元に置かれた薬を飲んだのです。いやって言うほど飲んでいました。

それででしょうか、元気になってからは、腹痛とか頭痛などで苦しむことはほとんどなく、薬を飲まなくなったのです。大人になっても、薬嫌いもあり、健康になったのでしょうか、薬はほとんど飲みません。実は私は、長く〈薬を飲まない自慢〉でした。兄達も友人たちも、決まった薬を飲んでいるのに、自分は飲まないできたのです。

ところが、血圧が高くなって、町医者にかかったのです。それから、飲むべきを、飲み忘れてては思い出した時に、飲むを繰り返していました。ところが高血圧が180になって、ちょっとふらついてからは、処方された薬を、毎朝食後の一錠を飲み始めて、今日までの4週、きっちりと飲んだのです。

もう〈薬飲まない自慢〉ができなくなってしまいました。エコー検査と血液検査で、脂肪肝と高中性脂肪が見られるとかで、今日、掛かりつけの医師から、〈甘い物禁止令〉を下されてしまいました。こちらの駅前の団子屋の「かりんとう」が美味しくて、つい手が出てしまうのですが、「糖尿病」になりたくなから、『やめよ!』と言われて帰って来ました。団子屋の前の道を避けての帰宅でした。これで、〈普通の人〉になったのでしょうか。

そう、マゴたちの成人式や、結婚式を見届けるまで、生きようと思い始めている、この頃です。でも、「かりんとう」が、もう食べられない “ アーア!” の夕べで、〈月一〉くらいいいかなの甘えた私です。
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赦し

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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、「江戸の仇を長崎で」、「恨み骨髄に至る」、人の感情の中で、過去の仕打ち、近親者への不正や騙しなどでもたらされる、「恨み」の及ぼす影響力は大きく、人の折角の一生にとって、ずいぶんとマイナスになっているのです。

幸い、自分は、加害者で恨みを買われても、被害者で恨みを被っても、一晩寝て仕舞えば、忘れることができて、けっこう都合よく生きてこれたかなと思ってしまいます。傷ついた人には、迷惑な話でしょうか。

同じ「うらみ」を表す漢字に、「恨み」、「怨み」や「憾み」があります。

“ 漢字の使い方ものしり辞典 (宇野義方監修・大和出版刊)”には、

○「恨み」
<人や物・状態を、憎いと感じる心理>をいいます。その動詞が「恨む」で、「人を恨む/金を恨む/相手のやり方に恨みを懐く/恨み続けて20年」などと使います。【「恨」 漢語辞典には、「hèn ①怨,仇视:怨~。愤~。仇~。痛~。② 为做不到或做不好而内心不安:~事。悔~。遗~。抱~终天。]☞これはブロガーが付け加えています】

○「怨み」
「怨念(おんねん)」などと使われるように、<自分に対して害を及ぼした人間への強い憎しみ>を表し、
「怨み言を言い続ける/恩も怨みも忘れて再出発する」などと使いわれますが、現在では「恨み」と代用表記されています。【「怨」漢語辞典には、[発音yuàn ①仇恨:~恨。恩~。宿~。~仇。~敌。~府(大家怨恨的对象)。~声载道。②不满意,责备:埋(mán )~。抱~。~言。任劳任~]ー】

○「憾み」
<思ったとおりにならず残念だ・・・・・・>の意を表します。
「今回の人事には公平を欠く憾みがある/表現しつくせなかった憾みが残る」などで、謝罪会見などでよく耳にする「遺憾(いかん)に存じます」(残念に思います)の「憾」です。
「遺憾」の「遺」は「のこる」だから、「憾み」が「遺(のこ)る」で、「残念に思う」という意味になるわけです。【「憾」 漢和辞典には、[hàn ①失望,心中感到不满足:遗~。缺~。~事。~恨。抱~终生。②怨恨:私~。“请君释~于宋”]】

最も強烈な「うらみ」は、「怨み」の様です。朝鮮語の「恨han」は、日本語と、日本人の理解とはだいぶ違います。そこで、“ SAPIO ” に次の様な記事がありましたの で、ご紹介します。

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 個々の人間が育った環境や受けた教育によって個性の違いが生まれるように、民族にもそういう個性の違いはある。
 そして韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。
 日本でも同じ漢字を使った「恨(うら)み」という言葉があるが、「恨(ハン)」と「恨(うら)み」は似て非なるもの、いや全く違うものと考えた方がいいのかもしれない。
 この「恨(ハン)」という言葉を一言で説明するのは非常に難しいので、韓国の歴史に沿って説明しよう。韓国というより朝鮮半島の国家と言った方が正確だが、これは新羅にせよ高麗にせよ大変に「辛い」国家であった。中国という超大国がすぐ北側に存在し、隙あらば朝鮮半島の国家を隷属させ中華文明に呑み込もうとしていたからである。
 古代において、百済や高句麗というライバルを圧倒し、初めて朝鮮半島に統一国家を打ち立てた新羅が選んだのは、中国大陸の国家に政治的には屈辱的な服従をする代わりに、直接の統治は免れて民族としてのアイデンティティーをかろうじて保つという方法であった。具体的に言えば、朝鮮半島の国家の首長である国王は常に中国大陸の国家の首長である皇帝の家臣という形をとったということだ。朝鮮半島の歴史は「中国をご主人様とする」歴史だったのである。
 もちろんそれに対しては強い不満も激しい怒りもくすぶっていたに違いないが、中国という巨大な軍事国家の前では、それを現実に解消する事は不可能であった。だからこそ、それを封じ込めて、逆に生きるエネルギーに変換させようとした。
 国内においても国王や貴族など上流階級は徹底的に庶民を絞りあげた。圧政に苦しんだ庶民も、やり場のない怒りをそうした生きるエネルギーに変換させるしかなかった。
 このような「恨み辛みや不満を、生きるエネルギーに転換した状態」を「恨(ハン)」という。
 理不尽な支配や暴力に対する怒り、あるいは恨みといったものは、確かに人間のエネルギーの源になる事は事実である。しかしそれを活用しようとすることは、長い目で見て決して有効なやり方とは言えない。なぜならそれは、憎悪という最も非理性的な感情を人間活動のモチベーションにするということだからだ。そういう人間は、いやその人間の集団である国家も必要以上に攻撃的になり非理性的にもなる。
※SAPIO2013年12月号

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菊池寛の作品に、「恩讐の彼方に」があります。江戸の仇を、豊前国の耶馬渓で、討とうとするのですが、中川実之助は、怨みを昇華して、親の仇、市九郎(了海)を赦してしまう物語があります。

こう言った話は例外にあるのですが、赦しは、仇を打とうとする人を《救うこと》になるのです。怨み骨髄で生きるより、「赦し(ゆるし)」を生きる方が好いに違いありません。

(秋の耶馬渓の様子です)

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闇と光

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オリエントの古典の中に、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と記されてあります。

『子育てを東京で!』、『繁華街の近くでない街に家を!』と、父が考えて、父が戦後していた事業の関係で、東京の多摩地区の空家になっていた社宅だか、工場長宅だかを借りて、先ず、そこに住んだのです。その後、通勤に、もう少し便利だった都心から離れた遠い街に家を見つけて、4人の子を学校に行かせて、育ててくれたのです。

その空家は、けっこう大きな家だったからでしょうか、トイレが寝室から遠かったのです。 トイレと言うよりは便所、厠(かわや)と言った方が似合っていました。薄暗くて気味悪い場所だったのです。夜中に、その〈暗闇〉に入って行くことができずに、母親を起こしてついて行ってもらったのを思い出します。地震、雷、火事、親爺、〈四大怖いもの〉に、その「便所」を加えたかったほどです。

最近の世界は、豊富な電力のお陰で、どこへ行っても明るいのです。また物は有り余るほどあって豊かですし、便利さもこの上もないほどです。でも、〈人心が暗い時代〉になってしまっているのを、残念ながら感じて、心が沈んでしまうのです。

自分の抱えている〈心の闇〉を、どうすることもできずに、孤独で、孤立してしまっているのでしょうか。もしかしたら、何かに拘り過ぎているのか、また何かに憑(つ)かれてしまった様に、とても信じられない行動に走ってしまう人が多くなっている世情です。

バスや電車に乗り合わせた隣の人に、何かされないかと、疑心暗鬼になって、誰も信じて上げられない様な、警戒心ばかりが先行してしまう時代になった感じがするのです。都心から離れた北関東の街に住むので、都会の孤独はありませんが、かと言って、余所者だとわかる私たちは、ゴミ捨てで顔を合わす隣人に挨拶や会釈をしても、なかなか近い関係ができない現状です。

中国の華南の街では、家内は、隣人とも、倶楽部の友とは勿論のこと、小区の事務所の女性の係員の婦人とも、すぐに仲良くなって、特別な配慮をしてもらったりで、お礼に巻き寿司を巻いては届けたりして、近い関係がありました。それに比べると、日本の社会は、警戒心が強くなっていて、関係が疎遠になっている様に感じてなりません。

家族にも、隣人にも、友人にも理解してもらえず、相談のラインがない人が多くて、ついには追い込まれて奇怪な行動をとってしまうのでしょうか。《隣人愛》の欠如した時代と言ったらいいのでしょう。夫婦、親子、兄弟姉妹との関係も希薄になってしまった様です。

貧しかった時代には、こう言ったことは稀にしかなく、ほとんどなかったのかも知れません。富んで豊かになって、格差が社会に広がったのと同時に、人が孤立し始めたに違いありません。このままですと〈闇〉がもっと深くなってしまうに違いありません。心に〈闇〉を抱える現代人に、帰って行く大きく柔かな《懐(ふところ)》が、どうしても必要です。責めることもなく、無条件で抱え込んでくれる《大きな懐》がです。そうすれば〈心の闇〉に、光が差し込んで、温め、明るくしてくれるに違いありません。

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琥珀色

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1961年、まだ高校生の時に、マラカスの音で陽気なリズムの歌が流行りました。西田佐知子が歌った、日本語翻訳の「コーヒー・ルンバ」でした。

昔アラブの 偉いお坊さんが
恋を忘れた あわれな男に
しびれるような 香りいっぱいの
琥珀(こはく)色した 飲みものを
教えてあげました
やがて 心うきうき
とっても不思議 このムード
たちまち男は 若い娘に恋をした
コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の 情熱のアロマ
それは素敵な 飲みもの
コーヒー モカマタリ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
(2回繰り返す)

    (間奏)

コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の 情熱のアロマ
それは素敵な 飲みもの
コーヒー モカマタリ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ
みんな陽気に 飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ

このコーヒーは、エチオピアが原産だそうです。これが中東・イスラム地域からヨーロッパへ、さらに全世界に広まったものだそうです。イスラム世界では、初期には宗教的な秘薬として僧侶にだけ飲用が認められていましたそうで、それが今では、誰もが飲んで、ちょっといい気分を味わえる雰囲気を作り出しています。中国に若者たちが、スプーンで珈琲を飲んでいる荷を見て、一つの文化だと思いました。

今朝の朝食のメニューです。友人に勧められた「野菜スープ(今朝は冷蔵庫の中の玉葱、人参、ジャガイモ、アスパラガス、ズッキーニ、長芋、枸杞〈くこ〉の実と棗〈なつめこれは中国と栃木の友人がくださった物〉、トマト、生姜片、細切れ牛肉、コンソメ、ケチャップ、醤油で煮たもの)※野菜などを折々に差し入れして下さる友がいるのです」、卵焼き、食パン、バナナヨーグルト、飲み物でした。ちょっと豪勢ですが、なかなか多く食べられない家内のために奮発しています。
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家内は、白湯(友人が下さった電子ウオーターで作った水に、息子がくれた浄水器を通した水を沸かしたもの)を飲むのですが、今朝は忘れてしまい、これから出します。いっぽう、私は、「コーヒー」を、朝に限って、友人が送ってくださった雲南やキリマンジャロやウガンダ産のコーヒー豆を、次女の婿が置いて行ってくれたグラインダーで挽いて、紙で濾過して淹れたものを、一日一杯だけ飲むのです。以前、病む前は、家内も一緒にコーヒーを飲んだのですが、今は休止中です。

飲み比べして、味が分かるほどの通ではないのですが、どれを飲んでも美味しいのです。初めて飲んだのは、インスタントコーヒーだったと思います。思いっきり砂糖とミルクを入れたものだったと思います。でも、「コーヒー党」の私への《友愛》の温かな味はよく分かります。琥珀色をした珈琲から立ちのぼる湯気が、朝に似合って素敵なのです。今朝はヨーロピアン味でした。

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今昔

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一度行ってみたいのは、「ハウステンボス」で、浦安の「デズニー・リゾート」とどう違うかを知りたいのです。「デズニーランド」だって、子どもたちが小さい頃に行ったきりで、30数年ご無沙汰ですから、全くと言うほど変わっているに違いありません。

なぜ、「ハウステンボス」に行ってえみたいのかと言いますと、実は、コースターやメリー・ゴーランドに乗りたいわけではないのです。その敷地になっている場所が、かつて、海外在住者が、敗戦を期して引揚げて来た港であり、援護局のあった場所だからです。意気揚々と、海外雄飛で出て行かれたみなさんが、戦に敗れて、着の身着のままで帰国して、祖国の土を、再び踏んだ港、佐世保の浦頭港なのです。

両親や兄たちや自分だって、大陸や朝鮮半島からの帰国の時期が遅かったら、そう言う引揚者の家族であった可能性もあったのです。浦頭の港に、中国大陸やインドシナ半島から、139万1646人の帰国者があったそうです。あの頃、よくラジオから流れていたのは、作詞が増田幸治、作曲が吉田正の「異国の丘」でした。

今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

『もう一度、祖国の土を踏みたい!』との切々たる願いを持っていながら、残念なことに、外地に捨て置かれ、異国で過ごしていた日本人が、その思いがかなって帰国した土地です。この他に、福岡の博多港、福井の舞鶴港も引き揚げの港でした。

さて、平和な平成の時代、帰国時に、上海から船に乗って、丸2日の船旅で、祖国の島影が最初に見えてくるのは五島列島なのです。長崎の平戸沖を通過し、しばらく行くと北九州が見えて来ます。門司から関門海峡を過ぎて、瀬戸内海を航行し、大阪南港に入するルートなのです。自分は、引揚者ではなく、大陸で教師をしながら、ビザの関係での帰国時に、船に乗ったのです。
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飛行機では感じられない祖国の風を、肌に感じられるので、船での帰国の感慨は一入(ひとしお)なのです。『浦頭港に降り立った人たちは、検疫を終えると7キロ離れた援護局まで歩いた。宿舎に数日滞在して衣服や日用品を受け取ると、最寄りの南風崎(はえのさき)駅から列車でそれぞれの古里へ向かった。援護局は5年後に閉局。跡地には今、ハウステンボスが立つ。』と、西日本新聞は伝えています。今昔(こんじゃく)の違いが、大き過ぎてしまいます。

(上は浦頭港、下は五島列島の様子です)
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秋桜

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玄関の左脇の窓の下で、“ 秋桜(コスモス) ” が咲きました。玄関の右側に、 “ ハイビスカス ” で、両手に花です。家内は声を挙げて喜んでいます。
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いのち

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今か今かと咲くのを待っていた、“ ハイビスカス ” が、今朝、一輪咲きました。ホームセンターで180円で買った鉢植えです。天候不順でなかなか咲かずにいたのです。雨が上がって、真紅の花びらが、鮮やかです。家内が、弟に贈った “ ハイビスカス ” が、咲き続けていると言ったのを聞いて久しく、『わが家でも!』と思いながら、やっと買ったものです。

葵、芙蓉の仲間で、南国の花です。華南の街は、この花で溢れかえる様に、どこででも咲いていますので、今朝この一輪を喜びながら、彼の地のことに思いを馳せております。いつも思うことですが、真っ黒な土の中から、こんなに鮮やかな紅色の花びらを見せるのが不思議でなりません。

人間だって、どこで生まれ、どこで育っても、誰から生まれ、誰に育てられても、最悪の環境の中に生まれ育っても、この花に勝るいのちを宿しているのですから、《美しい存在》と定められているのです。そう母が教えてくれたのを思い出しています。

(5時半、それから三十分後、60分後の花の様子です)
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四の五の

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時々、読んだり、聞いたりする言葉に、『四の五の言うな!』があります。落語で聞いたことがあり、最近では、中華圏のある方が言っていたそうですが、そんな表現が、中国語にあるのかどうか分かりませんが、新聞記者が、そう記したのでしょうか。

一度も使ったことがない言葉なのですが、言い訳をして、なかなかすべきことをしない人に、親方や上司が、『あれこれと、つべこべと言い訳を言ってないで、早く仕事に取りかかれ!』との意味なのだそうです。一説には、中国の古典の「四書五經(ししょごぎょう)」が、御託(ごたく)を並べていて、要領を得ない難解さがあるのを皮肉って言ったのではないかと言う人がおいでです。

中国語で、これを「不说四五bushousiwu」と訳せますが、何だか、「四書」の「論語」、「大學」、「中庸」、「孟子」、「五經」の「易經」、「詩經」、「礼記」、「春秋」は難解で、一般民衆にとっては、「四の五の言っている難解書」だったに違いありません。

武士の子たちは、老師の読むのに従って読み、素読を繰り返したのだそうです。明治初期に青年の内村鑑三も新島襄も新渡戸稲造も、アメリカに留学して英語を学ぶ前に、幼少の頃から、「四書五經」素読をし続けてきた、古い日本人の素養を持っていたのです。

けっこう、そう言ったものでは、彼らは満足していなかったので、欧米の文化や教養に触れた時に、西洋の《物の考え方》を受け入れることができ、真の国際人になれたのでしょう。と言うと、内村たちは、幼い日からの伝統的な漢籍の学びに、「四の五の言わなかった」に違いありません。より優れたものに触れた時、古きを捨てる《進取の精神》を、彼らが宿していたからなのでしょう。

父は、何か弁明したり、自己を正当化しようとした私に、『言い訳するな!』と言ったことを覚えています。どうも、〈言い訳〉は男のすることではないことを教えたかったのでしょう。〈言い訳〉をしないで、ここまで生きてくることができました。そう「四の五の言わなかった」ことになります。
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