朝顔の種の芽が出て、6月3日、今朝の芽の伸び具合です。12の芽が、そのまま育ってくれると嬉しいのですが。家内のベッドの部屋の窓の下に、フラワーポットを置きました。また、「朝顔だより」を発信します。よろしく応援をお願いします。
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大好きな味噌汁の具が、みなさんにはあるでしょうか。父は「豆腐」だったでしょうか。すぐ上の兄は「里芋」、母が好きだったのでしょうか、よく作ってくれたのが「蜆(しじみ)」でした。この蜆の産地で有名なのは、〈青森県津軽半島の十三湖〉、〈茨城県水戸市の涸沼(ひぬま)〉、〈島根県松江市の宍道湖(しんじこ)〉で、これらが三大産地と言われているのです。
母は、宍道湖の湖畔の出雲市の出身ですから、ご当地産品の蜆汁で育っていました。自ずと蜆が好物だったのでしょう。血でしょうか食習慣ででしょうか、今晩も蜆の味噌汁を満喫したところです。多分、今晩が一番たくさん蜆を一個一個、貝殻から取っては食べ取っては食べて、家内は少ししか食べないので、その分まで食べて、大いに満足な夕べでした。
昨日、水戸在住のご夫妻が、家内を見舞ってくださいました。入院中もおいで下さった方たちです。中部山岳の街の事務所に出入りしてくださったご家族で、今はご長男が30歳になられて、すでに独立されて、東京圏で働いておいでだそうです。次男の方は、留学を終え、ご両親と共に住んで、お仕事をされている様です。息子さんたちの《工事中(すなわち思春期の真っ只中の時期の子育て中)》に、一緒に三年ほど過ごしたご家族です。
私たちを、とても助けて下さったご家族なのです。奥様が、その蜆を、メロンや野菜などと共に、差し入れして下さったのです。一緒に、お昼に食事をして、水曜日にお見舞いに来て下さった方、中国の華南の街の大学で、日本語を教えておられて、不思議に出会って以降、行き来している友人と、そのお友だちでした。お二人が、差しれて下さった物をおかずに、一緒に食べたのです。私は、このご主人の《フアン》なのです。
冷蔵庫は、お見舞いの品々で一杯です。それで、今夕、その蜆を味噌汁の具にして、作ったのです。満足で、2度もご飯にかけて食べてしまい、至福を味わったところです。この《蜆汁飯》が、何よりも好きだと、もう告白してしまいましょう。和牛のステーキよりも、ドリアンよりも、ラザアニアよりも、これこそが大好物なのです。安上がりにできてる自分に、ちちょっと物足りないのですが、それでいいのです。
先週は、弟も見舞ってくれましたので、けっこう賑やいだ一週でした。明日は、家内の通院日、長男が送り迎えのために来てくれると言っています。今週も、中国から友人夫妻と息子さん( 留学中)が来訪の予定です。
(上は、ご夫妻からいただいた花、下は、涸沼の蜆漁です)
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これは、広島県呉市・灰ヶ峰に咲く「ノイバラ(野茨)」です[☞HP/里山を歩こう]。秋になると、赤い実をつけるのです。雑草の様に強い生命力を持っていると言われています。
巨人軍で活躍し、大リーグでもリリーフ・ピッチャーとして名を馳せた、《雑草魂》をモットーとした、上原浩治投手が、先ごろリーグ途中で引退しました。実に男らしい《引き際》でした。なかなか踏ん切りが付けられない人が多いのですが、涙と共に決意を表明していました。
大学受験に失敗し、一浪で入学を果たしています。この間の事情を、『・・・隣町の予備校に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。』と語っています。
阪神大学リーグで活躍して、名門巨人軍に入団した方です。遅咲きの花の様でしたが、野球人としては、《この人ありき》、強い野球チームだからではなく、野球の醍醐味を身をもって表してくれた《名投手》でした。第二の人生の活躍を期待します。
(下は秋に実をつける「ノイバラ」です)
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今日から「六月」、陰暦ですと「水無月」、英語ですと “June” です。娘が送ってくれた家内の外出用の帽子、帽子マニアの私はドウイッツユアーセルフの店で買った麦わら帽子で、散歩を決め込んでいます。懐かしい「蚊取り線香」も、玄関用に買い置きして、夏の準備を滞りなく終えています。
今日からは、「衣替え」ですね。もうすでに〈Tシャツ〉姿になっていまが、学生のみなさんは、夏服に替わります。中学に入った年、霜降りの夏用w.制服を初めて着たのです。よその通学生と違っていて、ちょっときまり悪かったのを思い出します。
また「梅雨」に入る月でもあります。ジメジメしますが、これがあったればこそ、お米が育つわけです。
今朝咲きし くちなしの又白きこと
これは、星野立子、高浜虚子のお嬢さんで、女性の俳人の作です。そういえば、前に住んでいた、華南の街の小区の正門を入って、幼稚園の地境の間に、くちなしの花が、実に綺麗に咲き、芳香を漂わせていました。山の避暑地の村に行くと、紫陽花も咲いていました。
イスラエル民族に、次の様な掟があります。
「国のうちにいるあなたの兄弟の・・・貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。(申命記15章11節)」
人は、様々な理由で貧しくなり、貧しくされます。小学校の同級生に、Nくんがいました。年齢は2才上でしたが、就学時期が遅れて、同級でした。同年齢の弟は二級下にいました。この二人は、寄り添う様に登校して来たのですが、雨の日には、破れた番傘を二人でさしていました。やがて休む様になったのです。雨傘が使えなくなったからです。それに彼らの家を、近所の悪戯小僧たちが、〈オランダ屋敷〉と呼んでいました。
「赤い花なら曼珠沙華・・・」で始まる「長崎物語」は昭和14年の作曲でしたが、人気があったのか、昭和30年代頃まで歌われてました。この歌は、作詞が梅木三郎、作曲が佐々木俊一でした。よくラジオから流れていました。
1 赤い花なら 曼珠沙華(マンジュシャゲ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
2 うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち
3 坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が あゝ流れ行く
ララ流れ行く
4 平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
一番の歌詞に、「阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る」とありましたので、〈雨漏りのする家」という意味で、ボロ長屋に住んでいたから、からかいの意味でそう言っていました。私の生涯に出会った方の中では、このNくんが一番貧しかったのです。悪戯をして、彼も含めて4、5人で立たされた時、私の提案で、ポケットの小銭を出し合って、〈Nくんのカンパ(援助)〉をしたのです。
国民同士の連帯感の強さは、イスラエルが筆頭でしょうか。それは、「掟」で、《弱者救済》を民族として定めて、実行して来たからです。今はどういう割合か知りませんが、世界の食糧事情は、三分の一が〈丁度よく〉、三分の一が〈有りあまり〉、三分の一が〈貧困〉だと言われていました。21世紀の今も、そう変わりがなさそうです。
申命記のみことばの「手を開く」は、英語では、“Thou shalt open thine hand wide unto thy brother,to thy poor,”と訳されています。『持ち物や財産を握り締めていてはいけない!』という意味なのでしょう。『周りにいる社会的弱者と共に生きよう!』という命令なのです。
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