和合

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昨日、[HP里山を歩こう]から、広島県庄原市と三次市の様子が配信されました。上は、「ユキワリイチゲ」、下は「セツブンソウ」です。今、おります栃木市の友人宅の庭の木にも、芽が出て、初春の息吹が見て取れます。北関東の寒風の中にも、陽の光が強くなって来ているこの頃です。

南側の居室は、応接間ですが、家内のためにと言って、ご用意下さり、また電動ベッドも置いて下さいました。家内の入院の留守の間、昨晩から、私が臥ております。障子と襖(ふすま)のある和洋折衷の部屋に入り込む陽は、ポカポカして来て、もう障子を閉めて遮らないと暑過ぎるほどです。

華南で住む家は、10階建ての2階で、冬の間は、隣の棟の影になって、午後2時頃にならないと西日が入らないほどですが、ここの和風の家は、障子の陽の光があって、父の家以来、久々のことで、晴れた初春の陽がいっぱいで、とても懐かしく感じられます。

和紙一枚が、室温を保ち、強い陽を遮るのです。古来、木と藁と草の日本家屋は、優れた建造物です。昨日家内の治療が始まりました。副作用に向かって、『私に触れるな!』と命じるほどの強さで、立ち続けていると告白しています。このベッドに帰って来て、病気に勝つ決心なのでしょう。

そんな母親を激励しようと、今週末は、一昨日、来日した次女の夫と二人の子、長男家族、長女夫婦、次男夫婦の全員が、ここにやって来ると言っています。この日曜日には、友人夫妻、ご子息の家族、家内と私から広がった15人が、この家に集います。そして、午後は、闘病中の家内に、病院で会えることを願って、見舞う予定です。

今日は、兄と弟が見舞ってくださると言って来栃の予定です。私の愛読書に、「和合して暮らしなさい」とあります。中国からも見舞いたいと二組の方たちが、ビザの申請中だと言って来ました。そんな二月の様子です。

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DNA

私は、「統計学」を学んでみたいと、学校に入って仕切りに思った時期がありました。中学校に入って、とくに数学が好きでした。とくに「幾何学」に関心があったからでしょうか、折れ線や棒グラフなどで、集計している表を見て、何を伝えようとしてるかを考えるのが好きでした。

研究者になるなら、「考古学」か「統計学」を学んでみたかったのです。「統計学」は、とうの昔に諦めたのですが、「考古学」は、いまだに関心を向けたい気持ちでいるのです。住居跡や古墳などを、掘り返して、《古代の浪漫》に触れてみたいのです。

消えかかっていた火に、油を注いだのが、一昨年、札幌の整形外科病院入院中の病友でした。実に楽しそうに、《オホーツク文明》を語ってくれたのです。埼玉や熊本の遺跡にも造詣が深く、時を設けては訪ねていると言っていました。

《古代への浪漫》は、子どもの頃に心に刻んだので、時々、思いの内に湧き上がって来て、土や草や人の営みによって覆われていたものを、掘り起こし、掘り出すことの興味を植えられたのでした。遥か昔の生活を、その時代に人々は、どんな思いで送っていたのかを想像するのが楽しいからです。

ただ生きるだけではなく、愛したり、傷ついたり、赦したりしていた、古代の人たちの精神生活などに、思いを向けて見るのも興味深いのです。父の祖先や、母の祖先って、どこに住んで、どこへ移って行って、それを、どう繰り返したんだのだろうか。この私が、やがて生まれて来て、21世紀に、どうな風に生きるのだろうかなどと、子孫のことを考えたことがあったのでしょうか。

何度も行った動物園で、日本猿が、懐かしそうに目を向けてくることも、語りかけてくることも、一度もありませんでした。それらは異種の生き物であって、親族ではないからです。オホーツクを挟んで、大陸には、同系の血族がいるのでしょうか。人のDNAとは、どこまで遡れるのでしょうか。科学が、特定できるのでしょうか。家内の遺伝子が検査されていて、その結果が出てきました。

そんな医療のこちら側で、「義の右の手」で、家内の右の手を、固く握っておられる方がいる、そう語りかけられた私は、不安や恐れから解放されたのです。それが家内への語りかけでもあることを、今朝、早暁に願ったのです。今日から、治療が始まります。

(ウィキペディアによる「DNA」です)

長崎

長崎の旧正月の行事の様子を、若き友人で、長崎大学に留学中の学生さんが、この写真を送ってくれました。

わー、綺麗な写真ですね。ありがとう!長崎は、長く、中国やオランダと交易してきた出島があったので、中国の文化を大事にしている街ですね。春節の気分を日本で味わえてよかったですね!歌(民歌)で、長崎はよく歌われています。異国情緒を残しているからですし、江戸(東京)から遠い街だからでしょうか、そこへ行くと日本以外の国が感じられて、よく若者が西洋医学や漢学を学びに出掛けたそうです。

《憧れの異国》の香りがたまらなく良かったのかも知れません。この時期に、長崎と熊本に行く旅行計画を立てたのですが、延期になってしまいました。家内は、長崎を訪ねたことがなかったのと、懐かしい若き友人がいて、訪ねたかったのです。

日本や長崎を楽しみながら、良い学びをしてください。家内は、病気と闘っています。祷援をありがとうございます。雪は降りましたか?お元気で!


小石

今、滞在しています栃木県ですが、ここに「栃木ふるさと学習」と言うサイトがあります。そこに、「田中正造」と言う栃木県人の項目があります。田中正造は、天保12(1841)年11月3日に、栃木県佐野市小中町(旧旗川村)で、旗本六角家の名主である富蔵、サキ夫妻の長男として生まれています。名主になった正造は、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。第一回の衆議院選挙に当選し、衆議院議員になっています。

[田中正造は足尾購読問題の解決にためにどんな努力をしたのか]

(1)国会で演説

被害状況を調査した田中正造(当時51歳)は、あまりの被害のひどさに、鉱毒の解決のために、自分は一生をささげようと決心しました。そして、翌年、国会で、「政府は、すぐに銅の生産をやめるように命令すべきである。」と演説しました。これは、我が国の公害問題を取り上げた最初の出来事でした。しかし、政府は、富国強兵策(ふこくきょうへいさく)など国の事情もあり、被害の原因が、鉱毒によるものかどうかわからないとして問題にしませんでした。

(2)被害状況の調査を専門家に依頼

正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に頼んで原因を調査してもらったところ、『銅山から流れ出る水には、銅・鉄分・硫酸が非常にたくさん含まれている。それが原因で動植物に被害が出る。』という結果が出ました。

政府もその結果を受けて、ようやく鉱毒を起こさないために新しい機械を取り付けるよう命令しました。ところが、その機械では、鉱毒をくい止めることはできませんでした。その後も正造は、何度も国会で訴えましたが、鉱毒問題は一向に解決しませんでした。

(3)明治天皇(めいじてんのう)に直訴

農民が願い出ても、国会で訴えてもだめだと知った正造は、明治天皇への直訴しかないと、命がけの覚悟を決めて議員をやめました。

明治34年(1901年)12月、国会開会式の日、正造は黒の羽織、はかま姿の正装で被害の様子を書いた直訴状を高く差し上げながら、明治天皇の乗る馬車めがけてかけよりました。正造は、すぐに警官に捕まってしまいました。しかし、この事件がきっかけとなって世論が盛り上がり、とうとう、政府は鉱毒調査会を作ることになったのです。

この調査会が示した計画は、渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)・巴波川(うずまがわ)の合流する地点の谷中村をつぶして遊水地を作り、洪水を防ぐというものでした。しかし、これでは本当の解決にはならないため正造たちはこのやりかたに反対しました。

何回も国や県に訴えましたが、そのたびに取り下げられ、明治44年(1911年)には谷中村に遊水地がつくられました。昭和48年(1973年)、日本の公害問題の原点といわれる鉱毒問題を起こした足尾銅山が閉山となりました。

田中正造は、この問題を解決するために、73歳で息をひきとるまで身をささげて運動を展開し、正義を貫き通したのです。人として、志操堅固であって、正義を愛し、それを生涯貫いた方です。この方の財産は、鉱毒反対運動などのために使い果たしたそうです。死去したときは、無一文でした。死亡時の全財産は、信玄袋1つで、その中には、書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と馬太伝の合本だけだったのです。

どうして小石が信玄袋に入れられていたのでしょうか。彼の日記にこう記されてあります。『正月九日 うつの宮ニ来泊す。思うニ予正造が道路ニ小石を拾うハ、日なる小石の人ニ蹴られ車ニ砕かるるを忍びざればなり。海浜に小石の日なるを拾ふハ、まさつ自然の成功をたのしみてなり。人の心凡此くの如シ。我亦人と同じ。只人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ、衆人の中ニハ見もせずして踏蹴る行くもの多し。(田中正造全集十三巻384頁 日記 大正2年(1913)1月)』、生まれ、没した佐野市は、ここ栃木市の隣町です。

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1969年2月に発表された、作詞が寺山修司、作曲が田中未知の歌に、「時には母のない子のように」がありました。

時には母のない子のように
だまって海を見つめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない

時には母のない子のように
長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない

時には、人って、「母のない子」になってみたい願望があるのでしょうか。同じタイトルで、“Sometimes I feel like a motherless child”という、黒人霊歌がアメリカにもありました。

Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long way from home
A long way from home
(True Believer)
A long way from home
A long way from home

私は、甘ったれっ子だったのでしょうか、学校や、遊びから家に帰ると、『ただいま!』と言う代わりに、決まって、『お母さん、いる?』と言って帰って来たのです。近所のおばさんに、それをからかわれたことがありました。死にかけた私を抱いて、回復を願ってくれた母を覚えているからでしょうか。

雛が、母鳥りと巣を後にして、自立して行くように、人生の旅に出て、ヤンチャをしては、傷ついては、後ろめたく巣に帰る日を重ねて、遂に自立したのです。よく〈長い手紙〉を書いては、母に感謝を表したでしょうか。胎内の羊水の記憶を呼び覚まそうと、海を見に、潮騒を聞きに行ったでしょうか。今は帰天した母を時々思い出します。〈母なくば我あらず〉、まさに子の本音を語れるようになったのでしょうか。

母のない自分など考えたことも思ったこともありません。〈母ありて我もあり〉なのです。自分の母親に、4人の子どもたちが、それぞれに思いを向けています。そして母親の危機に、共に立とうと、共に痛もうとしている今です。

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転寝

 

 

「転寝」、これを〈うたたね〉と読みます。昨日、ある集まりに出掛け、その足で、次女運転の車で、家内を入院先に見舞いました。まだインフルエンザの影響で、面会全面禁止で、会うことが叶いませんでした。

〈掟破り〉の常習者の私は、病棟の看護師さんに、家内の着替えを渡す時、メモを添えて、家内に悪知恵を入れるのです。携帯電話を持たないので、病棟四階のエレベーター脇にある、入院患者用に公衆電話まで、電話をするふりをして出てくるように、伝えるのです。その隣の電話機で電話をかけるそぶりの私と家内と次女と会話するという策略です。この2日ほど成功し、ちょっとの間ですが、家内と言葉を交わすことができたのです。ところが見破られてしまい、昨日は、策が功を奏さず、会わずに帰ることになってしまったのです。

もちろん、よく手をアルコール消毒し、マスクをかぶりながら、ナースステーションに行くのですが。それで、ちょっとがっかりした私は、帰宅して、次女の淹れてくれたお茶を飲んで、煎餅をかじって、炬燵に横になって、そのまま「転寝」をしてしまったのです。

この〈転寝常習者〉でもある私は、華南の街の家でも、それで何度も風邪を引いていて、家内に、厳しく叱られてきました。しばらくは守るのですが、忘れっぽい私は、〈約束破りの常習者〉で、昨日もしてしまいました。

きっと、チョキレートって、この〈転寝〉と同じで、習慣性があり、何とも言えず気持ちがいいし、美味しいのでしょうね。〈転寝〉は格別です。叱られるのを承知で、繰り返してしまうのです。ものの2、3分の〈転寝〉って、ほんとうに旨いのです。でも今は叱られずに、思い出しては、首を引っ込めてしまいました。

(多摩美術大学工芸学科の野口裕史教授に作品です)

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もう30年にもなるでしょうか、私の事務所を訪ねて下さったご婦人が帰宅されて、ある詩人に、私のことを話したそうです。その詩人が、岡山県瀬戸内市にある「長島愛生園」を訪ねた折に、みなさんに、その話をされたそうです。次兄に左腎を移植提供した、その話にいたく励まされたと言って、貴い愛心を、送ってr下さったことがありました。けっこう大きな金額でした。

それを手にして私は驚いたのです。国から与えられるわずかな手当から、みなさんが、こんな自分のために捧げてくれた愛の籠ったお金でした。どうしても使うことができませんでした。当時、私たちを激励し下さった恩師が、脳腫瘍の闘病中でした。それで、その愛心を治療費の一部にと言って、ご家族にお渡ししたのです。

この長島愛生園に、かつて、明石海人と言われる歌人がおいででした。小学校の教師や銀行勤をした方だったそうです。25才の時に、病気になられたのです。奥様と二人のお嬢様を残して、入院され、後に、長島愛生園に転院されました。そこで短歌を、林文雄氏、小川正子医師から学んで、短歌作りをし始めるのです。

ご自分を「天啓の歌人」と称して、秀作を詠んだ方です。しばらく「天刑」と、ご自分の病を呪ったのですが、やがて「恩寵」に預かり、「天啓」として、ご自分を、ありのままで受け入れて、38才の生涯を、瀬戸の長島で終えられています。昭和14年のことでした。お父様の死、お嬢様の死にも、立ち会えない悲しみを歌った歌もあります。

鉄橋へかかる車室のとどろきに憚(はばか)らず呼ぶ妻子がその名

癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし

吾子(あこ)が佇(た)つ寫眞の庭の垣の邊に金柑の木は大きくなりぬ

その明石海人が、終の住処とした同じ島で、同じような魂の慟哭(どうこく)の中から、光を見出した方たちからの愛心でした。同じ様に、私たちが12年も住み続けた、中国華南の街の友人たちが、「一家人yijiaren/家族の一員)」と呼んで、愛心を下さいました。それは中国の街での生活費の8ヶ月分ほどになるでしょうか。さらに、金銭では計れない、家内の入院中のお世話に費やした時間と犠牲とがあります。そんな応援の中と、この街に住まれる友人夫妻の善意を受けて、今、家内は、北関東の病院で闘病しております。

(瀬戸の朝焼けです)

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父の会社が、東京の浅草橋、日本橋、新宿にありました。これらの会社に、連れて行ってもらったことがあります。どこも父が責任者であったのかどうかは知りません。でも、いろいろなことを父はしていたのです。会社経営の才覚があったのかも知れません。

ところが、晩年の父は、名もない酒造会社に、様々な備品や什器を卸す事業をしていた所で、パートで働いていました。日本橋などに通勤していた時には、誂えの背広にワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨かれた革靴の出で立ちでした。自慢の<オヤジ>だったのです。ところが、パートをしていたときは、すぐ上の兄のお古を着たり、ジャンパー(ブルゾンとは言えませんでした)を羽織り、野球帽をかぶって出かけていました。

全くお洒落をしなくなった父を見て、年を取ることが、そういう変化なのかと、ちょっと意外に感じていました。もしかしたら、競争社会の緊張から解かれて、普通の初老のおじさんで満足だったのかも知れません。

その父が61才で召されたのです。私たちが結婚して一ヶ月経たない時でした。ですから、私たちの四人の子どもたちは、おじいちゃんを写真でしか知らないのです。父の晩年の面倒をしてくれた下の兄がよく言うのは、『親爺を温泉に連れてって、背中を流してやりたかったなあ!』なのです。この兄が、一番父親孝行をしたのかも知れません。姿格好も、父を一回り大きくしただけでそっくりなのです。

この父は、横須賀で生まれ、品川から中学校に通い、秋田の学校に学び、旧満州、京城、山形、甲府、そして東京を幾個所か住んだ人でした。母が一年近く入院した時は、会社に、ほとんど行かないで、母の面倒を見て、まだ父の家にいた弟と私の食べ物の世話もしてくれていたのです。

それでも収入があったのが不思議でした。怖い父でしたが、母には優しい父でした。生きていたら、今春百九才になります。先日書類を調べていたら、右肩上がりの独特の筆跡で、『心頭滅却すれば 火も自(みずから)涼し 安禅は必ずしも山水を須(もち)いず。』と書いたメモが出てきました。晩唐の詩人•杜荀鶴の詩です。明治生まれの世代は、こんなことを学んだのですね、すごい!

『心持ち次第で、どのような状況でも環境でも、それに即して生きていけるのだ!』と、父は生きたのでしょう。旧暦の正月、中国では春節であります。

(絵は”百度”から「杜荀鶴」です)

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壬生菜

 

 

徳川幕府の崩壊直前、京都は、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まって来て、不穏な状況下にありました。その都の治安維持には、京都所司代と京都町奉行が当たっていましたが、それだけでは手薄で、防護できなくなってきていました。それで幕府は、「浪士組」を組織して、その任に当たらせようとしたのです。

その動きに応じて、浪士や士分はでない農民の出で、腕に覚えのある者たちが、将来、「旗本」の身分に取り立てられるとの誘いもあって、最終的に、京都守護職・会津藩主の松本容保の下に、「新選組」が組織されます。京都の壬生(みぶ)に、「屯所(とんしょ)」を置いていました。それは、江戸の郊外の多摩の出身の近藤勇、土方歳三らによってなる、武闘する武装集団でした。子母沢寛という小説家が、昭和3年(1928年)に、「新選組始末記」を出してから有名になったのです。

ですから、映画や芝居で取り上げられて、注目されるのですが、私たちが小説や映画で知らされていることと、史実とは幾分かけ離れた部分もある様です。京都の警備が目的でしたが、反幕府の天敵に対して、それを抹殺を図った集団でした。その戦法は、「必ず敵よりも多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。例えば、〈三条制札事件〉では、8人の敵に対し34人の味方を用意し、〈油小路事件〉では、7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を、あらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。」と記録されています。

一匹の百獣の王ライオンの雄を、20匹のハイエナが襲うビデオがあります。死肉を食らって生きるハイエナも、多数で長時間、襲いかかるなら、百獣の王でさえ疲れさせてしまい、弱者集団に負けてしまうのです。今日の〈いじめ〉と、よく似た〈いたぶりの戦法〉です。私の同級生に、「土方(ひじかた)君」がいて、土方歳三の関係者の子孫ですから、土方贔屓(びいき)なのですが、この戦法はいただけません。

農民が士分に預かり、しかも旗本に取り立てられるという誘いは、農民にとっては、この上ない出世の道だったことは分かります。でも時代の趨勢は、はっきりしていましたし、新選組の隊員も承知だったのでしょう。でも現状打開、立身出世への話は、彼らには魅力的だったことでしょう。民主的な時代に生まれて育った私たちには、分からないことなのでしょうか。

結局、組は解体してしまい、新しい時代が到来したわけです。土方歳三は、それ以前、「石田散薬」という自家製の薬の行商を生業(なりわい)としながら、天然理心流の剣術の修行に励みます。28の時に、京に上る、夢見る青年だったのですが、その夢も、時代の流れに押し切られ、近代日本が誕生したわけです。 壬生には、この写真の様な《壬生菜》が栽培され、新選組は消えてしまったのですが、この野菜は、今もなお生き残り、農家の手で生産され、多くの人に食されています。

ここ栃木は「小江戸」と呼ばれ、何となく江戸を感じさせられる街に、ほぼ3週間過ごして、150年も前のことに思いを馳せております。

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これも「一筆啓上賞」をとった、“日本一短い手紙”の一つです。これは第一回の表彰を受けた作品で、主題は、「母」で、東京在住の当時31歳の女性の作品です。

絹さやの筋をとっていたら
無性に母に会いたくなった。
母さんどうしてますか

「ちらし寿司」、きっと母のふるさと、出雲では「ばら寿司」と言ったのでしょうか、京丹後のものが有名で、西日本では、そう呼んだのかも知れません。事あるごとに、母がこの「ちらし寿司」を作っては、食べさせてくれました。

絹さやえんどうの筋を取るのを手伝わされたり、酢飯を作る時、団扇(うちわ)で、炊きたてのご飯に酢を注ぐ時に、団扇(うちわ)であおぐのを手伝ったりしました。家内の味もけっこう旨いのですが、育ててくれた母の味は、比べることのない別格な味なのでしょう。

同じく、その時の作品で、大阪府在住の当時51歳の男性の作品に、

お母さん、
雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。
もうすぐ雪ですね。

があります。涔涔(しんしん)と雪の降る中に生まれたことへの、母親への深い感謝が感じられる手紙です。私も、暮れの押し迫った12月中旬に、家族の住まいとしていた山奥の旅籠の別館で、母が産んでくれました。明方の4時45分、村長夫人が受け止めてくださり、産湯を使わせて、産衣(うぶぎ)を着せてくださったそうです。父が、仕事用に手帳に、そう書き残しておいてくれました。

「垂乳根(たらちね)の母」、4人の子どもたちは、様々なことを思い出しながら、自分たちの母親の危機に、思いを向けている今なのです。先ほど、長男の運転する車で、長女は成田国際空港に向けて帰って行きました。香港で12時間過ごしながら、ニューヨークに向かって、30時間の旅にです。任地が西海岸に変わる時期でしたので、貴重な時間を割いて、母を見舞ったのです。(➡️ 成田空港で、カウンターの係員の好意で直行便に120ドルに手数料で乗り換えられたそうです!)

やっぱり母親の方がいいですね。自分が母親の胎に9ヶ月いた、母との関係にはかないません。次男は、母親のためにと、サプリメントを持ってきて、それを朝夕飲むように、優しく説明し、母親の好きな曲を、“iPod”に、十数時間かけてダウンロードして持ってきました。昨日の日曜日の朝は、それを聴きながら、一人で愛読書を、ベッドの上で読んでいたそうです。

これから次女と、獨協医科大学病院のナースステーションまで、着替えを持って行きます。何と、友人が車を貸してくれましたので、次女が運転して行きます。自動車保険も手続き済みにしてくれています。この友人夫妻の愛には、中国の華南の友人たちと同じような、大きさと深さを感じています。長女の離日に、昨夕は、ご馳走までしてくださいました。そんな月曜日です。

(東広島市に咲く「白梅」です[HP/里山を歩こう])

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