もう30年にもなるでしょうか、私の事務所を訪ねて下さったご婦人が帰宅されて、ある詩人に、私のことを話したそうです。その詩人が、岡山県瀬戸内市にある「長島愛生園」を訪ねた折に、みなさんに、その話をされたそうです。次兄に左腎を移植提供した、その話にいたく励まされたと言って、貴い愛心を、送ってr下さったことがありました。けっこう大きな金額でした。

それを手にして私は驚いたのです。国から与えられるわずかな手当から、みなさんが、こんな自分のために捧げてくれた愛の籠ったお金でした。どうしても使うことができませんでした。当時、私たちを激励し下さった恩師が、脳腫瘍の闘病中でした。それで、その愛心を治療費の一部にと言って、ご家族にお渡ししたのです。

この長島愛生園に、かつて、明石海人と言われる歌人がおいででした。小学校の教師や銀行勤をした方だったそうです。25才の時に、病気になられたのです。奥様と二人のお嬢様を残して、入院され、後に、長島愛生園に転院されました。そこで短歌を、林文雄氏、小川正子医師から学んで、短歌作りをし始めるのです。

ご自分を「天啓の歌人」と称して、秀作を詠んだ方です。しばらく「天刑」と、ご自分の病を呪ったのですが、やがて「恩寵」に預かり、「天啓」として、ご自分を、ありのままで受け入れて、38才の生涯を、瀬戸の長島で終えられています。昭和14年のことでした。お父様の死、お嬢様の死にも、立ち会えない悲しみを歌った歌もあります。

鉄橋へかかる車室のとどろきに憚(はばか)らず呼ぶ妻子がその名

癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし

吾子(あこ)が佇(た)つ寫眞の庭の垣の邊に金柑の木は大きくなりぬ

その明石海人が、終の住処とした同じ島で、同じような魂の慟哭(どうこく)の中から、光を見出した方たちからの愛心でした。同じ様に、私たちが12年も住み続けた、中国華南の街の友人たちが、「一家人yijiaren/家族の一員)」と呼んで、愛心を下さいました。それは中国の街での生活費の8ヶ月分ほどになるでしょうか。さらに、金銭では計れない、家内の入院中のお世話に費やした時間と犠牲とがあります。そんな応援の中と、この街に住まれる友人夫妻の善意を受けて、今、家内は、北関東の病院で闘病しております。

(瀬戸の朝焼けです)

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