壬生菜

 

 

徳川幕府の崩壊直前、京都は、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まって来て、不穏な状況下にありました。その都の治安維持には、京都所司代と京都町奉行が当たっていましたが、それだけでは手薄で、防護できなくなってきていました。それで幕府は、「浪士組」を組織して、その任に当たらせようとしたのです。

その動きに応じて、浪士や士分はでない農民の出で、腕に覚えのある者たちが、将来、「旗本」の身分に取り立てられるとの誘いもあって、最終的に、京都守護職・会津藩主の松本容保の下に、「新選組」が組織されます。京都の壬生(みぶ)に、「屯所(とんしょ)」を置いていました。それは、江戸の郊外の多摩の出身の近藤勇、土方歳三らによってなる、武闘する武装集団でした。子母沢寛という小説家が、昭和3年(1928年)に、「新選組始末記」を出してから有名になったのです。

ですから、映画や芝居で取り上げられて、注目されるのですが、私たちが小説や映画で知らされていることと、史実とは幾分かけ離れた部分もある様です。京都の警備が目的でしたが、反幕府の天敵に対して、それを抹殺を図った集団でした。その戦法は、「必ず敵よりも多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。例えば、〈三条制札事件〉では、8人の敵に対し34人の味方を用意し、〈油小路事件〉では、7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を、あらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。」と記録されています。

一匹の百獣の王ライオンの雄を、20匹のハイエナが襲うビデオがあります。死肉を食らって生きるハイエナも、多数で長時間、襲いかかるなら、百獣の王でさえ疲れさせてしまい、弱者集団に負けてしまうのです。今日の〈いじめ〉と、よく似た〈いたぶりの戦法〉です。私の同級生に、「土方(ひじかた)君」がいて、土方歳三の関係者の子孫ですから、土方贔屓(びいき)なのですが、この戦法はいただけません。

農民が士分に預かり、しかも旗本に取り立てられるという誘いは、農民にとっては、この上ない出世の道だったことは分かります。でも時代の趨勢は、はっきりしていましたし、新選組の隊員も承知だったのでしょう。でも現状打開、立身出世への話は、彼らには魅力的だったことでしょう。民主的な時代に生まれて育った私たちには、分からないことなのでしょうか。

結局、組は解体してしまい、新しい時代が到来したわけです。土方歳三は、それ以前、「石田散薬」という自家製の薬の行商を生業(なりわい)としながら、天然理心流の剣術の修行に励みます。28の時に、京に上る、夢見る青年だったのですが、その夢も、時代の流れに押し切られ、近代日本が誕生したわけです。 壬生には、この写真の様な《壬生菜》が栽培され、新選組は消えてしまったのですが、この野菜は、今もなお生き残り、農家の手で生産され、多くの人に食されています。

ここ栃木は「小江戸」と呼ばれ、何となく江戸を感じさせられる街に、ほぼ3週間過ごして、150年も前のことに思いを馳せております。

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